平和の丘のした

1/1
前へ
/26ページ
次へ

平和の丘のした

8b8d3a36-bcb3-454a-9081-921e0c67a630  ため息から始まる、あさ。  部屋はうす暗く、やけに冷たい。まだ夜なんじゃないか、そんな気がしてならないが、消し忘れたアラームは確かに朝だと告げている。 寝ぼけた頭のまま、窓のほうに身体を寝返らせてみた。カーテンの四方からこぼれこむ光は、朝陽と呼ぶにはほど遠いような灰色だった。 『くっそ、だりい……』  久しぶりの休みだった。そして久方ぶりのひとりの朝だった。彼女がとなりに居ない代わりに、テーブルのうえには手付かずの通帳。昨日からそいつは、ずっとそこに置かれたままだ。  ベッドから足をおろし、ため息をつきながら身体をおこす。ひと呼吸おいてから膝に手をつき、重たくなった心を連れてたちあがる。  テーブルのうえに置いてあった煙草を手にとり、重力にまかせるように尻をついた。目のまえの通帳を瞳にとらえながら、たっぷりの煙を無気力に吐きだす。 「なに、今日は休みなんだ?」 「えっ、……あ、ああ」 「……どっか行くの? また……海? あまり遅くならないでよ」 「あ、いや……」  きちんとした制服に身をつつんだ由香(ゆか)が、焼きたてのパンケーキを運んできた。お小言のようなセリフではあるが、由香の顔はまったく怒ってはいない。  目のまえのテーブルに皿を置くと、すっとキッチンへと戻っていく。淹れたての珈琲を手にもどってきた彼女は、俺の顔を覗きこむようにしてにっこりと笑った。 「わたし、もう仕事いくけど……いい? 休みだって聞いてなかったから、弁当つくってるよ」 「え? あ、うん……」 「食べ終ったら流しまで運んでおいてよ。こないだ蟻がすごかったんだから……」 「…………ごめん」 「……? 寝ぼけてる? 出かけるなら気をつけてね……いってきます」  玄関でこちらを向きなおし、彼女は笑顔でちいさく手をふった。夏の朝のぬるい風が、するりと部屋に入りこむ。閉められた扉を、俺はしばらく見つめていた。  海に行くのかと、彼女はいった。しかし俺は今日、海に行くつもりはなかった。部屋のすみに置いてある、アルミやスポイラーをみる。  毎月の給料の全てをついやした、俺の大切な宝たち。パテ作業やらの途中のそれらは、この部屋のほとんどを占領していた。 『…………邪魔、だな』  由香がここに来たのは、二年ほどまえのことだった。いや違うな、ここは由香のマンションだ。俺の部屋は別にあり、彼女はそこへやってきた。  会社が半分負担をしてくれるという彼女のマンションは、俺の部屋よりも広かった。いつしか俺がこっちにきて、俺の部屋は放置するようになった。  そういえば由香に言われたことがあった。親が払っているからって、住みもしないのに借りておくのは勿体ない。せめてこいつらだけでも、俺の部屋に住まわせようか。  車のキーを片手につかむと、俺は煙草をもみけした。そのキーをポケットに押しこみ、部屋の隅にあるアルミを抱える。  いちどだって由香のくちから、こいつらが邪魔だというセリフを聞いたことはない。しかし女の力で掃除のたびに、こいつらを動かすのは大変だったろうなと感じた。  それにしても、よくこれだけ集めたものだ。そんなに俺って、稼いでいたっけな。そういや由香って、どのくらい給料をもらっていたんだろうか。  自分の給料を訊かれたこともなければ、俺は彼女の稼ぎを気にしたことすらなかった。いつだって笑顔でいて、キツそうな素振りはなかった。 「一万でいいからさ……生活費、……くれないかな」 「……え? せいかつ……ひ……?」  泣きそうな顔をして彼女が言ったのは、半年くらい前のことだったろうか。そうか、そうだよな。腹が減れば、飯をくう。風呂に入り、喉がかわけば酒も飲む。  欲がたまれば、女も抱く。欲しいものが欲しいとき、いつも俺のまえには用意されていた。家をでたあの日から、なにも変わることなく暮らせていた。 「俺が幸せにするからさ、こっちに……こいよ」  そう言ったのは、決して嘘ではなかった。一緒にいたい笑わせたい、彼女の笑顔をみていたい。それは、俺の本心だった。  俺の願いのとおり、由香は笑顔を絶やさず暮らしていた。幸せにできている、彼女のことを守れている。そう、思っていた。 「職場の先輩に呼ばれたんだけど……、地理がわからないから、連れてってくれないかな」 「え、今日は……海に……。あれだ、タクシー呼べばいいんじゃないか?」  俺が、バカだった。知らない土地にきて不安な由香に、俺は突き放すような言葉を返してしまったんだ。そうだねと言ってタクシーを呼んでいた、あの日の彼女の顔がうかんだ。  先輩たちと飲んで遅くなったと、申し訳なさそうに帰ってきた彼女。そんな由香に対して、もう俺は必要ないんだなと睨みつけた。 ごめんなさい、出て行かないでと泣いた彼女。そのまま俺を見送れば、こんなとこまで来てはいなかっただろうに。 『ありがとうございました』  テーブルのうえに、小さな付箋が震えている。こいつはいつから、ここに座っていたのだろうか。 「ただいま……」  おかえりのない、暗い部屋にかえった昨日。手探りでつけた電気は、俺に異常なほどの暗闇をあたえてくれた。  残業かなと軽いきもちで部屋にあがった俺は、拭いきれない違和感に動きをとめた。綺麗に整えられた部屋に、ぽつりと置き去りの小さな冊子。  手に取りそれが預金通帳だとわかり、開いた瞬間に時間がとまってしまった。見覚えのないゆうちょ銀行の通帳に刻まれた、俺の名前と六万円の残高。  生活費だといって由香が受け取っていた一万は、毎月ここに入金されていた。いったいそれは、何のために? どうして彼女は、使わなかった?  本当は生活は、苦しくなんてなかったのだろうか。そんなはずはない、彼女は大切なベースを売った。買って帰るものは、そう何時だって夕方の値引きシールが貼られていた。  由香と繋がることのない電話を、灰色の光を浴びながら握る。綺麗に片付けられた流しに、吸い殻のはいった灰皿を置いた。 すべての荷物を失くした部屋は、彼女の帰りを待つ俺のようだ。空っぽになっていちからやり直す、そんな寂しい決意をみせていた。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加