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◇
マンションのエントランスまでやってくる。ウッドカラーの両開き扉を開けると風除室へと続く。中のオートロックにカードキーをかざすと奥の扉が開いた。
「俺が住んでるところより高級そうだな」
片瀬が物珍しそうにあたりを見渡しながら呟く。
「左利きなんだね」
愛奈が左手でカードを持っているのに気付いたのだろう。特に珍しくはないはずだが、利き手が逆だと手術の際、メス刃を渡す時など微妙に向きが合わないことがあるので、仕事がし辛い相手だと思われたかもしれない。
エレベーターに乗りこんだ後、密室の空間に片瀬と二人でいることをなぜだか急に意識してしまった。緊張を隠しつつ片瀬が立っている位置から対角線上に離れて立つと、その様子に気づいた片瀬が肩を揺らした。
「今日初めて知ったのに、いろんなきみを知れるな」
「いろんな私?」
「同じ職場に勤めてる。おとなしそうに見えて、芯が強い。高級マンションに住んでる。左利き。色白で華奢で、見た目がはかなげな美人。それから……」
「も、もういいです」
「実際、見た瞬間驚いたんだ。現実にこんなきれいな子がいるのかなって」
「完全に酔ってますよね」
耐え切れず愛奈が首を振り俯く。きっと耳が赤くなっている。愛奈は以前から出合い頭にこの容姿を褒められることが多く、実は言われ慣れたセリフだ。しかし片瀬から言われるとなぜか無性に気持ちが逸り、思わず否定したくなった。
エレベーターが停まり、ドアが開く。愛奈はニヤニヤとした表情で自分を見ている片瀬の表情に気づかないふりをして急いでエレベーターから降りた。
玄関の鍵を開け、「どうぞ」と片瀬を中へ招き入れる。冷たい空気が中を包んでいたが、愛奈は着ていたニットカーディガンを脱いで壁掛け用のハンガーにかける。
それから急いでリビングの電気とエアコンをつけた後、キッチンへ向かう。片瀬は「お邪魔します」と一応断りを入れて家に上がり、リビングに向かって行った。
何か温かいものが飲みたい。だが、片瀬は温かい飲み物よりも冷たい飲み物のほうがいいだろう。冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。ペットボトルのまま渡すのは素っ気ないだろうか。しかしコップを準備するほどでもないような。
結局、ペットボトルのままミネラルウォーターを差し出す。片瀬は「ありがとう」と礼を言いそれを受け取ってくれた。
「温かい飲み物が良ければ、持ってきます。インスタントのコーヒーか、紅茶くらいしか用意できないですけど」
「いや、いいよ。もう寝たいし」
片瀬はニコリと微笑み、テーブルの上にペットボトルと金属製のものをカチャンと音を鳴らしながら置いた。
その動作を愛奈は何の疑問も抱かずに目で追い、そして思わず息を呑んでテーブルを凝視する。
テーブルの上に置かれたのは――鍵だった。何の鍵なのか、聞くまでもない。
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