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「……はい」
固い声で返事をしながら玄関を開ける。その瞬間、ふわりとシトラスの香りが鼻をついた。背が高いのか、見上げれば、茶色の猫っ毛が風に揺れている。
「……えーと……兄の元彼さん、です……よね?」
玄関の前に立っていたのは海斗だった。
なんで、彼が……ぐるぐると頭の中を疑問が回る。
今日は休みだからって予約が取れなくて、だから、俺は彼を呼んでいない。
ということは、海斗は秀次の弟で……。
「あっ、な、中、どうぞっ」
固まったまま悩んでいると、海斗に困り顔を向けられて慌てて中へと通した。
「……お邪魔します」
とりあえず座椅子に腰掛けてもらい、いつもは出さないお茶を出してあげる。
だって、いつもならこのまま行為が始めるし、こんな風にゆっくりと話なんてしていられない。
でも、今はそんな感じじゃない。
テーブルを挟んで向かい合う。沈黙がやけに痛い。
「兄が本当にすみません」
「いえ……その……」
「あ、もちろんここにお邪魔するつもりはないですから。俺は兄から渡された合鍵を持ってきただけです」
「……合鍵……」
すっかり忘れていた。そういえば、あいつはこの部屋の鍵を持っていたんだ。
「……あいつ、元気ですか?」
思わず尋ねていた。未練なんてないし、俺が好きなのは目の前にいる彼だ。でも、元気なのかくらいは聞いてもいい気がした。
仮にも七年連れそったのだから、心配くらいしてもいいだろう。
「元気ですよ」
「……そう、なんだ」
新しい恋人とも上手くやっていけているのだろう。運命の番だもんな……。
なんだか泣きそうだ。
「質問してもいいですか?」
じわりと涙が滲んできて、俯き拳を膝の上で握り込む。そうしていると、突然問いかけられて、驚いた。
「ほら、いつも俺が答える側でしょ。だから、今日は俺が質問してもいい?」
敬語を崩して、少し茶目っ気を含ませながら問いかけられ、顔が熱くなる。
頷けば、「ありがとう」といつも見せてくれる柔らかな笑顔を向けてくれた。
「まだ兄のことが好き?」
秀次のものによく似た瞳が俺のことを射抜くみたいに見つめてくる。
「好きじゃない」
はっきりと答えられる。
俺が好きなのは秀次じゃなくて、海斗だ。
「……もう一つ質問してもいい?」
その言葉に、少しずるいなって思ってしまった。だって、俺はいつも一個しか質問できないから。
「……だめ」
だから、これは意地悪だ。
そっぽを向いた俺に、彼が手を伸ばしてくる。俺たちの間にはテーブルという、明確な距離があるし、関係もデリのスタッフと客の関係じゃない。
なのに、身を乗り出した海斗が、その距離をいとも簡単に縮める。
数センチの距離に、海斗の顔。こんな風に近づくのは初めてじゃないのに、やけに緊張する。
「好きな人いる?」
(だめって言ったのに……)
頭の片隅で悪態付きながら
「……いる」
って小さく言葉を返した。
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