あしうら幸運説

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あしうら幸運説

19c36dec-eb7a-444a-975c-b9593d56cd7e  シャワーを終えて冷蔵庫から缶ビールを取りだし、買ってあった柿の種をもって気だるくソファーに座りこむ。首にかけたタオル、半乾きの髪、とくに観たい番組でもなくつけられたテレビ。興味はないがチャンネルを変える気にもなれずに、ながれる映像をなんとなく眺めながら二本めのビールに手をのばしたとき、となりの部屋で子供の泣き声がした。  首にかけてあったタオルをはずし無造作にソファーへと投げおくと、僕は泣きごえのする部屋へとむかう。僕の寝室であるその部屋には、真新しいベビーベッドが置かれてあった。そっとベッドに近寄って覗き込んでみると、そこには眠そうに目を閉じたまま泣いている小さな赤子の姿がある。 「ちょっと! ぼけえっと眺めていないであやすとか何とかしてくれてもいいんじゃない?」 「えっ……、あ、ごめん……。でもやったこと……」 「そうやってやったことないからって、いっつも言い訳にして! ちっとも手伝ってくれないんだから!」 「……手伝うって」 「なに? その子は私がひとりで勝手にはらんで産んだとでもいいたいわけ? ……ったく、男ってのは無責任よね!」 「あ、……ごめん」  開きっぱなしになっていた扉の前で、女は不機嫌そうに言い放った。言いたいだけまくしたてると、ふんっと荒い鼻息をはいて僕に背をむけどこかへいった。とてもご機嫌が悪いのだろう、これみよがしに水道を激しくだしながら洗いものをはじめたのがわかった。僕はなさけなくため息をついて、泣き続ける赤子に視線をうつす。  あやせと言われてもどうすればいいのか、僕にはまったく見当がつかない。とりあえず抱き上げれば泣き止むだろうかと、赤子にむかって両手をさしのべようとした。小さくて温かいその両脇に僕のおおきな手のひらが触れた瞬間、泣いていた赤子がおどろいたように身をちぢめ泣くのをやめた。 「ちょっと! まさか抱こうとなんてしてないでしょうね!」 「……えっ」 「抱きぐせついて寝かせるの大変になったら、いつもあなたがやってくれるの?」  そう言われて、僕は両手をひっこめる。ふたたび泣きはじめた赤子の腹をさすり、ほっぺを撫でて胸を軽くたたく。目をあけない小さな泣き虫は、何度か疲れたように眠りかかってはびくっとなってふたたび泣く。ぎゅっと握った小さな拳を、胸のまえによせて何に立ち向かうのか真っ赤な顔で泣く。  どうした、なぜ泣いているんだ、どうして欲しいんだ。心のなかでつぶやきながら、僕は赤子の胸をとんとんとし続けて泣きそうになった。 「……ねえ、どうして泣いてるかしってる?」  ふと気がつくと、さっきまでキッチンで苛立っていた女が横にきていた。「いや、わからない」と僕が答えると、彼女は僕の顔をみてくすっと微笑んだ。赤ちゃんというものは『眠る』ということの意味を知らないがために、眠りにつく瞬間の感覚が己がきえてなくなるかのように感じるのか不安になるのだそうだ。  もちろん生死のこともわからないだろうし、自分がなにものなのかもわかってはいないだろう。何もわからない状況のなかで意識がとおのくという感覚が、とにかくわけもわからずに怖いのだろうという。 「あしうら幸運説って、……しってる?」 「は? ……なにそれ」 「知らない? ビリケンさん」  僕をおちょくるように、くすくすと笑う彼女。言われて頭のなかに、大阪の通天閣がうかんだ。彼女は赤子の肌着をととのえながら、「見て」と僕にちいさな声でささやいた。みれば目を閉じ泣いている赤子はぷくぷくとふくよかで、ビリケンさまによく似ている。  ビリケンさまと言えば、足のうらを撫でると御利益があるというあれではないだろうか。それならばあれだろうか、この赤子の足のうらでもさすれば何かいいことがあるというのだろうか。ちいさな足を不思議そうにながめている僕をみて、彼女はふふっと微笑んだ。そしてこの僕に、両手のひらでそのちいさな足を包み込めというのだ。  彼女にいわれるままに僕はそのちいさな足を、弱すぎず強すぎず、ほどよい加減で包み込んでみた。僕の手のひらに伝わってくる、ふたつの小さな温もり。ゆっくりと足を揺するようにといわれ、僕はゆっくりと上下に揺らしてみた。泣いていた赤子の声が徐々にちいさくなっていき、固くにぎられていたちいさな手のひらが力なく開いた。そしてほどなくすやすやと、穏やかな寝息が聞こえはじめる。 「……どう?」 「え、どう……って……」  赤子は足のうらから伝わってくる、僕の温もりに安心して眠ったのだという。それを聞いた僕は、なんとも言えない気持ちになった。特にすごいなにかをしたわけでもなく、ただそっとそばに寄り添っただけで安心してもらえた喜び。  そのことに僕は、とても幸せだと感じることができたのだ。ああ、この幸せそうな寝顔を、僕がずっと守ってあげたい。守りたいものができたという喜びに、思わず僕のほほがゆるんだ。  シャワーを終えて冷蔵庫から缶ビールを取りだし、買ってあった柿の種をもって……僕はそれをすべて元の位置にもどした。首にかけてあるタオルで半乾きの髪をふきながら、テーブルの上にある携帯を手にとる。 「……あ、母さん? この間の見合いの話……やっぱ受けることにするわ」 「あら、あんた。やっと結婚する気になったんね」  殺風景な寝室をながめながら、僕は微笑みながら母に電話をしていた。
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