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いとさんとうち
一.
「お陸、おるかえ」
ごりょんさんの声に幼いお陸はふいと顔を上げた。
「へえ、ごりょんさん」
「あら、お陸・・・そないに汚れてどないしたん。」
ごりょんさんのあったかい手がお陸の頬を優しく撫でた。
「お風呂の火の番をしとったんです。」
すすで汚れた頬をお陸はぐいと拭った。
「ああ、これこれ、汚れが広がるだろう・・・」
「後で洗えばええんです。」
ごりょんさんは濡らした手拭いでお陸の頬の煤汚れを拭っていく。お陸はごりょんさんの顔をはうと、眺めた。
「ほら、これでええ。」
綺麗になった、とごりょんさんは可愛らしい笑みを浮かべてお陸を撫でた。
ごりょんさんは綺麗な人で、白い肌に優しい目。いつもわろとる。そんな人やった。
「なあ、ごりょんさんは?」
うちが13くらいの時やろか、そんなお人は病でぽっくり逝ってしもうた。小さい頃からこの家に奉公してきたうちは、ごりょんさんがうちのとこにこおへんようになったのに気づいた。
「お陸・・・」
女中頭のおばちゃんは泣く泣くうちにごりょんさんは亡くなったと言った。うちの頭の中は真っ白しろで、なんも考えられへんかった。
「なんで?なんでなん・・・?なんでごりょんさんなん?」
縋った。縋りついた。
──神さんは理不尽や・・・なんでごりょんさんなん
良い人ほど早く死ぬとはよう言ったものや、そう思った。
そう、あの子が来るまでは。
「ごりょんさん・・・?」
優しい顔がこっちを振り向いて、目を丸くした。
「なんや、生きてはったんや」
うちはごりょんさんに駆け寄って抱きついた。
「ごりょんさん、縮まった?」
なんで気づかなかったんやろ、ごりょんさん小さかってん。
「ごりょんさん・・・?誰のこと?」
丸い目がもっと丸くなってうちを見つめた。気づいたらかけだして、厠に駆け込んでいた。
「うっ・・・」
ようわからん気色の悪さがこみ上げて、吐瀉物が散った。
──なんやの、ごりょんさんじゃあらへん。誰なん。
思考が追いつかへん。ごりょんさんと同じ顔した小さいの。考えれば考えるほど怖うなって、うちは考えるのをやめた。
「え、いとさん・・・?」
翌朝、主人の千次郎から聞かされたんは、その小さいのはごりょんさんの忘形見、つまり お嬢さんっちゅうこと。
「せや。ところでお陸。おまんは年は幾つや。」
「14です。」
「この子はおけいっちゅうんや。今年で五つ。おまんに頼んでもええか。」
勝手に口が動くってこう言うことを言うんやろな、考える前にうちは返事をした。
「もちろんです、だんさん。」
その日からうちはいとさんのお世話役になった。
「お陸さんお陸さん遊びましょ」
いとさんは元気な子やった。よう笑う。いつもわろとる。ふっくらしたほっぺを紅色に染めて鞠を差し出す。
「いとさんは元気やねぇ。うちも分けて欲しいわ。」
薄紅のほっぺをつねると、餅みたいに柔らかくて美味しそうやった。いとさんはむと頬を膨らまして鞠を突き出す。
「お陸さん、な?一緒に鞠遊びしましょ?」
「はいはい、わかりましたよ。せやけど、だんさんのお邪魔になったらあきまへんえ。」
「はあい」
おちょぼな口が三日月を描く。
──なんや、ほんまに似てはる
ころころした声でいとさんは手毬唄を歌って、鞠をつく。おこぼがぽくぽく音を立てるのが可愛らしい。うちは楽しそうないとさんを眺めた。
「お陸さん・・・!」
鞠がころころうちの足元に転がってきた。
「お陸さんも、一緒に」
「いとさんが言うなら・・・。」
うちが鞠をつくといとさんはころころ鈴みたいに笑い出す。
「可愛らしいなあ。」
口をついて出た言葉にいとさんはポッと赤くなった。
「・・・今日はもうええ。」
気いを損ねたらしい。いとさんは歩いて行ってしもうた。
二.
いとさんが七つになった時。いとさんの七五三の日。
「お陸さんまだ?」
「ええ、ええ、ちょっと待ってくださいな。」
いとさんの黒くて綺麗な髪で桃割れを結う。いつも桃割れやけど、今日は特別な日。
「早く早く」
「ああ、暴れんといてください、いとさん・・・!」
いたづらそうにいとさんが微笑んで、鏡越しにうちを見た。
──ほんま、似てはる
いとさんはどんどんごりょんさんに似てゆく。瓜二つ、いや、生き写しと言った方が正しいやろ。ごりょんさんが生きてはるみたいな、変な気持ちになった。
うちは化粧前に置いてある箱から簪をとって、いとさんの髪に挿した。
「できましたよ。」
「ああっ!かわいい!」
結いあげた前髪に挿さる鼈甲の簪。ごりょんさんも同じのをつけてはった。
「可愛いなあ、おおきにお陸さん!」
びら簪がチリとなる。
「おけい!」
「父様や!ととさま!」
ぱたぱたとかけていく背をうちはじっと見つめた。その背中がごりょんさんに重なってならなかった。うちの優しいごりょんさん、可愛い美しいごりょんさん。
「お陸。」
「なんですか。」
女中頭の声にうちはかけて行った。
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