第一章「蒼井愛奈の情愛」-1-

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第一章「蒼井愛奈の情愛」-1-

【1】  木枯らしに吹かれ、木の葉が舞う十月下旬の夜だった。  消灯後の病院は薄暗く怖いほどに静かである。  ロビーに設置されているタイムカードレコーダーにIDカードをかざすと画面に『蒼井(あおい)愛奈(あいな) 退勤』との表示が映し出される。続けて『認証しました』と無機質な音声が流れた。機械の反応音に気づいたのか、警備室から鍵を手にした警備員が出てきて「お疲れ様です」と会釈をしてくれた。  警備員がドアの下方に取り付けられた鍵穴に鍵を差し込み、閉まっていた自動ドアを解除してくれたのでお辞儀をしながら礼を言い、病院を出る。すぐ首元にまるで真冬を思わせる寒さを感じ、思わず襟元を両手で掻き合わせた。  今日、この時間まで残業になってしまったのはまったくの想定外だ。  日勤の仕事は定時には終わっていた。しかし夜勤の看護師が頭を抱えている姿が目に入り、気になったので帰る前に声をかけ、理由を聞いてみた。  話によると、明日までに医療安全委員会の会議に提出しなければならない報告書が全く手つかずの状態であることに気づいたため、有給休暇を取っている担当の看護師に連絡して確認を取ったそうだ。すると、「明日の朝までに適当にまとめておいて」と無責任な返答をされてしまったのだという。  夜勤業務をこなしながら報告書をまとめるのは不可能だ。愛奈は慌てて今年度前期分の自部署の報告書の資料を抱え、パソコンに向かった。見様見真似ではあるが昨年度の報告書を参考に、医療事故やインシデント事例を洗い出し、原因から発生までの全体像、再発防止対策と実施後の評価。課題などをまとめた。  床に水がこぼれていて転びそうになりヒヤっとした事例や、患者がインスリンの単位を間違えて打ってしまったという医療事故など、ざっと二十六件の報告書がまとまった。細かな修正は明日、会議までに師長と担当に直してもらえばいいだろう。両者にメールを送り、パソコンを閉じる。ホッと一息つきながら時計を見ると二十三時を過ぎていたため、急いで退勤したというわけである。
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