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僕のオト
『あと何れくらいの時間が、この僕には残されているのだろうか……』
ふとそんなことを考えたのは、僕がこの生活を始めて三年ほどが過ぎた頃だった。
安定の目覚め、そして安定の食事。定期的に換気のために開け放つ窓からは、その日のご機嫌を伺うように柔らかい風が吹き込んでくる。
『ありがとう。今日も気分のいいご機嫌な空だね。おかげさまで、僕も安定のご機嫌さ』
ガシャガシャと食器の乗ったワゴンが近付いてくる音を確認して、そろそろ朝食の時間なのだと理解する。程なくして色白の華奢な手が伸びてきて、僕の掛布をはらりと捲った。
「冷たかったらごめんなさいね……」
冷たいなんてことはない、今日も安定の優しい手つきで僕の身体をそっと支え起こしてくれる。今日の献立は何だろうか、みそ汁のいい香りが思い出され食欲を掻き立ててくる。
扉よりこちらへは運ばれてはこない朝食を想像しながら、僕は胃のなかへ食事を受け入れていく。一年、三百六十五日休むことなく、この人は僕に食事を運んでくれていた。
「今日は、暖かいですからね。少しだけ早めに身体を綺麗にしましょうか」
嗚呼、またあの時間がやってくるのか。仕方のないことではあるけれど、せめて股間だけは自分で処理をしたいと憂鬱になる。
この小さな手が僕の局部に触れる直前の、あの何とも言えない面映ゆさ。勃起こそしないものの、頭から何もかもが噴き出してしまいそうになる。
とはいえ、終わった後の爽快感。最後はきちっと衿もとまで整えて、そっと掛布で包んでくれる。
『ありがとう……』
僕は心のなかでそう呟き、心地よく眠りのなかに誘われていく。
「…………ちゃん? ……てる? おーい、聞こえてる?」
『あぁ、……もうそんな時間か』
愛しい声に起こされて、僕の心にはほわっと陽だまりが広がる。彼女もこうして一年、三百六十五日休むことなく僕に会いに来てくれているのだ。
いや、正しく言うとするならば、一度だけ一週間ほど来なかったことがある。仕事が忙しかったのか、それとも本人が体調を悪くしていたのか。
その間のことを、彼女の口から聞かされたことはない。気にはなっているものの、僕も彼女に問うことは出来ずにいる。
「気分はどう? あのね、今日はね……」
ふわり、と彼女の香りが首筋に絡み付いてきた。淡々と今日の出来事を話聞かせながら、彼女は僕の頬にその手のひらをぴたりと添わせる。
何を思ったのか僕の鼻をつまんできて、「起きろ……」と悪戯にいい放った。そのすぐ後に聞こえたのは、とても寂しそうな伏し目がちの小さな笑い。
「ごめんね……」
『……なにが?』
「何もしてやれんくて……」
そんなことはない、君は十分に愛を運んでくれている。こんな僕のために、毎日ここへ来てその声を聞かせてくれているじゃないか。
その日の君の出来事に、どれだけほっこりとさせられているか。君に伝えることが叶わないこと、僕のほうこそ謝らなくてはいけないね。
そして、まだ君に話してないことがある。君の声すら聞き取りづらくなってきていること……
あとどのくらい君を感じて居られるのだろうと、日々不安が大きくなってきていること。無機質で白いであろう天井すらも、この消毒臭い部屋の匂いも、直に僕の前から形を消すだろうと感じていること。
君に触れたい……。そして君の顔をもう一度、この瞳に映してみたい。そんな願いも叶わないのだと悟ったのは、もう随分と前のことだった。
きっと僕はこのまま、人形のように生かされていくだけ。あの看護師が僕の世話を放棄すれば、僕はあっけなく眠りにつくのだ、と。
最近になってさらに気づいたのは、看護師が放棄をせずとも確実に僕は弱ってきている。きっともうそんなに長くはない、唯一機能している聴覚すらも覚束なくなってきたということ。
そんな中、僕には新たな願いが芽生えた。どうか君が悲しまないように、誰かの傍に居場所をみつけてくれること。
そして僕は精一杯、君の声を温もりを、この魂の記憶に刻み込みたいと。どうか神様、もう少し……。もう少しだけ僕たちに時間を下さい。
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