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☆
小都市の一郭は、夕方になると客を呼び込む料理屋の声でにわかに騒がしくなる。混み合う大通りの石畳に、長編み上げの靴底を元気よく打ち当てながら走る娘がいた。立ち話をする町人や荷車を器用によけて一目散に駆けていく。
「ただいま帰りました!」
娘はとある料理屋に飛び込んだ。元気な挨拶に初老の婦人がお帰り、と振り返る。
「いつも悪いね。あんたさん、本当はいいとこの娘さんだろう。なのにぼろで雑用に走らせて」
すると娘はつぎはぎだらけのスカートの裾を持ち上げ頭を下げた。
「楽しくやっております。それにあの日、おじさまが拾って下さらなければ野垂れ死していたかもしれませんもの」
首を傾げると長い髪が揺れて光沢を放つ。若者たちの目を引く美しい娘だ。婦人は目を細めて愛らしい笑顔を眺め、細く息を吐いてから切り出した。
「できたらうちの子になってもらいたいけれど」
婦人が窺い見ると、娘の瞳から笑いが消える。
「ごめんなさい。でも私には」
「わかってるよ。会いたい人がいるんだろう? それで実は、今日のお客からね」
娘の切望は夫婦も承知である。そしてそれを果たすには、下賤の身では不可能だということも。
「ある貴族が若い娘を探しているっていうんだよ。令嬢の付き人に雇いたいってさ」
勤め口を聞き、娘は見る間に頬を紅潮させた。大きな目は潤み、長い睫毛に珠が光る。
「そこにお勤めしたら、もしかしてあの人に」
胸が脈打つのは、体が熱いのは、走ってきたばかりが理由ではない。
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