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忍者林ヒカルの転校
ここ、東京都上野は本日は曇天なり。
いや、もしかしたら晴れていたのかもしれない。
高層とは言えないいくつもの雑居ビルが立ち並び
昔、闇市を中心に発展したこのまちは
下町の人情と人間の汚さの狭間が垣間見える。
そんな土地だ。
少なくとも、彼、忍者林ヒカルには、汚さしか見えなかった。
この妙な苗字のせいで、中学入学と共にクラスの厄介な奴らに目をつけられてから、はや一ヶ月。
こうして放課後、雑居ビルの間に連れ込まれてはいじめられている。
「おい、忍者林!お前めぇ忍者なら忍法使って空飛んでみろよ」
「…飛べないよ。忍者じゃないから。それに、忍者だって空を飛んだりしない。」
「はぁ?お前ぇのそーゆーとこがイライラすんだよ。口答えしてんじゃねーよ!」
(じゃあ話しかけて来なければいいのに…)
そう頭の中で返答した時にはすでに左頬にクラスメイトの拳が当たっていて、ヒカルはどっと地面に倒れこんだ。
口の中に血の味が滲む。
一方的な言葉と物理的な暴力。これはもう犯罪だ。
この日は特に度が過ぎていた。
バチバチバチッとすごい音と共に放電される光。相手はスタンガンを持ち出してきたのだ。
「俺一回、人間が失神するとこ見てみたかったんだよな」
「ーッ!!」
やめてほしくても、恐怖で声が出ない。
助けてほしくても、通行人には期待できない。
東京では、たとえ泣きながら歩いていたって誰も気に留めない。
ならば…
抵抗虚しく首元にバチバチバチッとスタンガンを当てられる。
その様子を笑いながら動画に撮っているクラスメイトの姿が横目に見えた。
「おい!君たち!何をやっている?!」
「!?やば!なんで警察!?お、おい、逃げろっ!!」
ヒカルを突き飛ばしてクラスメイト達は走り去っていった。
「君、大丈夫か?!」
「はい、来てくれて、ありがとうございます。」
ヒカルは雑居ビルに連れていかれる数分前、前もって通報しておいたのだ。
こいつらはワンパターンだから、連れ込まれる所もどうせいつもと同じ場所だと
踏んでいた。
(僕は“忍者“ではない。でも、やれることはある。)
自分を自分で助けた達成感が安心感に変わった瞬間、膝の力がガクンと抜け、ヒカルは地面に崩れ落ちた。
倒れながら仰いだ空は、澄み切ったように青かったけど、
雑居ビルの合間は暗く、ひどい臭いで、
やっぱりヒカルの目には曇天にしか見えなかった。
警察に保護され交番へ行く道中、彼ははたと気づいた。
(スタンガンを当てられても僕は何も感じなかった。
すごい放電の光と音だったけど、脅し用で電圧は低いものだったのだろうか。
何はともあれ、次は失神するまでやられるのだろうか。嫌だな。)
夕方、警察に迎えに来てくれた父とそのまま外食をした。
先月母が亡くなって以来、久しぶりの外食だった。
ファミレスに入り注文を終え、少し間が空くと父が言った。
「母さんが亡くなってから、父さん自分のことで手一杯で、お前がこんなことになってるなんて全然気が付かなくて、ごめんな。」
「ううん。こっちこそ…ごめんね、父さんだって色々大変なのに、こんな警察沙汰起こして。」
父はヒカルの隣に移動し、しっかりと息子の目を見ながら優しく肩を掴んでいった。
「ヒカルは1ミリも悪くないんだから、謝らなくていいんだ。」
父の目を見るのは久しぶりだった。目元にしわが増えたな、そんなことをヒカルは思いながら今日は真っ直ぐに見つめ返した。
母が亡くなって以来、父は生気をなくした目をしていたので、無意識に見るのを避けていたのもある。
すると父は、実は…と言いながら引越しの話を切り出してきた。
「職場の先輩が、地元に畑と家が余ってるから、好きに使ってくれていいっていうんだ。聞いたことないような田舎なんだけど、いい機会だし、別の環境に写ってみるのはどうだろう?もし、ヒカルさえ良ければだけど。」
「父さん、今の役所の仕事はどうするの?」
「なぁに、心配はいらない。畑をやってみるのもいいし、今はネット環境さえあれば仕事はどうとでもなる。」
その時しぼんでいた父の目に、小さくだけど新しく生きていこうとする希望の光みたいなものがヒカルには見えた。
(父さんは前を向いて進もうとしているんだな。
僕もこれ以上この土地で生活なんてしたくない。
きっとあのいじめ集団に出くわしたら、今度は失神するまで動画を撮られるに決まってる。)
ヒカルは首を縦にふった。父は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、なるべく早くがいいな。」
その時、注文した食事が席に運ばれてきた。
「さぁ、食べよう。」
父は自分の席に戻り、僕らは新しい生活に期待を膨らませながら、温かい食事をほうばった。頭の中の曇天もようやく晴れていくようだった。
それからトントン拍子に話が進み、驚くほどあっという間に引っ越し当日を迎えた。
当日は、父の元職場の先輩の天石と言う人が手伝いに来た。これからヒカルたちの大家となる人だ。天石は人見知りなヒカルでも話しやすい明るい雰囲気を纏った人だった。
「これで運ぶ荷物は全部かな?」
天石が友人から借りてきた軽トラに荷物を運び、パンパンと手を叩いて確認する。
「はい!天石さん、ありがとうございます。今日は引越しのお手伝いと、その上新居まで送っていただくことになっちゃって。」
あまり人付き合いをする方ではないヒカルの父も、天石にはとても心を開いているようで、ヒカルはそんな父の姿が新鮮だった。
「いいんだよ、忍者林くんには役場でよく働いてもらってたからね。それに地元の人間じゃないと分かりづらい道があるから。じゃあ行こうか!」
天石はヒカルと目が合うと嬉しそうに微笑み、ぽんぽんと頭を優しくたたいた。
ヒカルはお腹が暖かく、幸せな気持ちになった。会ったばかりだが、天石のことが好きだと思った。3人は車に乗り込んだ。
「結構遠いからね、二人とも、眠っちゃって大丈夫だよ。急な引っ越しで、荷造りとか大変だったでしょ。」
「いや、男2人の荷物なんて。見ての通り少ないものです。」
前の席で話す父と天石に向かって、ヒカルはたずねた。
「あの、天石さん。引越し先は…なんていう場所でしたっけ?僕、なぜか何回聞いても忘れちゃうんです。」
「ははっ。印象の薄い田舎の村だからね。天地村だよ」
繰り返して口に出しても、すぐ名前を忘れてしまう村。
まるで人の記憶に残らないように魔法がかけられているかのようだ。
流れていく車窓の景色を見つめながら、今度こそ忘れないようにと繰り返し村の名前をつぶやいてみたけれど、気づいたらヒカルは眠りに落ちていた。
そうしてヒカルは東京に別れを告げた。
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