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ぼくらの秘密基地
みどり色の、おおきな看板のあるビル。そのビルの一階の扉を、ぐいっと引き開ける。少し重めのそれがひらくと同時に、カラン……とひかえめにベルがなった。
「いらっしゃ……、おう、お前か。……いつもの?」
こくりとうなづいて、わたしはいつもの席にむかった。黒とグレーで統一された、落ちついた雰囲気のショットバー。シャカシャカという音を耳で確認しながら、いちばん奥の右隅のいすに腰かけた。
開店したばかりの店内は、まだ客の気配がない。わたしのみぎがわは壁、ひだりのいすにかばんを置いてひとの接近を阻止する。カウンターごしの真向かいに置かれたいすに、どしっとマスターが腰をおろす。客がくるまでのあいだ、そこが彼の指定席だった。
「よう、……最近どうよ。本業のほうは」
「んん……、まあまあかな」
「昨日のやつよ、お前がいつならここに来るかって訊きよったけど。……どうする?」
あたまの中で昨夜のことを思いうかべ、口をゆがめて首をよこに振った。わたしの仕草にマスターはくすっと笑い、理解したようにちいさく数回うなづいた。
カラン……とベルがなる。扉のほうをちらっとみたマスターの表情から、常連の客ではないことがわかる。振りむく必要性をかんじないわたしは、ひとりになったカウンターで静かにグラスを口へとはこんだ。
「……あ……れ? もしかして……やけど、…………同級じゃねえ……かな」
少しはなれたカウンター席に座ろうとしている男が、こちらを気にして動きをとめた。めずらしい声のかけかたに、思わずわたしも不機嫌にそちらをみる。
「はああ?」
「ああ、だめだめ。こいつ、そういうナンパ毛嫌いするけん……やめてやって」
すかさずマスターが話にわりこみ、男をとおざけようとしてくれた。しかし男はわたしの顔をみたとたん、瞳をきらきらと輝かせた。
知っている、たしかにこの男のかおを知っている。なんならフルネームすら言えるほど、この男の記憶はせんめいに残っている。会わなくなって十年以上は経っているだろうが、いまだに小学生だった頃のおもかげが残っていた。
わたしの微かな反応を察知したのか、男はにかっと白い歯をみせ、からだをこちらに向けた。
「みんなみんな、みいんな! きてきてえ、みてみてえ……」
どうだい自分はかっこいいだろ、みんな自分のとりこだろ。なんて自分は罪なやつなのだろう、だけど大丈夫みんなのことが好きだから、自分はみんなのものだから。そんなことを訴えるような作り歌を、恥ずかしげもなく大声でうたってみせたのだ。
手のひらを上にむけて、そろえた指をくいっくいっと折りまげる。そう、のってこいという仕草だ。そのうたも仕草も、あのころのままだった。
「きゃあ! けんちゃん、最高。サインしてえ、握手してえ」
おお笑いしながら、けんちゃんは座りかけた椅子からはなれた。かばんの座った席をはさんでわたしのひだりに陣どると、うれしそうに昔のはなしをはじめる。
教室ではいつもみんなを楽しませて、うたっておどるひとだった。放課後になればともだちの家にあつまり、ヒーローごっこや怪獣ごっこ。
あんなことあったよね、ああ思い出した……。え、そんなことあったかな? すべての記憶がつい最近のことのように、楽しくておかしくてたまらなくなる。気がつけばマスターは離れた場所から、わたしたちの話に微笑んでいた。
いつもはすました顔で座って、黙って飲んでいるだけのカウンター。興味のない誰かのはなしに、口角だけあげて相づちしているカウンター。それでいい、それがいいと思っていたカウンター。
ほんの少しの愛想と、たまに頼まれ歌をうたう。それだけでよかった、それだけですべてが上手くいっていた。退屈なおとなの世界で、本気でわらうことなんてなくなっていた。
だけど今夜は、今夜だけは……。
グレーの壁が、しろくみえた。しろい灯りが、オレンジ色であたたかい。きれいに並んだグラスの棚が、みどりの黒板にみえてきた。そこで微笑むマスターが、あの先生の顔にかわる。
このネオンかがやく夜の街に、あの高台の小学校があらわれた。たったひとりの男との再会で、破顔するほど笑いがあふれる。
今夜この場所は、ぼくらの秘密基地になっていた。
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