ラビリンス オブ マインド

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
 とある編集部に、一編の文章がネット上から投稿された。 「えー、なになに・・。」 PCのディスプレイに映し出されたタイトルを、女性編集者の冴(さえ)は目にした。 「ラビリンス オブ ハート。心の迷宮かあ。」 やや意味ありげなタイトルだったが、彼女は何気に読み進めてみた。 「さあ、今からアナタを、迷宮にご案内します。そして、もし、この迷宮を無事潜り終えることが出来たならば、アナタには何にも代えがたい宝物が手に入ることでしょう。」 まるでゲームの始まりかのような書き出しに、彼女は少し興味を持ちつつ、本文に目を通し始めた。何かダンジョンの中を彷徨いながら、敵をやっつけていく、そういう物語かと予想していたが、その期待は冒頭から裏切られた。 「今、アナタは無難に上司にいわれるがまま、仕事をこなしている。今日も少し無理な内容を押しつけられはしたが、あまり馬の合わない上司に反目するよりも、此処は彼のいう通りに従って、仕事をこなそう。そしてアナタは無事、そのタスクを完了した。当然、上司からは高評価と信頼を勝ち取った。そんな風に、多少の無理も聞きながら、アナタへの依頼は徐々に増えていった。期待されて、それにこたえることで、査定も給与もジワジワと上がっていった。しかし、ある依頼の書類を目にしたとき、アナタはふと奇妙なことに気付く。その仕事内容は、本来、自身が所属する部署が行うべきものではない仕事だった。加えて、取引のある業者とは全く異なる外部発注が成されていることに気付く。」 彼女は右手で口元を押さえながら、その設定を見つめた。 「さて、此処でアナタは、自身に依頼された仕事が、ひょっとしたら本社に損失をもたらすかも知れない、重大な違反行為の可能性に気付いてしまいます。その時、アナタならどうします?。」 其処から先には、二つの選択肢が示されていた。一つは黙ってその指示に従い続ける。そして、もう一つは、上司に悟られないように、その違反行為を本社の別の人物に告発する。そういうものだった。 「へー。面白そうじゃん。」 彼女は迷わず、後者の選択肢を選んだ。すると突然、 「前者の選択肢は封印されました。」 という表示と共に、二つあったであろうテキストのうち、一方が完全に見れないようになってしまった。 「え?、何?。このテキスト・・。」 彼女は念のために、もう一方の選択肢を見ようと、投稿文を開き直したり、コピーして別のPCからアクセスしようと試みた。しかし、どんなに開けようとしても、封印された選択肢は見ることが出来なかった。 「うーん、随分巧妙な造りの投稿ね・・。」 一つを選べば、その先へ進むしか無い、そういう趣旨のトラップ付きの投稿か。彼女は片方の選択肢を見るのを諦めて、先へ進むことにした。 「慎重かつ、モラルの意識が高いアナタ。そのアナタが信ずる、より良き選択により、さらなる話が繰り広げられます。」 封印された選択肢が気になりながらも、彼女は自身の選択を肯定する文章に誘われて、さらに先へ読み進んだ。 「アナタは幸いにして、二人の魅力的な男性からいい寄られています。どちらもルックスは良く、正にアナタ好み。ただ、二人には大きな違いがあります。一人は裕福な、とある大きな会社経営をする家の御曹司。そして、もう一人は、芸術的センスに溢れている情熱的なアーティスト。」 先ほどと比べて、今度の設定は如何にも有り勝ちな二者択一だなと、彼女は少し首を傾げた。 「このままいけば、お金か夢か。そういうことよね・・。」 その時点で、彼女なりの答えは何となく出てはいた。しかし、話は続いた。 「そんな二人が、ある時、互いに好意を寄せる相手が同一人物であることを知る。それが、そう、アナタです。しかり、彼らは互いをライバル視すること無く、何事も無かったかのように、アナタにアプローチし続ける。先を越すでも無く、常に一定のスタンスで。そのことを、アナタは少し不思議に思い始める。何故、もっと踏み込んだ行為を迫らないのかと。しかし、二人からのアプローチは、どちらもアナタにとって心地良い、甲乙つけ難いものになっていく。そして何時しか、アナタはその奇妙な三角関係の虜になっていく。」 冴は、そのインモラルかつ危険な関係に、少なからず興味を示した。 「さて、此処でアナタは、所詮は物語だと割り切って、この物語の心地良さに身を委ねつつも、これを読み終えると、現実世界では自身のモラルに即した生き方をこれまで通り続けるか、それとも、そのようなことが、まさかと思っている自身の実人生に訪れ、次第に危険なゆく末に身を焦がしつつ、人生最高のインモラルな恋に身を焼き尽くしても構わないと、そう思うか、アナタならどうします?。」 その質問を見て、彼女は背もたれに仰け反った。そして、額にかいた僅かな汗を、周囲に気付かれずに拭いながら、 「このテキスト、何故アタシが、その状況に惑わされるのを知ってるの?。」 と、幾分震えつつ、ディスプレイを眺めた。  冴はかつて、目の前に表示されているテキスト内容と似たような経験があった。其処に書かれているほど魅力的な男性では無かったが、気の合う二人の男性の間で、彼女は一時、心揺らめいたときがあった。しかし、結局は、心地良い快感に後ろ髪を引かれつつも、その先に待ち受けているであろう破滅的な結果を見る勇気が、彼女には無かった。そして今、その時に封印していた感情を解き放しても構わない、誘いの物語が目の前にある。 「物語・・よね。これは。でも・・、」 其処に書かれている文体と世界観は、背徳的でありながらも、読む者を虚構と現実の間(はざま)にいつの間にか立たせている、そんな避けがたい何かに魅入られるような感覚があった。彼女は悩んだ。それは最早、作品の良し悪しでは無く、彼女自身が行いうるギリギリの選択が、自身の生き様そのものを試される、そういものだと感じたからだった。すると、 「どうした?。」 背後から、同僚の秦(じん)がディスプレイを見つめつつフリーズしている彼女にたずねた。我に返った冴は、 「あ、いえ。投稿記事を読んでたの。」 と、その不思議なテキストについて、彼に説明した。 「ふーん。昔流行った、究極の選択みたいなやつか?。」 「いえ、あれはただ、どちらを選ぶかだけでしょ?。でも、このテキストはちょっと違うの。初めは普通の二択かと思ってたら、選んだ片方しか続きが読めなくって、選ばなかったもう一方がどんな文章だったかを、いくら見ようとしてもみれないの。」 「へー。それじゃあまるで、人の人生と同じじゃん。」 秦はパラレルワールドのような、たらればの可能性が存在する世界を全く信じてはいなかった。 「時の流れは一本のストレインだしな。でも、その途中に切り替えポイントのようなものが存在するって思わせるのは、なかなかだなあ・・。」 そういいながら、秦も表示されているテキストに目を通してみた。 「ふーん、キミ的には、なかなかそそられる内容だったのかな。」 彼の言葉に、冴は自身の心が覗き見されたように感じた。 「ちょっと、止めてよ!。」 図星の指摘に、彼女は慌てて否定した。 「でも、これって、一体、どれ程の文字数があるんだ?。」 秦はテキスト全体の構成に疑問を持った。 「初めが一つの文章からスタートして、其処から二択があって、その一方を選んだら、さらに別の二択があって・・だろ?。つまり、2のn乗じゃん。」 理数畑出身の秦は、それが如何に膨大な結末を用意しているのを推測した。 「うーん、よく分からないけど、このテキスト、まだ完結してないみたいよ。」 数式に明るくない冴は、彼の指摘よりも、其処に書かれた物語が、人を惹きつける何かに興味があった。そして、 「どうやったら、選ばなかった方の文章が読めるかなあ・・。」 そう呟くと、秦はあっけらかんと、 「そんなの簡単じゃん。二人が別々の選択をして、それぞれが選んだ方を見せ合えばいいじゃん。」 といいながら、自身のデスクに戻ると、冴が読んでいた投稿文を自身も読み始めた。彼女は彼が示した簡単な発案を思いつかなかった自分を、少し恥ずかしく思った。しかし、そんな簡単なことが思いつかない位に、自身の頭の中で奇妙な変化が起きているのではと、彼女は何となく感じた。そして、彼が選んだ文章を見せてくれるのを冴は待っていたが、彼は一向に何もいってこなかった。もしやと思い、彼女は秦のデスクのところにいってみた。 「どう?。」 彼女が背後から声を掛けると、彼は慌てて振り返りながら、背中でディスプレイを隠した。 「あー、キミかあ。びっくりした。」 どうやら、彼もまた、その文章の世界に引き込まれているようだった。そして、 「どんな文章を選んだか、見せる気、ある?。」 彼女は何かを含んだ物いいをした。すると、 「いや。これはちょっとマズいな。」 彼は自身の選択が見られるのを拒否した。彼もまた、自身の経験に基づいたものに酷似した物語を目にし、かつての自身が選ばなかった選択のその先を、そのテキストに見出しているようだった。そして、その内容、いや、その選択をしたことを、人に見られるのは、自身の存在を貫く何かを見透かされるようで、とても人には見せられないと、冴と全く同じ感慨を覚えたのだった。 「でしょ。これって、凄くない?。」 「・・うん。プログラムそのものが他方を見られないように仕組んでいる以前に、超個人的な心理が働くことによって、他人に自身の選択を見せないようにしてる。そういう施錠と秘匿の仕方だなあ。恐ろしく巧妙だなあ・・。」 秦はそういいながら、冴の目を見た。そして、冴もまた秦の目を見た。そして、 「これ、いけるかも!。」 二人はほぼ同時に、同じ言葉を発した。そして、冴は自身のデスクに戻ると、二人はそれぞれ投稿文を読み続けた。残っていた数名の同僚も帰り、やがて編集部は二人だけになっていた。  ざわついた夕暮れの編集部が、静まり返って深夜になったことさえ、二人は気付かなかった。気がつけば、二人は別々に、何時間も投稿文を読み耽っていた。 「長く疎遠だった親戚から、自分の親が危篤だという知らせを、アナタは受け取った。勿論、親と疎遠になった、互いの間にある埋めがたい溝はいうまでも無い。病院に駆けつけたとき、種々のチューブに繋がれ、昏睡状態が故に、意思疎通も最早困難である。そして、今、病室には誰もいない。ふと見ると、意識のあるうちに、何か書き記したメモらしきものが、枕元の引き出しに挟まっていた。アナタはそれに気付き、何だろうと手に取ってみた。そこには、親が自身に掛けた莫大な保険金の額と、その受取手として自分の名が記されていることを知る。いくら疎遠だったからとはいえ、他人では無い我が親。このまま最後まで看取るのが勿論、人としての正しい行い。そう思いながら、ふと横を見ると、一番肝心であろう、生命を維持するチューブの根元が一本外れている。さて、此処で、アナタは、その後どうしますか?。速やかにチューブをはめ直すか、看護師を呼んでそうしてもらうのもいいでしょう。あるいは、そのことに気付かなかったとしても、誰もその事実を知る者はいません。時間の問題といえなくも無いですし。あ、そうそう。一つ付け加えておくと、アナタは遊興が過ぎて、各方面から督促が来ているのはいうまでもありませんが・・。」 眉間に皺を寄せながら、秦はディスプレイに映し出された文章を真剣に見つめていた。 「何でこの投稿者、オレが借金で詰まっていることを知ってるんだ?。いや、そんな人間が追い詰められていて、藁にも縋る思いの中、こんな餌をぶら下げるような発想が出来るんだ?。」 表示されている文章は、フィクションである。いや、そのはずである。なのに、何故ここまで釘付けになってしまうんだと、秦は次第に文章の世界観が空想に過ぎないと、そう思うことが難しくなっていた。 「これ、最後には宝物が手に入る、そういう主旨の文章だったよな。ならば、その終着点にいき着くべく、選択肢の傾向を見出せばいいのか・・。」 彼はテキスト内容に傾倒しつつ、それとは少し距離を置いて客観的に文章の構成と、作者の意図を見つけ出そうと分析を始めた。しかし、考えれば考えるほど、いき着く答えは自ずと、ほぼ一つに収束していった。 「結局は、オレの選択如何ってことか。つまりは、オレの人生観が、先に進む戸を開ける唯一の鍵。そういうことか・・。」 そんな風に、秦は自身の神経を磨り減らしつつ、一つ一つの選択を行った。そして、それを終えるごとに、誰も自身の選択を目にしていないかどうか、暗い編集部を見回しながら確かめた。部屋には自身のPCと、斜め向かいに置かれた冴のPCから発せられる明かり以外、何も部屋を灯すものは無かった。  もう随分と夜更けにはなったが、二人は互いのPCの前から離れられずにいた。 「アナタはもう、何年も研究室で新たな細菌を発見する研究に取り組んでいる。既存の菌とは微妙に異なるものは発見出来ても、画期的に種が異なるものは、未だ発見出来ていない。その研究室には勿論、アナタと同じように、何年も地道な研究を積み重ねつつ、それでも成果を上げられない研究者も何人かいる。中でも、一番年上の男性研究者は、家族を抱え、安い研究費と奨学金で何とか食いつないではいるが、残された時間はほとんど無い。そして、彼は画期的な発見が出来れば、その功績により、研究者として大いにステップアップを図ることが出来る。そんな話を、アナタは彼から何度も聞かされてはいた。そんなある日、アナタは偶然、先日サンプリングした土壌から、全く見たことも無い菌を発見する。その系統は、彼が専門としている菌そのものである。そのことを彼に知らせ、そのシャーレを彼に手渡せば、彼の長年の労は報われる。しかし、アナタにも論文のノルマが迫っている。今ひとつ、顕著な成果は上げられていないが、この発見を元にパブリッシュすれば、アナタの功績は一つ増す。さて、アナタはそのシャーレを、誰の手に委ねますか?。無論、彼の家族とアナタは顔見知りで、可愛い娘さんの頭を撫でてあげたのも、ついこの間のことですが・・。」 その文章を読み終えたとき、冴は全身から血の気が引いた。彼女には年の離れた兄が一人いた。そんな兄は、卯建の上がらない研究者だった。何の研究をしていたかは知らなかったが、研究者の世界が如何に過酷かというのは、常々兄から聞かされていた。そんなある日、兄は疲れ果てた顔で家に帰ってくると、翌朝家を出たっきり、消息が分からなくなった。そして数週間後、幸いにして彼は発見されたが、それ以降、研究室を去り、人知れず片田舎でひっそりと暮らすようになった。それから比較的元気な兄の顔を見るまでには、さらに数年の月日を要した。  あまりにも身につまされるような文章に、二人はヘトヘトになりながらも、ディスプレイから目を話すことが出来なかった。そして何時しか、二人はそれぞれのデスクに突っ伏したまま、朝を迎えた。 「おい、どうしたんだ?、キミ達。」 いつも朝イチに出社して来る編集長が、徹夜仕事をしていた二人を見つけて驚いた。 「・・ん、あ、編集長。」 酷い顔をしたまま、冴は編集長の声に目を覚ました。しかし、秦はまだ机に項垂れた状態で眠っていた。彼女は起き上がると、秦の所までいって、彼を揺り起こした。 「いや、もう、もう沢山だ・・。」 秦は魘されながら、冴に揺り起こされた。そして、 「うわっ、朝かよ・・。」 と、自身の没頭ぶりに驚いた。 「今は服務規程も五月蠅いから、そんなことしてちゃ駄目じゃないか。」 編集長は二人の様子を見て、やや不機嫌になった。しかし、 「編集長、実は・・・、」 冴はそういいながら、昨晩から二人が帰れなかった原因となった、例の投稿記事のことを話した。初めは半信半疑な様子で聞いていた編集長だったが、 「へー、キミらがそこまでいうなら、ちょっと読んでみようか・・。」 と、彼も自身のPCを付けると、表示された投稿文を読み始めた。そして、彼もまた、ディスプレイを見続けたまま、動かなくなってしまった。その様子を見て、冴と秦は顔を見合わせて頷いた。 「編集長、編集長!。」 あまりに真剣にテキストを読んでいたため、編集長は冴の声に全く気付いていなかった。 「編集長っ!。」 秦が大きな声で編集長を呼ぶと、 「はっ!。」 そういいながら、やっと我に返った。そして、誰もディスプレイを覗き見してないかを確認すると、 「うーん、この手のフローチャート的な話の展開は、今までにもなくは無かったが、こいつはちょっと、訳が違うな・・。」 編集長は腕組みをしながら背もたれに深く腰掛けた。 「でしょ?。読みたいのに、何を読んでるのか知られたくない。このコンセプトは、相当に凄いと思うんですが?。」 冴は編集長に、この投稿文を何とか出版出来ないかと、そう伝えた。 「うん。こりゃ、カルト的な要素もあるしなあ。だが、問題は出版化に際して、選ばなかった方を見ないようにする仕組みをどうするかだな・・。」 二人は互いに案を出し合った。選ばなかった方のページを切り捨てないと、選んだ方が読めない構造にする方法も考えてみたが、コストが掛かりすぎるし、何より、上手く作れるかどうかが未知数だった。 「編集長。この投稿、まだ未完なんです。で、恐らくですけど、ダウンロードは出来ないんじゃ無いですかね?。」 秦はこの文章の構成上、そんな気がしていた。試しに表示画面のテキストをプリントアウトしようとしても、 「not found.」 の表示が出るだけで、紙媒体を頑なに拒否しているようにさえ見えた。 「ということは、ネット配信のみかあ・・。」 昨今は書籍は電子化が主流になりつつあるため、その方が都合がいいと、いえなくも無かったが、問題はこの作品が商業的にウケるかどうか、その一点だった。 「宣伝の仕方は、相当難しいなあ。情報を共有出来ないって所が、最大の難点だしなあ。」 「でも編集長、自分だけの、ひっそりとした楽しみという点では、この構成に勝るものは無いんじゃないですか?。」 「確かに・・。」 編集長と冴は、既存の宣伝を超えた方法で告知すれば、商品化は可能だろうという結論に達した。しかし、秦だけが、別の角度からこの投稿を捉えていた。 「何か問題でも?。」 難しい顔で考え事をする秦に、冴はたずねた。 「恐らくですけど、全ての文章では無くとも、幾つかは相当身につまされるように感じたんじゃ無いですか?。」 秦の指摘は、三人に当てはまっていた。 「確かに。まるで自分のことを取材したのかと見間違うような箇所もあったな・・。」 「ええ。そうね。」 二人がそういうと、 「それが何故出来るのか、其処が解らないんです。小説って、疑似体験を最大公約数的に重ね合わせることで、共感や感動を呼び起こす。でも、この投稿文は、ただ単に共通項をデータ的に集約して、その傾向に沿ったものをテキストにしているのか、其処がイマイチ解らないんです。」 秦は如何にも理系的な表現で、その文章が持つ奇妙な力について分析し終えていないことを伝えた。すると、 「いえ、此処は感性よ。アタシ達が十分に嵌まった。それだけで十分よ。違う?、編集長。」 冴は自身の受けたインスピレーションのままに、編集長に迫った。彼は腕組みをしたまま、時折二人を交互に見つつ、 「それを確かめる方法は一つだなあ。」 そういいながら、二人を見た。 「取材!。」 「取材!。」 冴と秦はほぼ同時に同じ言葉を発した。これほどのものを提示してくるのだから、当然、読者は作者に興味を持つはず。それより何より、このような発想が、一体、どのような世界で生まれ、どのように綴られているのかを、二人も知りたくなっていた。  編集長の許可を得ると、二人は午後には戻るという約束で会社を出た。冴は一旦仮眠を取ってからいったほうがと秦にいったが、彼は直ぐにでも作者に会いたいといわんばかりに、投稿者に連絡を取った。事前に送られていた投稿文に添えられたメールアドレスに、取材に応じて欲しい旨の文章を携帯から送った。すると、 「外でならいいです。」 と、一言だけの返信があった。そして、時間と場所を指定すると、秦はその人物に会う約束を取り付けた。 「よし!、やったぞ!。」 秦は興奮気味に声を上げると、冴を地下駐車場に止めてあった自身の車に誘い、そのまま目的地まで出かけた。相手から示された場所は、編集部から車で一時間ぐらいの所にあった。 「思ったより近かったな。」 秦はご機嫌で車を飛ばしていた。助手席に座った冴も、確かに彼と同様、作者に興味は抱いていたが、何処となく浮かない表情だった。 「どうした?。」 彼女の様子に、秦はたずねた。 「うん、ちょっとね・・。」 「何?。」 「確かに、アタシ達、物語を読むのが好きだから、この仕事してるじゃない?。時折、時間を忘れて、つい読み耽る。そんな経験もいっぱいしたけど、あんな風になったこと、今まである?。」 冴は昨晩から今朝までのことが、どうしても引っかかるといった様子で、秦に伝えた。 「そのことなら、さっきオレもいったろ?。今はAIが活躍する世のかなだから、我々人間が知恵を絞るより、膨大なデータから傾向分析する頭脳というか、テクノロジーがあっても可笑しくない。それを、果たして人間がやれるのか。其処をオレは知りたいんだ。」 「例の、2のn乗の話?。」 「うん。それもあるけど、何より、その間(はざま)というか、手法が知りたいんだ。」 「それは・・ね。」 冴の思惑は、実は少し違っていた。眠い目を擦りながらもディスプレイを見続けたのは、果たして好奇心やワクワク感からなのか、それとも、そうでは無い、何か得体の知れない支配的な手技によってそうさせられていたからなのか。彼女はそのことが少し引っかかっていた。車の両横に映し出される車窓は、都心部から木々の多いものへと変わっていた。 「そんなに走ってないつもりだけど、思ったより早く自然な風景に変わったなあ・・。」 いつも車で郊外をドライブしている秦にしては、珍しいことをいい出した。それを聞いて、冴はやはりさっきのことが気になり出した。 「ねえ、何とかのクジラって話、知らない?。ロシアであった・・。」 彼女は突然たずねた。 「クジラ?。海の?。」 「いえ、そうじゃ無くって、何色だったかな。ちょっとヤバい事件になった。」 彼女の言葉に、秦は何かを思い出したようだった。 「あー、はいはい。あったなあ。アクセスした先から、ミッションをいい渡されて、それを遂行していくうちに、自死に至るってやつ。」 「そう、それ。」 「それが、何?。」 「人の心理や思考を遠隔で支配しながら、そんな風に追い詰めるのって、脳が疲れている時に最も起き易い現象だって、専門家はそういってたのよね・・。」 「何だ。そんなことか。オレ達、徹夜はして無えぜ。ちゃんと仮眠だって取ったし。」 「仮眠って、読み疲れて眠り込んだだけじゃない。」 「ま、そうともいうね。心配無いって。」 冴の言葉を他所に、秦はあっけらかんとしていた。そして、もう暫く走ると目的地という辺りで、二人は沿道でヒッチハイクする青年の姿を見つけた。 「こんな所でヒッチハイクか?。あんまり時間無えんだけどなあ・・。」 「いいじゃん。人助けは大事よ。」 冴の言葉に、秦は車を止めると、その青年を後部座席へ乗せた。 「すみません。有り難う御座います。」 小柄で少し痩せた青年は、そういいながら後部座席にひょこっと座った。 「行き先は?。」 「うん・・、ボク、道に迷ってしまって・・。」 「何処へいきたいの?。」 途方に暮れる青年に、冴は優しくたずねた。 「えっと、この近くにある城跡なんだけど・・。」 「城跡かあ・・。」 秦はカーナビで、この辺りの城跡を検索してみた。すると、 「あー、これかな。」 そういいながら、表示画面に映し出された城跡のある地図を拡大した。すると、 「お、ついてる!。オレ達が今から向かおうとしてる、直ぐ近くだ。」 秦はそういうと、車を発進させて、青年がいった場所まで飛ばした。そして、 「ヒッチハイクしてたぐらいだから、この辺りの人じゃ無いよね?。」 ハンドルを握りながら、秦はたずねた。しかし、 「いえ。うちは近くなんですが、この辺りの地理には詳しくなくて・・。」 青年は不思議なことを出した。それを聞いて、前の二人は顔を見合わせた。冴は、この青年が最近この辺りに越してきたばかりで、地理に明るくないのではと、そう推測した。しかし、秦は少し違った見方をしていた。生まれてから殆ど、外へ出たことが無い。そんな、非現実的な可能性を考えていた。そして、暫く走ると、車は目的地に着いた。  ポケットに入っていたメモ紙を取り出すと、青年は城跡の名称がメモと一致するのを見て、 「あ、此処です。どうも有り難う御座います。」 そういいながら、車を降りた。秦は再び車を発進させると、其処から数十メートルも離れていない交差点を左折して、自分たちの目的地の公園に着いた。 「どうやらこの辺りらしいな。」 そういうと、彼は車を近くのコインパーキングに止めた。比較的大きな公園だったので、本当に待ち合わせ場所で相手と会えるかと、二人は少し心配していた。そして、ベンチに腰掛けながら木陰の所で休んでいると、 「あれ?、あの人、さっきの人じゃ無い?。」 冴が向こうの方に、さっき下ろした青年を見つけた。 「あ、ホントだ!。」 二人は顔を見合わせた。ひょっとしたらという思いを抱いていたその時、 「あ、アナタ達は・・、」 やはり青年が二人の元に近づいて来た。 「ひょっとして、投稿者の方ですか?。例の文章の。」 冴がそうたずねると、青年はニコッとしながら、 「あ、はい。今日取材を受ける事になってました。へー、奇遇だなあ。」 そういって、改めてお辞儀をした。二人も立ち上がると、それぞれ名刺を差し出して挨拶をした。そして、三人はベンチに腰掛けながら話し始めた。 「早速なんですけど、我々はアナタの投稿文にかなり興味を持ちまして。で、どうしても、そのことについてお聞きしたいと。」 秦が青年にそう切り出すと、 「あ、はい。どうぞ。何を聞きたいんです?。」 と、自らの名称や生い立ちを語ること無く、淡々と質問を受けた。 「まず、アナタの投稿文の文体が二者択一になっている点と、選ばなかった方の文章が見られないようにしている絡繰りについて聞きたいんですが。」 冴がそう質問すると、秦は携帯でその様子を撮影し始めた。 「あ、すいません。画像はちょっと。文字起こしで録音は構いませんが、音源は使わないで下さい。」 青年は、自身の特定に繋がるものを記録することを拒んだ。そして、彼は投稿文のコンセプトについて、説明を始めた。 「時間の流れって、選択肢が多岐にわたると思われ勝ちだけど、一本のストレインなので、そのことを念押ししたかったから、選ばなかった他方は、その時点で存在しないようにプログラムを組みました。」 「アナタがあのプログラムを?。」 「ええ。」 冴の問いに、青年は自身がそういう方面にも明るいことを述べた。 「では、ボクの方からの質問ですが、あの選択肢は、人間のモラルの境界的な部分を問うような内容になっていて、時としてかなり精神をやられるような内容もあるんですが、あのような設定というか世界観は、どのように描いているんですか?。全て想像なのか、それとも何らかの元ネタのようなものがあるのか。」 秦は選択肢が膨大すぎて、一人で思いつくには物理的に無理があると、そう考えていた。すると、 「うーん、そうですねえ、題材となるものは、概ねネット上に転がっているって感じかな。最近ではAIがそういうものを拾い集めて、傾向別にラインナップしてくれるので、その優先順位に従って話を紡ぐって作業が多いかな。」 「ということは、ネタ集めと二択の配置もAI任せで・・ですか?。」 「いえ。其処はAIには出来ません。彼らは感性の何たるかを知りませんし、学ばせようにも、判断材料が足りません。なので、それはボクが行います。」 冴は淡々と答える青年の無機質さに、あの作品を創る作業が果たして人間性を備えた者の仕業かと、そういう疑念を抱いていた。しかし、あの独特で陰鬱な、モラルハザードへ人を誘う作風は、どうやら彼の感性らしいということが解った。 「じゃあ、これは偶然なのかどうかって話なんですが、我々があの文章を読んでいて、自分たちの経験に極めて近しい内容が描かれていると感じるのは、一体、何故なんですかね?。」 それこそが、作品を創る者の手腕だと、そう考えていいた秦だった。しかし、 「それは、偶然じゃ無いです。アナタ達が読むであろうことを推測した文章ですから。」 青年は、こともあろうに、二人の人生経験をまるで知り尽くしているかのようないいぶりで答えた。加えて、 「冴さんは、○○区にお住まいで、秦さんは最近、○○区に引っ越しましたよね?。」 と、二人の住所をピタリといい当てた。 「そんな情報、一体どこから?。」 冴は思わず声を上げた。 「ネット上です。世界中にあるサーバの何処かに、必ず情報がありますから。」 「そういうものって、ロックがかかっていて、簡単に閲覧出来るなんてことは・・、」 「出来ますよ。人間が作ったものですから。逆に人間の手で遡って情報を入手するのは、極めて論理的です。っていうか、そう出来なければ、意味無いですから。」 既存のPCを触れることしか知らない二人にとって、今目の前にいる青年は、その話しぶりから、相当手練れなハッカーか何かにしか見えなかった。 「じゃあ、アナタはそのような行為を普段から行ってると?。」 冴は彼に犯罪の意識があるのかが知りたかった。  青年は、悪びれること無く、 「うーん、今回の投稿文を作る前には、そのようなこともしましたね。みんなネット上に自身に関する履歴が無尽蔵に戸を開けているってことに、極めて無自覚的ですからね。そういうスキルを用いて個人や企業の情報を盗み出し、それを金銭を得る目的で使うなら、それは倫理に反するかな。」 そういって、自身の行為に犯罪性が窺えるなどとは、微塵にも感じていないようだった。 「いや、それはマズいんじゃないのかな。例え金銭を相手から得ようとしてなくても、人に知られたくない部分を勝手に閲覧したり、それを引き出して作品に利用したりってした段階で、法的にはアウトでしょ?。」 純粋に理論的であれば、感性は二の次的なスタンスの秦も、流石に青年のその考えには同調出来なかった。すると、 「では、秦さん。アナタはあの文章を、どんな気持ちで読みましたか?。」 青年はそうするのが当然のように、秦の目を見ながらたずねた。 「え、そりゃ、興味を持ったというか・・、」 「それは興味じゃ無くて、話の先を見たい自分と、自身の倫理のギリギリの所が問われながらも、前者に抗えない自身がいたからでは無いですか?。」 言葉の詰まった秦に、青年は図星な質問を浴びせた。 「答え難かったら、別にいいです。答えなくても。ですが、そうであることは、既に確定しています。だから、あの文章には先がある。人間の知的欲求を満たすべく、そして、自分とは何かという自己同一性を規定しているものを犠牲にしながら、それでもその先に辿り着いてみたいという、そういう人間の衝動に応えるべく、そう構築されていますから。」 確信犯だった。いや、まだ犯罪性は証明されてはいないが、その言葉以外、彼を評する言葉が無かった。二人は言葉を失った。興味の塊が、今目の前にいるのに、その興味からどのような質疑をすればいいのかという概念を、青年は一瞬で二人から抜き取った。 「今の話、分かり難かったですか?。じゃあ、こうしましょう。巨大な迷路の中に、一匹の鼠が置かれたとします。鼠は出口を探すべく、試行錯誤しながら行動します。しかし、鼠自身はその迷路の規模も出口も知らされていない。ただ、壁伝いに右往左往しながら、そして、一度来た道を覚えたのなら、行き止まりには再び迷い込まないように、そう行動する。でも、鼠が出口に辿りつけない可能性は極めて高い。その迷路の規模が大きければ大きいほど。しかし、人が作った迷路である以上、必ず片側の壁伝いに歩けば、どんなに遠回りをしても、いつか必ず出られるのに。でも、その方法論を知らなければ、鼠はそこから出られない。人間の精神なんて、そんなものですよ。人は決まった行動原理に則ってのみ、自身で行動します。そして、それが迷路から必ず出られる方法論で無くとも、自らの思い込みやこだわりという、幾分、自分にとって快適な選択肢で、出口とは異なる辺りをループし続ける。そういうものです。」 青年が話し終えたとき、秦の額から一筋の汗が流れた。彼は押し黙ったまま、青年を見つめ続けた。冴も、青年の話に少なからぬ衝撃を覚えた。が、しかし、 「じゃあアナタは、何故あの投稿文を、我々の元に送ったの?。」 作品を評価されたいどころか、まるで自身の研究の集大成を証明させる実験が如く、二人を、いや、この先も読むであろう人々に向けられた、非人間的な何らかの装置を提示した、そういう人物の自己満足を満たすだけのものなのかと、彼女はそう感じた。しかし、 「えっと、それは、アナタ方のサイトに投稿募集ってあったから。」 そういいながら、青年は急にあどけない言葉遣いと表情になった。超越的な俯瞰かつ真偽のみによって構成されている世界の使者から、今目の前に座っている青年は、ただの稚拙な幼子に豹変した。 「アナタ、この辺りに住んでるのに、この辺りには詳しくないっていってましたよね?。それって、おかしく無いですか?。最近この辺りに来たのならまだしも、もし、ずっとこの辺りに住んでいて、でも、この辺りを知らないって、どういうことですか?。ひょっとして、殆ど外へ出たことが無いとか?。」 秦が抱いていた疑問を、言葉を発することが出来なくなった彼に代わって、冴がたずねた。すると、青年は途端に俯きだして、 「・・・はい。実はそうです。」 と、恐らくは二十年近くを、外界から一切遮断されたであろう状況で暮らしてきたことを吐露した。一体、どのような境遇を経て、彼がこのような人間になったのかという疑問と同時に、限られたスペースで、ネットによってのみ、外界と唯一接点を持ちながら、自身の卓越した能力に結果的に磨きを変えた産物が彼なのかと、冴は興味とも恐怖ともつかない感情に苛まれた。すると、突然、秦が冴の肩に手を掛けながら、 「・・・これはスクープだぞ!。」 と、そう囁いた。  現代版浦島太郎か、はたまた狼少年か。秦には彼がそんな風に映ったのだろう。しかし、冴はそうでは無かった。青年が作り出そうとしている世界観は、彼自身がその威力さえ測りかねている。いや、理解さえしていな可能性がある。そんなものを、果たして世に送り出していいものかどうか。現象だけが一人歩きすれば、何らかの犠牲者が出てしまうかも知れない。 「じゃあ、アナタ。今日はどうやって家から出て来たの?。」 冴は、軟禁状態であったかも知れない彼が、何故今日は急に出て来られたのか、疑問に思った。すると、 「誰もいなくなったから。」 青年はポツリと話した。 「誰もいないって、じゃあ、今までは誰かがいて、アナタのことを監視してたの?。」 「多分。」 要領を得ない答えが、あどけない青年から返ってきた。 「物心ついたときから、ボクは部屋の中にいた。そして、目の前にPCが置かれていて、日に二、三度、食事が運ばれてきた。」 「ずっと?。」 「うん。」 彼はそんな中、人生の殆どを過ごしてきたらしかった。人との接触や関係性といった直接的な経験を一際せずに、ひたすら流れ来る情報によってのみ学び、自身の思考と感性を養い、そして時折、自身が組み上げたプログラムや、そうとは知らずに行っていたハッキング行為によって得られる報酬が、彼を其処に住まわせた人間と、彼の生活の糧らしかった。しかし、そのことを彼自身はつい最近まで知らなかった。そして、運ばれてくる食事が滞りだしたことで、自身の住まう家に何らかの変化が起きたと気付いたらしかった。そして、こっそりと部屋を抜け出して、誰もいないのを確認すると、生まれて初めて外に出たのだった。そして、今までに見た動画の中から、ヒッチハイクのシーンを見よう見まねでやってみたのが、ついさっきのことだった。 「ほら見ろ!。これは途轍もない代物だぞ!。」 秦はさっきまで青年の世界観に自己を消失しかけていたのが嘘のように、不敵な眼差しで彼を見た。 「彼が書く世界観は確かに人を引き込むが、その原因が彼の生い立ちにあるとなれば、記事の売り上げは計り知れないぜ。」 まるで何かに取り憑かれたように、秦は青年を家まで案内するように促した。 「ちょっと待って。」 冴はそれを遮った。 「これは、決して許されない事件よ。彼の人生がこんな風に弄ばれた実験動物が如き出来事。様々な法的検証無くして、我々が先に扱っていい訳が無いわ。」 冴自身も、青年が織りなす作品と彼の生い立ちには興味が深まってはいた。しかし、それを行ってしまえば、自分の中の大切な何かが壊れて仕舞う。いや、まるで青年が綴った投稿文のように、一線を超えた存在になってしまう。そのことに対する、最後の抗いが彼女の中にあった。すると、 「我々が此処で議論していても、しょうが無いよ。決定権は我々を取材に向かわせた編集長にある。でも、採用するかボツにするかを決めるだけで、さらなる取材を進めるか否かは、いい渡されちゃいないぜ。」 秦はどうしても、青年についての情報が欲しかった。そして、その勢いで、青年に深入りするのを拒む冴を説得しようと試みさえした。 「な。最終的にボツになれば、この事は世に出ないし、我々が取材したことも無かったことになる。でも、我々だけは、その秘密を共有出来る。どうだい?、魅力的だろ?。」 秦の言葉を、冴は拒絶しきれなかった。彼女が黙っていると、秦は、 「じゃあ、今からキミの家にいってもいいかな?。」 と、青年にたずねた。青年は二人のやり取りを黙って聞いていたが、 「解りました。どうぞ。」 と、あっさり快諾した。そして、秦は青年を車の所まで案内すると、三人は彼の家まで向かった。暫く走ると、普通の住宅街の付き上がりに、尖ったオレンジ色の屋根が聳える、少し大きな一軒家があった。 「此処です。」 門扉の下辺りは、刈り込まれていない雑草が無造作に生えていて、雨戸が閉められたその家は、外から中の様子が窺えないようになっていた。 「どうぞ。」 青年は門を開け、階段を上がると戸を開けて、二人を中へ誘った。一階はキッチンと冷蔵庫、そしてテーブルの上に置かれた幾つかの箱だけが、数日前まで人が居たであろう雰囲気を醸し出していた。 「ボクの部屋は二階です。」 青年は、二人を自室へと誘った。階段が軋まなかったことから、造りはいい家であることが窺えた。 「此処です。」 二階には戸が一つだけあり、其処を開くと、青年が過ごしている自室が見えた。机の上にはPCが置かれ、その脇には小さなベッドがあった。部屋は殊の外、綺礼に片付いていた。二人は部屋の中を見回したが、装飾品や生活感のあるものは皺の着いた布団以外、何も見つけられなかった。そして、冴が振り返りつつ、戸の下の方を見ると、丁度、猫が一匹ほど通ることの出来るパッタリの着いた小窓があった。 「此処から食事が?。」 冴の質問に、青年は黙って頷いた。  これは明らかに異常な行為だと、冴は思った。昔聞いたことのある座敷牢、さもなくば、精神を病んだ者を非人道的に扱う病棟の様相。やはり、此処で起きたことや、それに纏わる人物が書き記したものを、世に出すべきでは無いと、冴は確信を得た。 「これは通報した方がいい案件・・、」 冴がそういうと、秦は携帯を掛けようとする冴の腕を掴んだ。 「何処にかけるんだ?。」 「警察よ。」 「警察が、こんな話、信じるか?。しかも彼を閉じ込めていた状況は、今はもう無いんだぜ。彼は自分の意志で我々とコンタクトを取って、自分で外に出て、そして、こうして我々と会うことだって出来てる。」 「それは今の話でしょ!。今に至るまでが問題だっていってるの。アタシは!。」 二人の議論は平行線のままだった。すると、 「あの、お二人の話を伺ってると、ボクの書いた話がそのまま埋もれてしまう可能性があるってことですよね?。」 青年は無垢な目でたずねた。二人は議論を中断して青年を見た。 「・・ええ。事件として警察が取り上げれば。」 「それはボクの本意では無いです。出来れば、あの話が読まれることを望みます。」 青年の言葉を聞いて、 「ほら見ろ!。何より、本人の意志が尊重されるべきなんだろ?。だったら、彼がいってることが、彼の意志そのものじゃないか。」 秦は半ばゴリ押しの論理で、冴をいい伏せた。しかし、それは同時に、冴自身の好奇心が再び鎌首を擡げた瞬間でもあった。 「解ったわ。じゃあ、このまま取材を続けましょ。」 開き直った冴は、気を取り直して秦と二人で、次々と青年に質問をした。そして、青年は超越性と幼児性を交互に見せながら、二人の質問に淡々と答えた。結局、何故彼がこの家の子の部屋に閉じ込められるに至ったのかについては、以前、謎のままだった。しかし、最早、誰も帰って来そうな雰囲気でも無かった。今後は、一人の若い青年が、この家の主として、来たる人々を迎えることになるのだろう。そして、取材を終えた二人は、 「今日はどうも有り難う。また連絡するね。」 「引き続き、投稿文を送ってくれるよね?。」 と、別れの挨拶をすると、青年の家を後にした。そして、車に乗り込んだ二人は、暫し沈黙のままだった。 「まだ腑に落ちないんだろ?。ボクが取材を続けたことが。」 ハンドルを握りながら、秦が先に口を開いた。 「こんな話、同府に落とせばいいのよ?。彼の身に起きたことも、彼が考える世界観も、常軌を逸してるわ!。」 「でも、それを面白いと感じたんだろ?、キミも。」 冴はまだ抵抗感を示してはいたが、秦の指摘が彼女の言葉よりも深く的を射ていた。  編集部に着いた二人は、早速、取材内容を編集長と協議した。 「うーん、そりゃまた、凄い特ダネだな。作品以前に、事件だな。」 編集長の言葉は、冴が心配する問題点の側に寄っていた。 「ですよね?。ならば、やはり此処は慎重に考えないと・・、」 と、彼女がいいかけたとき、 「何をいってるんだ。こんな美味しいネタ、逃す手があるか!。」 編集長の言葉に、秦は勝ち誇ったような目で冴を見下ろした。そして議題は、この話の背景にある事件性を避けつつ、如何に作者が未知なる存在で、そして、人々を心理の迷路に誘う世界観を提供するか。そして、その世界を一度味わった者は、中毒性すら催すといったフレーズで発表するといった所まで話は一気に進んだ。その段階で、冴が何気に抱いていた違和感のようなものは、なりを潜めて、気付かないほどにまで矮小化していた。そして後日、やはり紙媒体での出版は選択肢の両方が見られてしまうことにより、作品の世界観を壊す可能性があるということで、青年の投稿文はネットでの発表のみ行われた。すると、未完のままではあったが、その異様かつ、一度読み始めたら抜け出せないダンジョンのような物語に、瞬く間に数多の人が夢中になった。 「大盛況じゃないか!。」 編集長はホクホク顔で二人にそういった。秦もまた、自身の感じていた手応えが、感覚通りに実現したことに、ご満悦だった。冴もまた、青年が書く物語のお陰で、忙しく日々を送ることになり、あれほど悩んでいた危惧は何処吹く風といった雰囲気だった。冴は読者がどうにかして、他方の選択肢を見ようとするのかどうかについて、若干疑問は抱いていたが、自身の時と同じく、選択肢を人と付き合わせながら検証しないブレーキが働いていることに、あらためて驚きを感じていた。それだけ、青年の織りなした物語が用意周到だったことを物語っていた。その後も、定期的に青年はさらなる選択肢を投稿しつつ、物語は膨大な情報量に膨れあがっていった。しかし、一人の人間が目にすることの出来る物語は、その中の選んだ一通りであるという不思議さは担保されつつ、それ自体が神秘性に拍車を掛けた。作品の好調ぶりに、編集長を始め、編集部も異様な活気に包まれていった。しかし、冴は、 「でも、これ、お宝探し・・よね?。」 と、当初の疑問を思い出しつつ、そのことが頭から離れないままだった。  青年の綴る物語は、導入部こそお宝にありつける何か面白そうな話と、みんなはそう受け止めて読み始めたが、結局は自身が下した選択が如何に自身の自覚を超えた自我というものが内在しているのかを思い知る、いわばリトマス紙のようなものだという感覚に嵌まっていった。そして、続編として投稿された文章は、さらに過酷な選択肢を読者に突き付けていった。 「時間という概念は、連続性を有することによって、空間を動的なものにさせ、その中でありとあらゆる生物が生きることを可能にしています。そして、とある信仰を持つ、神学者であるアナタが、人間の善と悪について深く考察していて、あるとき、この表裏一体の対立概念が時間を稼働させる原動力だということに気付きます。欲望のままに振る舞い、そして、その行いに対して日々反省する。そんな二つがまるで歯車のように交互に押し寄せる精神状態を駆動させ、その総体が静止し続ける空間に動きをもたらし、その結果、時間という概念が生まれる。そしてアナタは、善なる者に忠実な身の上で、人生を過ごしてきた。しかし、悪なるものを自身の内外から排除することは、即ち、歯車の噛み合わせのうち、片側を失わせることになる。それは時が止まることと同義。静止状態のアナタは、生きていると呼べるのかどうか、それは体験した者にしか解らない。さて、アナタはそれを知りながら、自身の価値観に従い、善なるを選び、悪なるを廃し、時が止まることもやむなしな選択をしますか?。」 流石に読者の中でも、意見が二分していった。さらなる選択肢を求めてのめり込む層と、示される選択をし続けることに疲弊し、撤退する層。これは精神の強さを試す、新しい啓示だと評する者もいれば、不道徳な悪魔の囁きと罵る者も、ほぼ同数現れた。それ故、青年の作品は、よりいっそう、注目を増していった。しかし、冴は予てより抱いていた疑問、いや、違和感にある種の確信を得始めた。 「これ、ひょっとして・・。」 彼女は編集長には伝えずに、一人だけで再び青年にアポを取り、例の家で会う約束をした。 「やあ、暫く。」 「こんにちわ。」 作品が好評だということに、青年も以前よりは明るい表情になっていた。そして、冴を快く家へ迎え入れた。彼は相変わらず、誰にも見張られず、この家で一人暮らしのようだった。そして、近所のコンビニへもいく余裕が出てきたのか、買って来たジュースを紙コップに入れると、冴に差し出した。 「はい。」 「有り難う。」 冴は喉を潤すと、早速、青年に質問をした。 「あの、例の投稿なんだけど、」 「はい。」 「終わりは、もう出来てるというか、想定はしてるの?。」 お宝探しならば、全ての選択を適切に行った最終地点には、宝物にありつけるという結論が待っている。しかし、彼が示す、いわば不気味な選択肢には、希望であれ、絶望であれ、そのどちらにも向かう要素が見受けられないことを、彼女は何気に見抜いていた。大方の者は、プロセスを楽しんでいるようだったが、初めこそ彼女もそうだったものの、今は違っていた。すると、 「うーん、どうだろう。一応、あるにはあるんだけどね。終着点が。」 青年もジュースを飲みながら、そう答えた。 「でも、それって、アナタ自身の内部に在るものじゃ無いんじゃない?。」 冴は青年の目を見ながら、そうたずねた。そして、 「論理的な組み立てによって到達出来るものを想定することに、アナタは卓越している。だからこそ、そういういい方でしか表現出来ない。どう?。」 彼女の指摘に、青年の動きが止まった。そして、 「だから、何?。それの何処が悪いの?。みんなはボクが示した選択肢のパズルに興じて、そして謳歌している。それだけで十分じゃないのかな?。」 青年は何悪びれること無く、自身の行為の正当性を主張した。 「それは、パズルじゃ無いわ。だって、パズルは完成するもの。でも、アナタの最期のピースは、あなたの手の中には無い。つまり、今なお、アナタ自身も探し続けている。その思考方法が、二分法。秦はそういっていたわ。」 「へー、ご名算だなあ。秦さんは凄いや。じゃあ、彼は今もボクの話を楽しんでいるのかな・・。」 すると、 「秦はもういないわ。アナタの話に乗せられて、自身の善悪判断に苛まれて、心を病んでしまった。アナタは、アナタ自身のその能力で、アナタのファンを、そんな風に追いやってるのよ。どう、それで満足?。」 冴は秦が病む直前に書き記した封書を、背年に手渡した。 「其処に何が書かれているか、アタシは知らない。知りたくも無い。それはただ、アナタにだけ宛てられた、彼からの手紙よ。」 そういうと、冴は青年の震える手の上に封書を乗せた。青年封を開けると、黙って手紙を読んだ。そして、締めくくりには、 「全ては一つの心の中に。」 そう書かれていた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!