ヒトは、まだ

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ヒトは、まだ

2af18340-7788-46cb-b706-49dc6c18570d 「ぼくは、ヒトがこわいです」 「……ん? それは、どうしてかの」  長老は、まっしろの長いあごひげを撫でおろしながら、ほそい目じりをさげた。  ぼくは、そこそこ普通のくらしをしている家でかわれている、気性のあらい母親からうまれた。父親は、ぼくたちにはあまり関心のない、とても自己中なおとこだった。  兄妹たちの世話がいそがしいといって、母親はいつもいらいらしていた。ぼくは叱られたくなくて、嫌われたくなくて、いつもしずかに部屋のすみっこにうずくまっていた。  ある日、部屋のまどが開きっぱなしになっていることに気づいた。部屋のすみでじっと存在をけしていることに疲れたぼくは、窓からそっと脱けだして遊びにいったんだ。  天井がとても高くて、とても明るい場所だった。ふわふわと色々な匂いがして、ゆれる毛がこそばゆかった。楽しくなったぼくは、うしろを見ないままに前へまえへと歩いていってしまったんだ。  なんだか辺りがくらくなってきて、心ぼそくなってきた。もう家にかえろうとおもって振りかえると、まったく見おぼえのない景色におどろいた。とにかく歩けば家につくだろうと、とぼとぼと歩きつづけてみた。だけとどんなに歩いても、ずっと見おぼえのない景色が続いていたんだ。 「それで、……ここにたどり着いたのかい?」 「ちがうよ、ここに来る前はヒトといた」  すっかりと辺りが暗くなってしまい、まえに進むことすらこわくなっていた。かたい床のすみっこにうずくまって、目だけきょろきょろと様子をうかがわせる。  ときおり大きな音で叫びながら、白いひかりが向かってくるんだ。びっくりして走り出しそうになりながら、なんどかオシッコももらしてしまった。  そんなときだった、ひとりのヒトがぼくのまえで立ち止まったんだ。うちのぼうずが喜びそうだなんて言われて、ぼくはそのヒトのうちに連れていかれた。 「ぼうず、ほら友だちだぞ」  そういって、ぼくを部屋のなかへおろした。小さな男の子が走りよってきて、わあ! っとぼくに手をのばす。 「あぶないから、やめなさい!」  男の子のうしろを追ってきたヒトが、あわてて男の子をひきとめる。とてもおとなしそうな子だから大丈夫だよと、ぼくを連れてきたヒトが笑った。  おとなしくしていないと、このヒトたちに嫌われる。ぼくは瞬時にりかいして、その場でちいさくうずくまった。  男の子は、まいにちのようにぼくとあそんでくれた。ぼくをここへ運んできたヒトは、あさ出かけたら暗くなるまで帰ってこない。男の子がママとよんでいるあのヒトは、ぼくにおいしいごはんをたくさんくれた。おとなしくていい子ね、そうやっていつもぼくに優しくしてくれた。  ぼくは、男の子とじゃれて遊ぶことが大好きだった。あまりにも楽しすぎて、ついつい跳びついてしまった。ぼくのとがった爪でけがをしてしまった男の子は、ママに気づかれないように泣くのをがまんした。足からは血が出ているのに、痛くないといって笑ってみせるんだ。  きっと男の子が泣いてしまったら、ぼくはママから悪い子だといわれるのだろう。だからぼくのせいで、男の子はがまんをしなくてはいけなくなったんだろう。もうぼくは男の子に嫌われてしまったにちがいない。こわくなったぼくは、男の子のうちからとびだしてしまった。 「……あら、かわいい。……おいで、こわくないから……、ほら」  ゆらゆら揺れる椅子にすわったヒトが、ぼくをみつけて歩みよってきた。逃げようかどうしようか悩んでいるうちに、ぼくはそのヒトに抱えあげられていた。 「どこから来たの? 迷子かな……、かわいいリボンがついてるもんね」  ふたたび揺れる椅子にすわったそのヒトは、ぼくをひざのうえにすわらせた。あたまからお尻まで、ゆっくりと何度もなでる。あまりの気持ちよさに、ぼくはついのどを鳴らしてしまった。  なんだか寂しそうなそのヒトは、ぼくを撫でながら話をしていた。聞いているよと伝えたくて、ときどき「にゃあん」とないてみせる。 「……きみは、やさしいね。おしゃべりしてくれるんだね。こんな話きかされても、なにもわかんないよね。ごめんね、……いい子だね」  そのヒトの手がとまったので、ぼくは見あげてみた。ぽつんっとぼくの鼻先に、そのヒトの目から落ちた水があたる。おどろいたぼくは、ぴくぴくっと耳を揺らして顔をふった。 「……ごめん、ごめん。ありがとね、……さあ、おうちにおかえり」  地面にぼくをおろしたそのヒトは、ばいばいと言って手をふる。なんども止まって振りかえってみたけれど、そのたびに手をふって行きなさいというんだ。  ぼくがあのヒトの話をりかいできなかったから、きっと嫌われてしまったんだろう。それとも顔を振ってしまったのが、いけなかったのだろうか。 「……それで、ここへ来たのかい」 「うん、歩いてたらここに着いたんだ」 「それで、……訊くがな。おまえは、いちどでも相手のくちから悪い子や、嫌いなどの言葉を聞いたのかい?」 「…………きいて、ない。言われるまえに、逃げてたから」 「……じゃのう。全ては、おまえの勝手な思いこみかもしれんにのう……」 323c9d51-2e6c-4d4d-8c6d-7f4c7110f2ce
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