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26
ごう……っと吹いた風で桜の花びらが舞い上がる。
大行灯で照らされたその姿はとても美しくて、それを見上げている千歳の姿も美しくて……、天神様って本当にいたんだなぁって思った。
「昔、父が言ってたんですよ。桜の花は俯いて咲くから、下から見上げてやるのが良いと」
「おいらは千歳より背が低いから、見上げられて良いね」
「ふふっ、私は桜じゃないですよ」
笑った顔がとっても綺麗だ。この笑顔が無くならないように……、幸せになってほしい。
千歳は桜に攫われてしまいそうなくらいに儚い印象があるから……、ちょっと怖い。
「花が一番美しく見えるのが散り際なんて、さみしいですね。幾万の命がこうして話している間にも散ってしまっている」
「死なないでよ!」
「心配しないでください。……もう、そんな馬鹿げたことしませんよ。それに、十瀬が私を殺してくれるんでしょう?」
「あ……、それは…………」
「うそ、ですか?」
「ううん……」
「良かった」
おいらは、とんでもないことを言ってしまったかもしれない。
千歳の瞳に灯りが映りこんで赤く見える。ずーっと青く見えていた瞳が、今は血のように赤い。
手を差し出されたので黙って繋いで握る。強く握り返された。
この手を離さないで。と言いたいけど、おいらが言うものじゃない。おいらが手を離したら千歳はまた狂ってしまう、と思う。
乱心させちゃまずい。だけど、おいらが千歳と一緒にいるのは、間違ってる。千歳の横にはあきの姐さんがいないといけない。おいらは男妾であっても、きちんと元の鞘に……。
「ねえ十瀬。首を切ると血がパッと散って綺麗なんですよ」
「千歳。怖いこと言わないで」
「ふふっ、そうですね。……まことに、きれい、だったんです……。まことに……」
千歳の声は落ち着いているのに、震えている。
おいらは咄嗟に手を強く強く握り返した。ぎゅーっと、おいらの力の限界まで握った。千歳は驚いたような顔をしてこっちを見やる。
「あきの姐さんが待ってるから、早く帰ろ!」
「はい」
素直に返事してくれて良かった。これでおいらとまだいたいと言われたら……、おいらはどうしたらいいかわからなかった。
中臣屋に戻る。夕餉は既に終わっていたけど、おいらの部屋には握り飯が置かれていた。千歳のほうはどうだろう。あきの姐さんがいるから何か話してると思うけど。
おいらが握り飯と漬物を頬張っていると障子がすーっと開いた。
「お邪魔しますやの」
おけいさんだ。
ピリッとした感じがしないから怒っているわけではなさそう。どちらかというと和やかな空気を感じる。おいらを怒りに来たわけではないと思う。
「おけいさん、どうかした?」
おいらがそう聞くと、おけいさんは小さく微笑みながら座り込んだ。
「千歳が珍しくすっきりしたような顔をしてたから、十瀬が上手くやってくれたんかと思って、話を聞きに来たんやの」
「それは……」
おいらは船宿でのことから今までのことをおけいさんに説明した。
おいらが言ってしまった「おいらが千歳を殺すから」という話も全て。
それを聞いたおけいさんは相変わらずの優しい笑みだ。
「大丈夫やの。十瀬もよくわかってるやろ? 千歳は、繊細で儚げなとこがあるけど、その分、芯は強い子やの。そこは小焼様に似たんかも」
「繊細なところが?」
「冗談が上手いやの。でも、小焼様もけっこう繊細で儚げやの」
おけいさんには小焼様がどう見えてるんだろう。惚れてる旦那様のことだから、特別視してるとは思うけど、おいらにはどうしても繊細で儚げには見えない。小焼様は筋骨隆々で何に対しても堂々としている男だし……。
なにはともあれ、おいらも千歳が少しずつ元気を取り戻してくれることを信じたい。目の下をドロンと黒くしている千歳の姿を見るのはもう嫌だ。
「また何かあったらよろしくしてあげてやの。千歳には、あなたが必要やから……。夢夏の代わりでもあきのの代わりでもなく、十瀬が必要やの」
「あい、わかった」
おけいさんはそっと障子を閉じていった。
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