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いちよのなみだ
仕事をおえて自宅にかえり、いつもならつけないテレビをつけた。どのチャンネルも、ニュースしかやっていない時間帯。それがわかっていて、わたしはテレビをつけてしまったのだ。
テレビからながれてくる音を、ただなんとなく耳にしながら視線は手もとの携帯画面にくぎづけだった。とつじょ聞きなれた地名が耳にとびこみ、わたしは携帯からテレビへと意識をうつしてしまった。
わたしが日常でりようする道ではないが、まったくの無縁ではない峠のなまえ。そこで今日のあさ、大型トレーラーと軽自動車の衝突事故がおきたらしい。
トレーラーに軽自動車が勝てるはずもなく、ちいさな車体はトレーラーの一部のようになってしまったようだった。報道では病院へ搬送後に死亡が……とつたえられたが、どう考えてもそれはないだろうと思った。
『まじか……』それが、わたしの正直な気持ちだった。かなしい事件や事故の報道は、日常にあふれすぎるほどある。そのすべてに反応をしてしまえば自分がおかしくなってしまうと、なるべくニュースはみないようにしていた。
たまたま耳にした事故が身近なばしょだと知ってしまい、やはり心は穏やかではいられない。きっとその場所をとおるとき、この事故のことがあたまのなかを過るにちがいないと思った。
「なあなあ、昨日の事故のニュース……みた?」
「事故って、あの峠のやつ?」
「そうそう! あれってさ……」
翌日、おはようよりも先にそんな言葉でよびとめられた。振りかえるとそこには、中学のときの同級生のすがたがあった。彼女はわたしの腕をつかんで引きよせると、ないしょ話をするような音量で事故のことをはなしはじめた。
軽自動車を運転していた女性は、保育園へとわが子を送ってから仕事にむかう途中だったらしい。のぼりの峠でうしろからのあおりを受けていて、くだりのゆるやかなカーブで事故にあったという。
どんなに通いなれた道でもあおりを受けていたとするならば、やはり精神的においつめられていただろうと眉間にしわがよる。
トレーラーの下にのめり込んでしまった車体をはなすため駆けつけたレスキューの男性は、車をみた瞬間に膝からくずれおちたという。目のまえの悲惨な光景の中心になっている車が、わが妻のものだとわかったからだと聞いて言葉をなくした。
「うそやろ……、それ残酷すぎるよな……」
「それでな、その女性なんやけど……」
その名前を聞いて、わたしは完全にかたまってしまう。ふたりとも行動をともにするような深いつきあいの人物ではないが、日常でふつうに会話をするような位置関係ではあった高校の同級生だった。
ふたりが学生のころから付きあっていたのも知っていたし、卒業してすぐに結婚をしたことも知っていた。
わが子を保育園に送っていったという彼女の行動から、順をおってわたしのなかで映像として再現されていく。シーンごとの彼女の感情、子供の感情、そして旦那の感情までもがわたしのなかに反響する。
もうだめだと思った。この事故のことは、一生わたしの記憶から消えることはないのだろうと感じた。
線香のかおりのたちこめた部屋で、ちいさな女の子がだだをこねている。ママが保育園のおむかえに来てくれなかったと、ママはどこにおでかけしているのかと泣いている。
パパの抱っこもじいじの抱っこもいやだと、さしだされたすべての手をふりはらう。胸がくるしくて目頭がいたくて、だれの顔もみることができなかった。
ちいさな女の子をつよく抱きしめたいと思ったわたしのこの感情は、きっとあの箱のなかにいる彼女のものなのだろう。
いってらっしゃいと送りだした保育園に、おかえりなさいと迎えにいけなかった彼女の無念。目のまえで悲しんでいるすべてのひとに、ごめんなさいとありがとうを伝えられない彼女の悔しさが香の煙をゆらした。
わたしは胸のなかにかけめぐる想いを最後まで言葉にはできず、ただうつむいたまま何度もみんなに頭をさげつづけることしか出来なかった。
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