side.D

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 長年連れそったパートナーのゆかりさんを看取った。  彼はぼくより二十歳ほど年上で、付き合いはじめた当時には、それはいろいろ言われた。あのころはパートナーが同性なのも、DomとSubだということもめずらしかったし、オープンにしているひとはすくなかった。それにプラスして、二十歳の年齢差は奇特にうつったのだろう。特にわたしの両親の世代にとっては。  わたしたちにとっては自然なことで、他の選択肢なんてありはしなかったのだけれど、なことは生きていくうえでの安心につながる。それが例えまやかしなんだとしても。特に一生をわたしとともに歩むことができない両親にとっては、すこしの心配ごともとりのぞきたかったのだと思う。  当時は達観することもできず憤慨するわたしに、わたしよりも両親の年齢に近いゆかりさんが、根気よくそう説いてくれた。サブはドムの奴隷だなんていう偏見がまだのこる時代だった。それでもゆかりさんの若いころに比べたら、ずいぶんと生きやすくなったそうだ。  それから共にすごした三十年近く、紆余曲折はあったけれどわたしたちは幸せだった。  ゆかりさんとお別れした悲しみは深いけれど、それで悲観して人生を終えたいというほど若くもない。ただこの先、ゆかりさんのいない生活を続けていくのが虚しいだけで。そうしてゆっくりと老いていくのだろう。  そのはずだった。  けれども何の因果か、わたしもゆかりさんと同じ病気にかかっていた。ゆかりさんはほどこす手もなくあっという間に逝き、たいせつなひとのいなくなったわたしは生きのびた。こんなふうに言えば、きっとゆかりさんに叱られてしまうけれど、生きていたくなかったのに。  ふわりとあたたかい気配がして、わたしのまわりをかこんでいるカーテンの一部がゆれる。総合病院の外来処置室はしずかにあわただしい。けれど、きっと彼が来たのだとさとったわたしは、ぼんやりと見ていた天井を、まぶたを閉じて切りはなした。  ゆっくりとようすをうかがい、それからそっと一歩ふみこむ。きっとここでわたしが目を開けたら、ねこのように飛び上がってにげていくんだろう。想像したらおかしくなって、わらいそうになる顔で必死に無表情をよそおった。  きぬずれの音。それからやわらかな空気がうごいて、あたたかな指がわたしの指にふれる。すらりとながくてすこしかさついた彼の指をおもいだす。きっと彼は、かがみこんでわたしの手を見ている。  そのすがたを見たいけれど、きっと彼は、隠れているときしかそうしてくれないのだ、ということもわかっていた。わたしたちは軽いあいさつ程度にしか話したことはない。  何年もまえ、彼を従えたときの快感と、そうしている彼のすがたを思い出す。それはあってはいけない記憶だった。忘れていなければならない記憶だった。  けれどもわたしの弱ったからだはすなおで、彼からじわじわとにじみ出るいやしのようなものが、わたしのなかにしみてくる。目に見えるものはなにもない、わたしと彼だけがわかる、感覚の共有。わたしはそれを見ないふりをする。  つめに吐息がかかり、かさついたやわい感触がゆびさきにふれる。忠誠を誓うような指へのキスに、全身があわだつ。  けれどもわたしは、それすらも気づかないふりをして、なにも知らないふりで彼をやりすごしている。彼を知らないふりをしている。  それがゆかりさんへ貞節を守りたいからなのか、それとも彼への申しわけなさのためなのかは、じぶんでもわからなかった。ただ、そうせずにはいられないほど、彼を意識していていることだけが確かで。  きゅ、となごりおしむようにゆびさきに力がこもる。それは、彼からのせいいっぱいの求愛だった。なきたくなるような、やわらかくてあたたかなものが、そこからわたしの全身に広がってゆく。  ──なにもいわない彼に応えたい。  衝動的に「いかないでくれ」と口をつきそうになって、はっとした。なにもいわないのは彼のやさしさで、わたしはそれを無下にしたくなかった。  あのとき交わったわたしと彼の人生を、それだけにしたのはわたしだ。わたしにはゆかりさんがいたけれど、それでも彼を支えるよう手をかすことはできたはずだ。  ゆかりさんはだれよりもひとの痛みをしっているひとだった。だからきっと、正直に話してもあの日のきずついた彼をケアしたわたしを責めたりしなかっただろう。それでもわたしは、彼のことをゆかりさんに伝えなかった。  傷ついたかれを守りたいと、いやしたいとおもいながら、それ以上に傷つけたいとおもった。たとえそれがDomの本能だとしても、そうおもったじぶんが許せなかった。ゆかりさんだけにしか、そんなこと思いたくなくて──。  中途半端に助けただけのわたしを、彼はうらんでいるだろうか。あのときみたいに、ぼろぼろになってないていないだろうか。良いパートナーにめぐり会えただろうか。そうやってときおり思い出しては、彼のことを思い出にできないままでいた十年間。  じぶんの予想以上に彼にとらわれていたのだと、いまさらおもい知らされている。  カーテンをめくったときとおなじ慎重さで、彼がそっとベッドをあとにする。きもちが目に見えるのならきっと、わたしの名残惜しさが彼にまとわりついているんじゃないかとおもう。  けれどわたしは病床で、彼よりずっと年上で、いちど手をのばした彼のことをてばなしていて──。  知らないふりをする以外、わたしにはどうすることもできなかったのだ。
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