寒鴉宮《かんあきゅう》の月

9/9
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
「私も母を幼い頃に亡くしました」  東の姫君は象牙の色をした丸い月を眺めながらぽつりと呟く。  離れた場所に座して主君と異国の王子を見詰めていた白髪の乳母の顔に痛ましいものが走った。 「乳母がずっといてくれましたけれど」  ふっと微笑んで振り向いた皇女と釣り込まれて眼差しを向ける太子に老婆は深々と頭を下げる。 「乳母殿にも茶を」  南国の王子はこちらも影のように控えていた侍従に告げた。 「勿体(もったい)のうございます」  皇女の乳母は頭を下げたまま答える。 「生みの母の逝ったのがこんな風に月の満ちて輝く晩だったせいか、今は彼処(あすこ)から見守っていてくれる気がします」  新たに向き直って月明かりを浴びた姫の中高な横顔は透けるように白く、濡烏(ぬれがらす)の髪は絹さながら滑らかに照り返していた。 「卓貴妃(たくきひ)様ですね」  南国の王子は相手と変わらぬ流麗な帝国の言葉で答える。 「たいそう見目麗(みめうるわ)しく、また、心映えの優れた(かた)だったと(うかが)っております」 「ご存じでしたか」  皇女は再びいとけない驚きの表情になった。 「こちらの皇上とお妃については周辺の諸国にも知れ渡っておりますよ」  十七歳の太子の方は寂しい笑いに戻って続ける。 「亡き母も私の幼い頃、よく海を越えた向こうに大きな沈まぬ太陽のような国があると教えて聞かせてくれました」  月明かりは結い上げた王子の髪の漆黒に秘められた青を浮かび上がらせるように照らし出した。 「我が国は沈まぬ太陽の国より遥かに小さく、人も少ない。だからこそ、果物の甘く豊かに実り、密林に象の暮らす、山から輝く(あか)い玉の採れる地を慈しみ守らなければならないのだと」  満月より遥かに小さく遠いものの夜空に一点鮮やかに(あか)く煌めく星を認めると、褐色の肌をした王子は円らな瞳に(かす)かに揺れる光を宿した。 「我が母もよく私を膝に抱いてこの空の下には星の数より多い人がいてこことは異なる装いをして別の言葉を話す人も沢山いるのだと教えてくれました」  姫君は静かに澄んだ声で語ると、そっと王子に庭を示す。 「それでも、どの人にも喜びや悲しみを感じる心が等しく備わっているのだと」  当初は固い面持ちで楽器を奏でていた南国の臣下たちにも踊っていた東方の宮女たちにもどこか寛いだ温かな気配が漂い始めていた。 「ああ」  太子はそこで初めて気付いた風に互いの家臣たちの(さま)に目を注ぐ。  踊り手の中で幾分年嵩(としかさ)の宮女が笛を吹くまだ少年じみた楽士に笑顔で目配せするようにして拍子を合わせており、楽士も安んじた面持ちで澄んだ音色を響かせている。  かと思うと、まだ少女めいた女官の張り切った動きを父親くらいの楽士が目を細めて見守りながら琵琶を鳴らしている姿も認められた。 「そうですね」  穏やかな声と共に皇女に向き直った顔には円らな瞳を三日月形に細めた人懐こい笑いが零れている。 「本当に()いお茶をいただきました」  控えめだが確かな声が姫君と王子の二人に届いた。 「この身も若返って長生きできる気がいたします」  白い髪に深い皺の刻まれた顔を柔らかに微笑ませた乳母はそこだけ(つや)と張りを残した声で語る。 「それは良かった」  南国の太子は頷くと、再び茶碗に口を付けている東方の皇女に向かって告げた。 「持ってきた甲斐がありました」  姫君は長い睫毛の目を細めると濡鴉の髪に生じた光沢(つや)を緩やかに動かすようにして頷いた。  満ちた月の灯りの下、今度は黙して見詰め合う二人の間を果実を含んだ甘い香りが濃さを増しながらまた立ち込めていく。(了)
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!