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なんだか一気に疲労を覚える。明日も仕事があるし、なるべく早く帰って温かいお風呂に浸かり、心地よい布団で眠りたいとふいに愛奈は思った。
信号が青に変わった。片瀬と別れるのにちょうどいいタイミングだ。
この信号を渡り、住宅街の一角にあるマンションに愛奈は住んでいる。
「鍵、見つかるといいですね。それじゃ」
愛奈は淡々と言い、横断歩道を渡る。しかし、すぐその後に片瀬がついて来た。当然、怪訝な表情をして振り返った。
まさか、一緒に鍵を探せと言い出すつもりでは――嫌な予感がして身構えたが、片瀬の言葉はその予想をはるかに超えたものだった。
「きみの家に泊めてもらえないかな?」
屈託のない笑顔とでもいうのだろうか。なるほど、「愛嬌あるあの笑顔で頼まれるとつい従ってしまう」と看護師たちに噂されるだけある。だが、冷静に考えてみると彼が要求してきた内容はかなり横暴だ。
「……鍵が見つからないことはお気の毒だと思います。けど、とりあえず警察に遺失届を出して明日、明るい時間にもう一度思い当たる場所を探してみてはどうでしょうか。財布が無事なら、どこか近くのビジネスホテルに泊まる方法もあると思うんですけど」
「きみは真面目なんだな」
「普通です」
「酔っ払いを介抱せずに放っておくと、保護責任者遺棄罪に問われる可能性があること知ってる?」
「え!」
愛奈は思わず声を上げる。
実際は『帰宅先まで送って行く約束をしてお酒を飲ませたにもかかわらず、その約束を反故し酔い潰れた相手を放置し、事故に遭わせてしまった』などの場合、罪に問われることがあるらしい。何の約束もしていない愛奈は当然、ここで片瀬を置いていってしまっても、罪に問われることはないだろう。それに片瀬は酔ってはいるものの、酔い潰れるほどではないはずだ。
ただ、確かに酔っぱらっているとわかっている相手を放置してしまうのは倫理的に気が引ける。
愛奈が迷っている。その少しの心の隙をつくように片瀬が近づいて来た。
「俺のこと、きみは知ってくれてるみたいだし、あえて身元を明かす必要もないよね。絶対にきみが嫌がるようなことはしない。本当に困ってるんだ。人助けだと思って、泊めてくれない?」
「……」
ここは強い意思で断るのが正解なのだろう。
しかし、看護師のさがというべきか、困っている人を見ると放っておけない気質のある愛奈は少し悩んだ末、その申し出を受け入れてしまった。
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