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生きて……、そして。
それは突然だった。あまりの激しさに僕は、そのまま意識を手放してしまったみたいだ……
いつもと変わらない、あさ。いつも通りに換気扇のした、いつもと同じあまいコーヒー。
そろそろ時間かと立ちあがったとき、いつもにはない違和感をかんじた。たいしたことはないだろうと、僕はそのまま支度をすすめる。
『……あ、れ? ……無理かも、しれない』
それは僕の動きを完全に阻んでしまうほどの、激しい腹部の痛みだった。痛みのもとは、どこなのであろうか。
咄嗟に胃のあたりを抱え込むように、僕はその場にうずくまる。胃ではないかもしれない、腸だろうか。とにかく痛いという感覚のみで、何をすることもできずにいた。
吐き気がする。近場にあったごみ箱を引きよせ、野良犬のごとく頭をつっこんだ。何も身体に入れてはおらず、だそうにも出せるものがない。
おさまることのない吐き気。痛みと苦しさに嫌気がさしながら、溢れるのは涙ばかり。痛みは和らぐことなく、時間だけがすぎていく。
『だれか……誰か、たすけてくれ……』
心のなかで叫ぶも、ここには誰もおらず。ただひとり、むなしく念じつづける。そんな自分が情けなくなり、おとなげなく声をだし泣いた。
「牧野さーん、あけますよ……。あ、寝てました? あっ……大丈夫ですよ、そのままで。もう少ししたら、先生が説明にくると思いますので、それまでは……」
「あの……」
「はい、どうしました?」
「先生……って……」
「明日のオペの、執刀医の先生ですけど」
「オペ…………」
遠慮がちに開けられたカーテンから、ひとりの女性が顔をのぞかせる。起きあがろうとした僕を制止して、体温計を差しだした。
条件反射でうけとる僕は、ためらうことなくそれを脇にはさむ。ところでオペって、なんの話なのだろうか。心当たりがない。
「……牧野さん、大丈夫? 寝ぼけてます?」
ふくみ笑いをしながら、看護師がこちらをみた。はい寝ぼけています、いやまだ寝ています。そうでなければ説明がつかない。
ピピピと脇の体温計がなり、看護師が手のひらを向けてきた。僕は夢をみている、とてもリアルな夢のなかで僕は平熱だと告げられた。
「えーっと、牧野さんは、どこのベッド……かな……」
「あ、先生。こちらです」
看護師といれかわるように、年配の男性がはいってくる。白衣姿のそれは、まさしく腕のよさそうな医師そのものだった。
具合はどうですか、痛みは治まっていますか。痛みはなく特に具合がわるいと感じることはない。それより僕は、なぜここに。
まず術前検査は済ませてあるので、今日はとくにすることはないという。明日は朝から点滴などをして、午後のいちばんでオペをする。
前にもはなしはしましたが、異例なほどの早期発見ではありますが、慎重を期して全摘をすると。再確認だというそれは、流れ作業のような淡々とした喋りだ。
ここまででわからないこと、質問がありましたらどうぞと締め括られた。まず、早期発見とはなんだろう。全摘とは、なんの話だろうか。
「……かなりの動揺が……おありのようですけど。……大丈夫、ですか?」
「いや、えっ……と……」
医師は、僕のようすに首をかしげた。はなしによれば僕は、少しまえに救急搬送されたという。女性の付き添いがあり、検査も通院も女性が一緒だったと。
そしてこうして本日の入院を迎え、あす手術をする流れとなっているという。突然の痛みの日のことがよみがえる。しかし、女性というのに心当たりはない。
それよりもなによりも、通院も検査も記憶のなかにないのだ。その事を伝えると医師は眉間にしわを寄せ、とにかく今日は身体をやすめるようにとだけ返した。
気がふれた、とでも思われたのだろうか。看護師に眠剤を処方し、気をつけてみておくようにと告げていた。
消灯時間がすぎ、真っ暗になった病室のベッドのうえ。普段は気にならなかった音が、みょうに耳について落ちつかない。
この街のにんげんは、救急車をタクシーとでも思っているのだろうか。行き交う救急車の音に、ふと医師の言葉がよみがえる。
僕は痛みに倒れたあの日、おそらくそのまま意識を手放したのだろう。しかし、いったい誰が救急車を呼んだのだろうか。
そこからずっと付き添ったという、その人物とは誰だったのだろうか。僕は携帯をひらき、発信履歴を確認した。
やはり発信の履歴などはなく、無意識で自分が救急車を呼んだのではないと確信した。何気なく着信履歴にきりかえる。
『…………え、』
そこには一件の、不在着信の履歴が残されていた。しかもそれは、僕が痛みに倒れたその日のものだ。
おもわずその番号に、折り返し電話をかけてみる。おかけになった番号は、現在つかわれておりません。無機質なアナウンスに、電話をきる。
繋がることはない、とわかっていた。アドレス帳に登録が残っている、その番号の画面を見直す。
涙が込み上げて呼吸を忘れてしまいそうになりながら、それでも隣のベッドに聴こえてはならないと口を押さえた。
相変わらず、可愛い笑顔だ。三年前に別れた彼女のアイコンに、僕はため息まじりに微笑む。
ありがとう、君だったんだね。だれもがおかしいと、そう言うだろう。彼女は、すでに今世には居ないひとだから。
だけどね、僕はなにひとつ疑うことはしなかった。僕は、君に生かされた……。これから出会うであろう、いつかの誰かのために。
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