昭和の男

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昭和の男

 僕の父は電力会社に勤務していた。僕は父の影響で、県庁所在地にある電気工事士の資格が取れる専門学校へ入学したが、その頃から父の体調は徐々に悪化していたようだった。それでも、父は発電所に通い続け、家に帰ってくると「今日も電気が点いとる」と言って、嬉しそうに目を細めて電灯を見上げていた。  ある日、我慢強く、時には頑固にさえ感じる父が「腹が痛い」と言った。二日酔いの日も栄養ドリンクを飲んで出勤していくような強い人が、はじめて体の不調を訴えたのだ。あの頃は、会社の健康診断も緩く「自分は健康だ、病気はない」と言い張って、ほとんど受診したことはなかった。たった一度、親知らずが生えてきた時に、会社の診療所で診てもらったことがあっただけだ。僕は母と相談して、父に病院へ行くように勧めると、案外素直に一人で病院へ行った。  そして数日後、病院から電話がかかってきた。すぐに病院へ来てほしいと言われ、仕事場から病院へ直行した。病院には、すでに母が来ていた。母の青い顔を見て、ただ事ではないのだと悟った。父はステージ4の胃癌に蝕まれていた。医師からは、手術をしても回復の見込みはなく余命6カ月と宣告された。また、医師は他の臓器への転移も示唆し、長年にわたる甲状腺癌罹患があったのではないかとも言った。母と僕は父に病状を知らせないことにした。父には胃潰瘍だと告げた。それから父は、定期的に通院治療を続けることになった。会社には僕から事情を説明して、できる限り父に仕事を続けさせてほしいと言った。その時の父の上司は理解のある人で、父に何かあったらすぐに連絡するからと、僕と母の携帯番号を自分の携帯に登録した。   僕は卒業と同時に第二種電気工事士の資格を取得し、地元の電気設備施工会社に就職した。会社に事情を話して、本社よりも家に近い営業所に配属してもらい、弱っていく父を見守りながら通勤していた。その上、勤務時間外は、電気主任技術者の資格取得に向けて勉強していた。お盆休みには母校で行われる夏期講習にも通い、睡眠時間を削って猛勉強した。夜中まで勉強していると、痛みで目が覚めたのか、父が僕の勉強を覗き込んでくることがあった。特に何か教えてくれることはなかったが、フンフンと納得したような声を立てて、また寝室へ消えていくのであった。  僕が社会に出て2年目に、父はとうとう発電所に行けなくなった。父は通院日以外、家で寝ていることが多かった。たまに調子がいい日は、座椅子で新聞などを読んでいた。僕が休みの日で、父の体調がよさそうなら、車で外に連れ出すこともあった。暖かくなって、僕と母は父を日帰り温泉旅行に連れ出した。本当は1泊くらいしたかったのだが、父の体力がそこまで持つか不安だった。天然記念物の力強く咲き誇る桜を眺めて、父の顔も明るくなった。温泉では父の背中を流した。力を入れたら折れてしまいそうに瘦せ細ってしまった父の体、腹水が溜まって張り出した腹、40代とは思えないほど白くなった髪、僕は湯気に紛れて、静かに泣いた。  温泉から上がり、食堂で遅めの昼飯にした。名物の蕎麦を注文したが、父は半分も食べられなかった。僕は、その残りを引き受けたが、なんとなく残りの人生も引き受けたような気がした。父は少し疲れたのか、椅子の背にもたれて目を閉じていた。その様子を見ていたスタッフが、「どうぞ休んでいってください」と言った。本来は宿泊者向けの部屋なので、父は「車で休みますから、けっこうです」と断った。それならと、スタッフはフカフカの座布団を4枚持ってきて、椅子をいくつか並べてベッドのようにした。スタッフが「ここに寝てください」と促すと、父は照れ臭そうに笑って「子供みたいだ」と言って横になった。その心優しいスタッフは、自らのものと思われる膝掛を父の体にかけた。  暗くなる前に家に到着できる時間まで食堂で休ませてもらった。スタッフがフカフカ座布団を一枚持たせてくれた。「ご返却はいつでもいいですから、どうぞお気をつけて」とスタッフに見送られて、帰路についた。山間の道を走っていると、薄目を開けた父が窓の外を見つめて、「ここに空港ができるんだと」と言った。「へぇー、空港かぁ」と返事をすると、父は「飛行機、乗ったことなかったな」と寂しそうな声で言った。そういえば、父は飛行機が飛んでいるのをよく見ていた。僕も小さいころから、つられて見ていた。あぁ、そうか、飛行機が好きだったのかと、その時気づいた。  その年の夏、僕は電気主任技術者試験を受験した。合格発表を待たずに、父はこの世を去った。余命6カ月を宣告されてから、2年も頑張った。やはり父は強い人だった。四十九日をむかえ、僕は父の遺影の前に、食堂で貸してもらったフカフカ座布団を敷き、電気主任技術者資格の合格通知を置いた。僕は、その座布団に座って線香をあげ御鈴を鳴らした。「お父さん、今日はこの座布団を返しに、あの人に会いに行ってくるよ」と、声に出して言った。  あの日と同じように、午後1時過ぎに、あの食堂に入った。あの日と同じように、ざる蕎麦を注文した。僕は、あの時のスタッフの姿を探した。「たぶん、あの女性かな?」と思って見ていた。スタッフが僕に気づいて、微笑みながら会釈した。「あのう、座布団返しに来ました」と言うと、スタッフの顔がパッと明るく輝き、こちらに近づいてきた。スタッフの様子は、あの時より、ふっくらした印象があった。 「お父様は、お元気ですか?」 と問われた。僕は、一瞬ためらった。 「亡くなりました。今日は四十九日です」 と答えた。スタッフは、すまなそうな顔をして言葉を探しているようだった。 「これ、ありがとうございました」 と、座布団が入った紙袋を渡した。スタッフはそれを受け取った。 「お父様の、お名前は?」 「『哲彦』です。哲学の『哲』、戒名にも入れてもらいました」 「いいお名前ですね。その字をいただいてもいいですか?」 スタッフは、自分の腹を優しくなでた。あの日は気づかなかった。そうだったのか… 「おめでただったんですね、あの時はわからなかったけど。男の子って、わかってるんですか?」 「はい、あの日はまだわからなかったけれど、何となく男の子かなって。今月の検診で男の子だってわかって、あの時お父様の名前聞いておけばよかったって思っていたんです」 「そうなんですか。でも、なんで僕の父の名前なんかお子さんに?」 「なんとなく、ふふふっ。おかしいですか?」 厨房のほうから「ざる蕎麦!」と、声がかかった。顔を赤らめたスタッフは「はーい」と厨房に返事をし、ざる蕎麦を取りに行った。  あれから30年、母と僕は、親一人子一人で生きている。
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