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記憶喪失で森の中
「あれ?ここ…どこ?」
うつ伏せで倒れていた顔を上げて、呟いた。
頬に張り付いた枯れ葉が、土を残して地面へ、ハラハラと落ちた。
「森?林?……え!?なんで?」
周囲の景色に驚き、急いで立ち上がろうとして、膝の痛みと、片方の足が裸足であることに気がついた。
立てた左膝は、擦りむけて血が滲んでいる。
そして、脱げたサンダルの片方は、少し離れた、50㎝程高い所に落ちている。
状況を考えると、足を踏み外して転倒したのだろうか。
「私……いつ、こんな所に来たんだろう?」
自分の考えたことを口に出して、キョロキョロと周囲を見回した。
それから自分の姿を確認する。
白いTシャツと短パンという山の中らしからぬ格好だ。
そしてTシャツは大柄の男性のものなのか、五分丈なっていて、首元も、ざっくりと開いている。
裾も太ももまで届いているから、ワンピースにも見える。
露出した腕には鳥肌が立っていて、肌寒い。
「えっと……何してたんだっけ、私。ん?あれ?全然思い出せない」
頭に手を当てて、丸いシルエットのショートボブっぽい髪の毛を叩くと、落ち葉のカスと、砂が落ちた。
(ここに来る前の記憶を思い出すどころか、何も出てこないんだけど……どうしよう……え?私って……どうやって、生活してたっけ?)
慌てて、持ち物が無いかと、洋服を探った。
(きっと、コケてビックリして、全部ど忘れしているだけ!スマホでも見れば、一瞬で全部思い出すはずだよ!)
そう考え、ショートパンツの小さなポケットを探ったけれど、何も出てこない。
スマホ、家や自転車の鍵、学生証や社員証などの身元を特定するような物を何一つ持っていなかった。
「ちょっとまって!困ります。財布とかないの?あっ!鞄も転んだときに飛ばされたとか?」
傷む足に力を入れないように、よろよろと立ち上がり、ひとまずサンダルを拾って、それを履いた。
片足でジャンプするように木に手を当てて、近くを歩いた。
「ない……ないよぉ。何にも無い」
自分が何者なのかも思い出せない今の状況に、心細くなって、涙が浮かんできた。
「記憶喪失とか、ドラマ?漫画?嘘でしょ……落ち着こう私、思い出そう」
やたら身振り手振りをくわえて話しているのは、自分を落ち着かそうと必死だからだ。
動きを止め、木に寄りかかり、目を閉じて深呼吸をした。
(私は……名前は、ちょっと思い出せないけど……見るからに子供じゃないし、老人でも無い。背は高くも無いし、低くも無い。ここは寒いけど、服装は部屋着っぽいし、サンダルは可愛い物じゃなくて、ちょっと外に出る程度のもの……この辺の森の一軒家とかに住んでいて用があって歩いてた?それでコケて頭でも打って記憶喪失!?でも……頭は少しも痛くない。と、とにかく近くに自宅があれば、きっと家族とかも居るし……この男っぽい大きなTシャツは兄弟のものか、父親のものだよね?)
Tシャツの裾を引っ張って、思い出せない家族について考え、口を開いた。
「お父さーん、私のお父さんか、お兄さんか、弟さんんは近くに居ませんかー」
羞恥心で、私の声は小さかった。
「すみませーん。もう家族じゃなくてもいいので、誰か居ませんか!」
焦りと共に声は次第に大きくなっていった。 そして、痛む膝を庇いながら歩き出す。
歩道らしき道もなく、どちらに向かうのが正解なのかは、わからなかったけれど、このまま夜になって遭難するのは嫌だ、という恐怖に突き動かされていた。
「誰かいませんかー!怪しいものじゃありませんー。道に……人生に?迷ってて……」
三十分ほどひたすら前に進み、声を出し続けた。 頼りだった夕日が段々と沈んで、目視できる範囲が狭くなってきた。
少し風もでてきて、一段と寒くなり、木々が揺れて音がする。
「誰かぁ」
ガックリと肩を落とし、地面を見つめた時だった。
ガサガサ ――
背後で、木々を掻き分けるような音がした。葉を踏みしめ足音も。
「あっ……すみません!」
誰か現れたのだと思い、喜んで後ろを振り向いた。
「っ!?」
しかし、振り返った先には、2メートルはありそうな大きな体の熊だった。
何となく、記憶の中の熊よりも違和感がある。
しかし、熊の顔だけを見て、パニックに陥った私には、この違和感の正体がわからなかった。
「きゃあああ!ひっ……あっ……」
(ど…どうしよう!叫んじゃった!熊って遭遇したら静かに後退するんだって、どこかで聞いた事が有るような……どうしよう……私、殺される!?食べられる?!)
走って逃げようにも、足は震えて立っていることも出来ず、その場にしゃがみ込んでしまった。 熊が、茂みから飛び出し素早く近寄ってきたので、頭を抱えて体を硬くした。 悲鳴すらもう出ない。
「離れろ!」
熊の手が私の体に触れる前に、力強い男性の声が響いた。声の主を、恐る恐る探し当てると、迷彩柄の軍服に身を包んだ男の人が、鋭い眼光を熊に向けて威嚇している。
(……軍人さん?)
チラリと視線だけ熊に戻すと、伸ばされた熊の腕が、引いて行った。
熊はその男性を見つめると、背を向け、茂みを掻き分けて走り去った。
熊の背中を見送った彼が、ゆっくりと此方に近づいてくる。
「……おい、大丈夫か」
恐怖で体が固まり、頭もフリーズ状態でぼーっとしていると、声が掛けられて、大きな手がそっと肩に置かれた。
(うわぁ……静電気が流れたよ……)
ビリッとした感覚に驚き、相手を見つめると、彼も目を見開いていた。
(……すごい…格好いい男の人だ……ちょっと顔つきが強面すぎだし、眼光が鋭すぎて怖いけど……)
目の前の男性は、整った顔立ちをしているが、野生の獣のような鋭さで人を寄せ付けない雰囲気があった。
背も高く逞しい体をしている事も拍車を掛けている。もしも、軍服でなければ、怖い世界の人間なのかと不安になったと思う。
「怪我をしているのか?」
自分の前にしゃがみ込んだ彼を、戸惑いながら見つめた。
(軍服ってことは……この辺には、そうゆう施設があるのかな?それとも、ミリタリー好きな人?あの腰にぶら下がっている拳銃って本物?)
「おい…どうした、言葉がわからないのか?」 男らしい太い眉が寄せられた。
「あっ、いえ!すいません。わかります。あ…ありがとうございます、危ない所を……助けて頂いて」
顔の目の前でブンブン手を振って早口で話した。
その様子に、目を見張った後で、安堵した相手は、私の擦りむけた足に視線を送り、再び眉をひそめた。
「血が出ている……痛いか?」
膝は擦りむけて血が出ているが、そんなに大した事は無いのは一目瞭然だ。
「全然大丈夫です!」
「そうは、感じられない……」
痛ましい顔で男性に足を見られているのが、恥ずかしくなった私は勢いよく立ち上がり、体重をかけた膝が痛み「いたっ」と思わず声に出して、フラついた。
バランスを取る為に出した手を彼にギュッと掴まれた。 大きくて硬い手は、自分の手よりも温かく妙に生々しく感じられ、余計に恥ずかしくなり、顔を伏せた。
「君は何故此処に、そんな格好で居るんだ?この辺りに民家は無いはずだが……少なくとも地図上は」
「あ…あの!実は……言っても信じて頂けるかわからないのですが、私……コケて記憶が曖昧になってて……」
「頭を打ったのか!?」
彼は、私の手を離し、ぐっと近づいて腰を支えると頭にそっと触れた。
(ち……近い!目の前に胸板が……なんだか、この人、良い匂いがするし……恥ずかしいよ!)
顔を赤くし、体を押し返そうとしたけれど、勝手に相手の体に触れるのも躊躇い、宙に手を彷徨わせた。
「だ、大丈夫です!頭痛くないです。でも……それ位しか原因が思い浮かばなくて……気がついたら、ここで倒れていたんです」
「……医者の所に行くぞ」
そう言うと彼は、軍服のジャケットを脱いで、私の肩に掛けた。
すると、一瞬だけ口角を上げて微笑んでいるように見えた。
(ちょっと、この軍人さん優しすぎないでしょうか……えっ、軍人さんって災害救助活動とかもするし、困っている人への優しさがデフォルトなのかな……妙にドキドキしちゃうよ!絶対勘違いしちゃう女の子いるよ!)
「えっ…と、ありがとうございます。でも……あの、病院は……私ご覧の通り、財布すら……」
寒さも限界だったので、有り難くジャケットに袖を通したが、明らかにサイズが違い、かなりたくし上げて、やっと手が出てきた。
これを自分が借りてしまって、寒くないのだろうかと視線を送ったけれど、そんな様子はなかった。
「問題ない。それに、君は……人間だろう?」
彼の真面目な質問に、呆然とした。
(私……もしかして、人間を疑われる程の顔なのかな!?それは、ちょっとショックかもしれない)
私は自分の頬に手を当てて絶望した。
「あの、多分、えっと……貴方と同じ人間だと思います」
「ソウンだ」
「え?」
「俺は、狼獣人のソウンだ」
耳を疑った。思わず彼の顔を二度見してしまった。
(おおかみじゅうじんのそうん、さんの名前と苗字の境目はどこ?まさか、狼獣人って言った?獣人?なんだか、ちょっと知ってるよ……物語で見た気がする)
「えっと、ソウンさん。獣人ってなんですか?」
私は「本気でいってますか?」とまでは言えなかった。なにしろ自分には記憶が無い。
「そこまで忘れてしまったのか?」
彼の顔がより険しさを増した。その迫力に意味も無く謝りたくなった。
「忘れてしまったというか……」
(ちょっと自分の記憶は忘れちゃったけど、獣人ってピンと来ない。 このソウンさんが冗談を言っているようにも思えないし……えっ……まさか、私、本で読んだことある気がする……あの、異世界転移ってやつをしちゃった!?)
私は、いよいよ平静を保てなくなった。頭をキョロキョロ動かし、意味も無く視線も彼方此方に向けた。そして手がフワフワと動いた。 その様子を彼が痛ましい目で見つめている。
「思い出せないならそれでいい、ただ……君は、もう絶滅した人間だと思う。だから下手に大きな病院に行ったり、警察に駆け込めば、相当な騒ぎになると思う……だから、俺の知り合いの医者の所でいいか」
(人間が絶滅……それって、どうしてなのかな?えっ、ここって人間にとってサバイバルな世界なのかな?そもそも、私は、なんで異世界転移して、記憶まで失っちゃったんだろう!?忘れちゃったけど、きっと家族とか心配しているよね?)
「隊長」
「ひゃあ!」
「……宇田」
周囲へ意識が薄くなっていたところに、ソウンさんと同じ軍服を着た男が彼の元にやって来た。
背の高い男性で、クルクルの天然パーマの髪が目元まで届き、濃い整った顔立ちも相まって、軍人っぽく無かった。
右耳には銀のイヤーカフが二連飾ってある。
「熊はどうしたんですか」
宇田と呼ばれた人は、チラリと私を見てソウンさんに視線を戻した。宇田という人の問いにソウンさんは一度首を振った。
「宇田、全員帰還させろ。指揮を執れ」
「はい」
ソウンさんは、問いには答えなかった。
しかし宇田と呼ばれた人は、ソウンさんの命令に、歯切れの良い返事をすると私には目もくれず駆け足で去って行った。
現れて直ぐに去って行った宇田さんを、目線で見送った私の口は半開きになっている。
(うーん、ソウンさんは熊退治に此処に来たの?あの部下の人も人間にしか見えないけど、獣人ってやつなのかな?)
「一応聞くが、担がれるのと、負ぶわれるのどちらが良い?」
ぼーと走り去った宇田の方を見ていると、その視界に入って来たソウンさんが聞いた。
「え?……あ、大丈夫です。歩けます」
たぶん、という言葉を飲み込んで手を振った。
(見た感じ私、豊満なボディではないけど……この山道を人を負ぶったりして歩くなんて、大変だし危ないよね!膝は痛いけど、気合いと根性で歩くしかない!)
「無理だろう。夜が深まるほど、危険だ。獣人は人間と力も体力も比べものにならない。落としたりしないから安心しろ。だから嫌でも我慢してくれ」
ソウンさんの威圧感のある目が私をジッと見つめた。
「嫌じゃないです!そういうんじゃなくて……よろしくお願いします」
(申し訳無いのもあるし、この強面美形なお兄さんに密着するの……凄く恥ずかしい)
私の顔は、熱く火照った。恥ずかしさを誤魔化す為に大きなTシャツの裾を持って下に引っ張った。
「ほら」
ソウンさんが長い足を曲げて私の前でしゃがんだ。しゃがんでもなお大きく感じるのは厚くて大きな肩幅のせいか、彼の雰囲気のせいなのか。
「あの……重かったらすいません……失礼します」
私は彼の背中に一歩近づいて、少し躊躇った。
(凄い筋肉……軍人さんて皆こんなに逞しい体しているのかな)
ゆっくりソウンさんの肩に手を置いて、その背中に躊躇いながら体を近づけた。
「山道を歩くんだ、ちゃんと腕を回せ」 「は、はい!」
ソウンさんに指摘され、肩に添えた手を彼の首の前にまわした。
(ち…近いよ!私のほっぺにソウンさんの耳が当たる!恥ずかしい!自意識過剰って思われるかもしれないけど……恥ずかしい!ソウンさん、何だかシュっとした良い匂いするし……あぁ……とにかく恥ずかしい)
「すいません、すいません」
「何がだ」
私が腕をまわすと、ソウンさんが立ち上がった。常日頃から体を鍛えているのか、ソウンさんは全くフラつかずに、すっと立ち上がった。そして苦労なんて何もないように軽快に歩き出した。
「わかりません、とにかく、すいません!」
私は彼の首元で頭を下げて謝った。
「変なヤツだな」
ソウンさんが鼻で笑いながら言った。
(こ……声が、低い声が密着しているせいか体に響くよ!ドキドキする。私、もしかして記憶を失う前は、格好いい人をみるとキャーキャー騒ぐ、ミーハーなタイプだったのかな!?……ソウンさんにとってこれは任務、私は要救助者!)
「この山は起伏は激しくないが、しっかり掴まっていろ」
「はい」
ソウンさんは、私を背負ったまま駆け足くらいの早さで走り始めた。
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