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そのひとの姿をみたとき、ぼくの心臓はどきんとなって、それからぎゅっとつぶれた。
──ぜったいにまちがいない、あのひとだ。
ぼくは確信をもってそうおもう。あのころのぼくはぼろぼろで、正直なところ記憶もおぼろげなのだけれど、あのひとのDomのいろははっきりとおぼえている。
ぼくはSubで、ぼくはDomのフェロモンをいろで感じていた。
あたたかくてやわらかいあのひとのいろ。会えなくなってからも、何年もずっとぼくをささえてくれたそのいろは、ぼくのみちしるべだった。
なのに──。
再会したとき、そのすがたはいまにも消えそうにはかなくて、病がその身をおかしているのだとひとめでわかった。そうでなければこの場所にくるはずもないのに、そのことをわすれそうなほどに動揺していた。
それからこうして、あのひとをむかえるのは何度目だろう。
ぼくのはたらく総合病院にはいろんなひとがくる。それこそ転んでけがをしたこどもから、余命宣告をうけたひとまで、たくさん。
あのひとは毎月一回、投薬をうけにくる。そのまえには手術をして入院もしていたらしい。術後の経過は順調で、このまま再発せずにいけば一年ほどで投薬は終わりになる、というのはカルテを見て知ったことだ。
ぼくはそのひとがここにきてから、直接ことばを交わしたことはほとんどない。せいぜいが、こんにちは、とありがとう。たったそれだけのことばでも、とくとくと心臓がはしりだしそうなほどにうれしくて、ぼくは何度も、なんども、そのおとをこころの中でくりかえしている。
あのひとのやってくる第一金曜日。朝病院に来てからいくつかの検査をこなして、投薬のためにここにくるころには、あのひとはすでにすこし疲れている。ベッドによこになってしぜんとこぼれるため息のおとを聞く。
あいさつをしながら、点滴用の針を刺すためにうでをとる。その手はいつもつめたくて、ぼくは切なく、悲しくなってしまう。痛みがないように、慎重に。ひいきなんてしたらいけない職業ではあるけれど、ぼくのことを気付きもしないこのひとを、どうしてもぼくはほかのひとと同じようにおもうことはできなかった。
ぽとり、ぽとりと点滴がおちてゆくのをみながら、ゆっくりとあのひとが目を閉じる。そうしてあのひとはゆっくりと眠りにおちてゆく。
あれは十年ほど前だろうか。ぼくはまだSubという性にふりまわされていたころ。
Subだと自認してはじめて好きになったのは、Domの男性だった。ぼくがおもいをつげると、彼もぼくを受け入れてくれた。男性同士ではあったけれど、DomとSubのぼくらには何も障害なんてないとおもえた。
彼は強引で独善的だったけれど、そのころのぼくにはそれすらも魅力的にさえみえた。けれどそれが幻覚だと知れるのもはやかった。ぼくは彼に恋人になってほしかった。けれど彼は、ぼくを奴隷にしたかった。
それでも彼の要求をうけいれつづければ、いつかは彼がぼくを恋人にしてくれるんじゃないかと期待した。けれど期待はむなしくも果たされることはなく、彼はぼくを暴力で支配しようとした。
DomとSubの方向性があわなければ、最悪の結果がおとずれる。ぼくはそんなことさえ知らなかった。ただうけいれ、がまんし続けてろぼろになってすてられた。
サブドロップしたままケアされることもなく放り出されたぼくをみつけてくれたのが、あのひとだった。あのひとはぼくにやすむ場所をあたえ、やすらぎをあたえ、いやしをあたえてくれた。
あのひとの家に保護されていた数日間。そこであのひとは、ぼくらSubに必要なものは一方的な暴力でなく、互いをおもいやる、ふかくあたたかな愛情なのだということをおしえてくれた。
そのあと、家にもどったぼくはたびたび倒れて、ついに両親に実家につれもどされ、入院してしまった。けれどもそのころのぼくの記憶はおぼろげで、とぎれとぎれにしか覚えていない。医師のはなしでは、彼から受けたきずがつよすぎて、記憶が混濁しているんだろうということだった。
そのままぼくは、ぼくを傷つけたDomのことも、ぼくをたすけてくれたあのひとのことも、ずっとよくわからないままだ。
だけれどもSubは、いちどでもサブスペースに入らせたDomのことはわすれないという。ぼくも記憶はおぼろげなのに、ふしぎとあのひとのDomのいろをおぼえていた。
カーテンで区切られた、ベッドとひとひとりがやっと座れるだけのせまいスペース。ゆらゆらゆれているピンク色のカーテンを、おとがならないようにそっとおさえて中をのぞきこむ。
一定のリズムでおちる点滴と、それが順調なことを示すモニター。その管がつながったそのひとは、ぼくがかおをのぞかせたことも気づかずに眠っているようだ。気配をころして、そっと中にいっぽふみこみ、カーテンがゆれないように気をつけて手をはなす。
いつもこうするときには緊張してしまう。ほんのすこしの後ろめたさ。
患者さんのようすをみているだけ。そう自分にいいきかせるのは、それがひいきなんだと認めているようなものだった。
むねの位置に立って、そっと彼のかおをのぞきこむ。はじめてここに来たときからすると、おどろくほど顔色が良くなった。このままいけば来年にはきっと会えなくなる。ぼくと彼の接点は、ここしかない。
会えないというのが、彼にとっていちばんよいことなのだとわかっている。はやくよくなってほしいと願うのと同時に、ほんのすこしだけさみしい。
あなたにたすけてもらったことがあるのだと伝えたら、やさしい彼のことだから、きっと連絡先もおしえてくれるだろう。そうしなくても知ろうとおもえば知ることができるだろう。
だけど、思い出してほしいという、ほんのすこしの矜持がそうすることをこばんでいた。
彼のそばにいるというほんの少しの幸福。それがぼくをじわじわとあたたかくする。彼もそうだったらいいとおもいながら、そっと点滴のつながれた手のゆびさきにふれる。
きれいに切りそろえられたつめのならぶ、長くておとこらしいゆびが、ぼくの手の熱にぴくりと反射する。けれども手も、表情も、それ以上にうごくことはない。
どきどきしながら、やさしくゆびをつつむ。
なんてことばをかけたら良いのかはわからなくて、こころのなかの祈りは、いつもことばにはならない。
しあわせと、やさしさと、あたたかないろばかりが、このひとにあふれるようにと、そっとゆびさきにキスをおとす。
ぴく、とまたゆびがうごいて、ぼくはそっとその手をベッドにもどした。ぽたり、ぽたりと点滴のしずくが時をきざんでいる。こうしている間だけ、ぼくは彼のそばにいられるのだ。
うしろ髪をひ彼ながら、ぼくは彼のベッドを後にする。つぎの患者さんが、ぼくをまっていた。
どうか、彼がまた、あのやわらかないろにつつまれますように。
そう祈りながら、ぼくは今日をこなしてゆくのだった。
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