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15
千歳がいなくて不安だけど、お勤めはしないといけない。あきの姐さんも旦那が武家屋敷に向かったと聞いて不安そうにしている。
下手したら切り捨てられるかもしれない……。
千歳の礼儀正しさを考えたら、そんなことにはならないと信じたい。菊田様だって、民に寄り添うような性格をしてるから……、きっと大丈夫だと、思う。
「千歳がいないので十瀬がこれを伊織屋へ運んでください」
「あ、あい!」
小焼様から仕事を渡された。
車には葛籠が乗っている。微かに生薬の香りがしたので、薬草がつまっているんだと思う。
大門を出て、堤をひた歩く。川を猪牙船が行ったり来たりしてる。船頭が手を振ってきたので振り返しておいた。
小焼様や千歳なら「鬼だ」って騒がれるんだろうなぁ。
伊織屋に着いたので、荷物を抱えて中に入る。
「あ、十瀬」
「配達に来たよ」
「ありがと……」
夢夏が座っていた。薬師としては一人前だから店を任されているんだと思う。
おいらのことは苦手なのか対応がややぎこちない。おいらも夢夏とどう会話すれば良いのかわからない。相手が千歳なら喜んで話しているんだろうけど、おいらだから、受け取りの証を入れてからは黙っている。
「ねえ、あんたさ、千歳あにぃのことどう思ってんの?」
「え、お、おれは……」
「女房は養生所のほうにいるんでしょ? 話してよ」
「好き、だ」
「まだ好きだっての? 女房一筋になるって言ったのに」
「……好きなものは、好きなんだ。ずっと、憧れてた、から」
夢夏の気持ちもわからなくもない。だけど、こいつがいると千歳は幸せになれない。こいつには、千歳を幸せにすることはできない。
「千歳さ、今朝早くから武家屋敷に行ってんだ」
「何で!?」
「……あんたのせいだよ。あんたが、女房を護れなかったから」
元を辿れば全部こいつのせいだ。
夢夏がきっちり女房のおももを護ってさえいれば、こんなことにはならなかったんだ。
……だけど、それがなければ、おいらは中臣屋に買われることもなかった。
皮肉なもんだ。
「千歳おにぃが切られちゃったらどうしよう」
「あんたなら切られそうだけど、千歳に限ってそれは無い!」
そんなことあっちゃいけない。どうしてそんなことを口に出すんだ。やっぱりこいつは千歳の側に置いておけない。おいらが始末してやりたいくらいだ。
だけど、夢夏がいなくなったら、千歳は悲しむはずだ。大切な妹の旦那でもあるから……、手を出しちゃいけない。
おいらは奥歯を噛みしめて外に出る。配達が終わったから、後は店に戻るだけだ。その前に一応隣の養生所を覗いておこう。
「おっ。十瀬か。どうした?」
「配達に来たついでに覗いただけ……」
養生所を覗くとすぐに夏樹先生が声をかけてきた。
夢夏の父親だけど、この人はとても良い人だ。どんなことにも親身になってくれる。優しさが服を着て歩いているような人。
だけど、優しいだけじゃ人は救えない。
「ぬめり薬でも持って行くか? いや、店のほう行ったなら持ってっかな」
「ううん。持ってない」
「そんじゃ、これ持って行きな」
ぬめり薬はいくら持ってても良いもの。いつでも交合すのに使える。
養生所の中は忙しなく動いているけど、夏樹先生だけはのんびりしているように見えた。
「そういえば、千歳はどうした? いつも一緒だろ?」
「千歳あにぃなら、菊田様のお屋敷に……」
「ああ、そっか。十瀬の代わりに行ったんだな」
曖昧に笑うと夏樹先生はおいらの頭を軽く撫でた。手があったかい。なんだか落ち着く。
「あいつは優しいからな。おまえのことずーっと心配してたんだ。おれにだって何回も相談してたぞ。気にしないでくれって言われても気になるってさ」
「千歳あにぃは、優しいから、損するんだ」
「あいつは損しっぱなしだよ。だけど、徳は積んでる。これから何か良いことがあるかもな」
「今すぐにでも良いことがないと釣り合わないよ」
千歳のこれまでのことを考えたら……、今すぐにでも、良いことがないとおかしい。
おいらの言葉に夏樹先生は「そうだな」と答えた。
養生所を出て、堤を歩き、吉原へ歩みを進める。途中で、黄金色のきらきら光る髪が見えた。
「千歳!」
「……ああ、十瀬」
良かった。切られていない。
おいらはすぐに千歳の元に駆け寄って、抱き着く。胸のあたりに顔を埋めて、肺いっぱいに吸い込んだ。千歳のにおいがする。他の男のにおいはしない。
「千歳ごめんね! おいら、千歳に謝りたかったんだ! あきの姐さんとのこと、あれは真に千歳に喜んでもらいたくて――」
「……その話はもういいです」
「う、うん」
落ち着いた声色で静止されたので、おいらは黙る。
同じことを繰り返して謝っても駄目か。これだと夢夏と同じになっちゃう。
「それよりも、菊田様ですが……、了承してくださいました」
「え」
「もう、十瀬は菊田様に抱かれなくて良いです」
「代わりに、千歳が抱かれる、とかじゃない、よね……?」
「違います。……港屋で、私に抱かれた陰間がいましたよね?」
「うん。覚えてる。おいらとよく乳繰り合ってた子だ。その子が何?」
「あの子が、菊田様に身請けされることが、決まっていたようで」
つまり、もう決まった相方ができたから、おいら達は用済みということ……? それはそれで負けた気分になる。
「はははっ、私、また捨てられちゃいましたね……」
「捨てられてない! 千歳は捨てられてないよ! 捨てられたのは、おいら!」
千歳の瞳が潤んでいる。これには千歳も悔しかったらしい。
菊田様も港屋に相方がいるなら、そいつだけと抱き合っていれば良いのに……、とも思ったけど、おいらは金を支払わずに済むからか。
これだから刀を持ったやつらは嫌いなんだ。
背中に腕を回してぎゅうぅっと抱き締める。とくんっとくんっと聞こえる確かな鼓動に安心する。
「せっかく、準備して行ったのに……馬鹿みたいですね……。これだと、裾っ張りと言われても文句言えません」
「千歳。中臣屋に帰ろ。小焼様に無事の報告しないと。あと、店のお金持ち出したって……」
「金なら、ここに……あります……」
「渡してないんだ?」
「受け取ってもらえなかったんですよ。ふふっ……、お金で解決しようとするなんて、馬鹿ですね、私。ふふふふ……あは、はは……」
「千歳」
いつでも抱かれることができるように準備して行ったなんて……、千歳は陰間でもないのに。
胸倉を掴んで引き寄せ、唇を重ねる。外でこういうことすべきでないと頭の中ではわかってるけど、千歳は考え過ぎてしまうところがあるから、忘れさせないと。何にも考えられなくなるくらいに、むちゃくちゃにしてあげないと。呼吸が乱れるくらいに何度も口づけを繰り返す。とろとろに溶け切った青い瞳がぼうっとおいらを見やる。
「中臣屋に戻ったら、この続きしよ?」
「…………はい」
千歳の手を握って、車を引いて歩み始める。
千歳が不安なものはおいらが全て取り去ってあげないと……。
そしたら、千歳はもっとおいらを愛してくれる、よね?
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