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桃色クローバー
ちいさな噴水のある、こじんまりとした広場。昼間は足をとめるものは少なく、そこはたんなる交通路でしかなかった。そんな場所が夜になるといっぺんすると知ったのは、この街に越してきてひと月ほどたったころだった。
ちょっとした仕事のトラブルで、残業をするはめになった夜。あたりはすっかり暗くなってしまい、どっと疲れを感じずにはいられなかった。どいつのミスでこんなことになったのだろうかと、心のなかであくたいをつきながらコンビニへとむかう。
腹はへってはいるようだが、どうにも物をたべる気分にはなれない。弁当の棚をよこめに飲料のたなへといき、そこから缶コーヒーだけを取りレジへとすすんだ。
「あ、……32番、ひとつ」
さすがにコーヒーひとつでは申し訳ないと感じ、まだきらしてもいない煙草を買う。どうせ消費するものだから、はやめの購入は僕のなかではなにも問題はなかった。
受け取ったそれをかばんへと放りこみ、缶コーヒーを片手につかんで店をでた。いつものように広場を通りぬけようと、すう歩すすんで違和感にあしをとめる。
『…………ん?』
ふと顔をあげるとそこには、昼間とはうってかわった広場のすがたがあった。老いと若きが、対等なことばではなしている。男と女がひざを付きあわして、笑いあっている。
犬のさんぽの途中らしきひとが、やたらと月の写真をとっている。本を片手に通りかかったひとが、「今夜も月がきれいですね」なんて声をかけて過ぎていく。
おもわずあたりの建物をみて、あの広場にちがいないことを確認する。そしてもどした視線のさきに、ひときわ目だつじんぶつを発見した。
あざやかなもも色の髪の毛に、すこし派手めなメイクの娘。可愛らしい服装はもちろんのこと、その娘の笑顔が印象的だった。目が合うひとすべてに笑顔をかえし、胸のあたりでちいさく手をふる。
はなしかけられれば嬉しそうに肩を弾ませ、赤べこのごとく頷きながら会話をする。終始えがおのその娘をみていると、自然とあしがそちらに向かっていた。
「へえ……そうなんだ? じゃあ、いまはバイトかなにかしてるの?」
「んん……それがね……」
ぬすみ聞きは悪趣味だ。そうあたまでは理解しながらも、僕はちかくのベンチへと腰をおろしてしまった。すうにんの女子にかこまれたその娘は、彼女たちの質問攻めに嫌なかおひとつせず答えていた。
聞いた、……いや聞こえた話によると、その娘はどうやら『男の娘』のようだ。東京でファッション系のしごとについていたが、母親の病気がわかり帰郷してきたらしかった。こちらにもどって来てまださほど月日は経っていないらしく、母の看病もありで定職につけずにいるという。
いいだけ話をひっぱりだして満足したのか、彼女たちは「またね」と手をふり去っていく。それを見計らったように、すぐまた次の女子たちが近づいていく。
さきほどの彼女たちとの話を聞いていない女子たちは、また同じ質問をあたまから繰り返すのだ。よこで聞いているだけのこの僕でも、多少の苛つきをかんじる。なのに男の娘は笑顔をたやすことなく、また同じ答えをはじめてのようにはなすのだ。
それから毎晩のように、僕はその広場にあしをはこぶようになった。残業のない日はいちど家にかえり、時間をみてたばこを片手に出向くのだ。
みずから話しかけるようなことはなく、数週間たったいまでも目すら合わせたことはない。なのになぜそこまでしてしまうのか、自分でもよくわからない。ただ男の娘をみていると、なんとなく心が和んでいた。
定時でしごとをおえた僕は、コンビニにはよらずに広場を通りぬけようとした。ふと視界にはいったもも色に足をとめ、まさかと思いつつもそちらをみた。まだ誰も集ってはいない広場のベンチに、あの男の娘の姿をみつけた。
こんなはやい時間に、あの娘をここで見かけるのは初めてだ。うつむき表情までは見ることができないが、どうにも元気がないように感じる。近づいて声をかけてみようか、いっぽ踏みだしその足をもどす。
いちども会話をしたことのない僕が、いったいなんと言って声をかければいいのか。視線すらあわせたことのない僕に、なにができるはずもない。夜になればあの娘の知り合いもくる、そうすればきっと元気になるだろう。自分にそう言い聞かせ、僕はその場をはなれた。
いつもより少しだけはやめに、僕はあの広場へとでかける。夕方に男の娘を見かけてから、あの娘の落ちこんだ姿がのうりからはなれなかった。まっすぐに向かった広場のベンチに、男の娘の姿がない。あたりを見まわしてみたが、男の娘らしき姿はみあたらない。
「あ、あの! ……すみません。いつもあそこに座っているもも色の髪の男の娘は、もう帰ったんですか?」
「え? ……おとこ……ああ、あの娘なら今日はまだ見かけないけど」
あの男の娘とよく話をしていた女性をみかけ、おもいきって訊いてみた。あの娘は夕方からそこに座っていたはずなのに、彼女はまだ見ていないといった。
母親が病気だといっていたから、なにかあって帰ったのだろうか。それともバイトかなにかで、夜はこれないので夕方にきていたのだろうか。それらしいことを彼女に訊ねてみると、彼女は涼しい顔で「そのうち来るでしょ」といって立ち去ってしまった。たしかにそのうち来るかもしれないが、もしかしたら来ないかもしれない。
あの娘がいつも座っているベンチのそばで、僕は何本ものたばこを吸いがらにした。見覚えのある顔の男性をよびとめ、男の娘をみかけたか訊ねてみる。男は自分の携帯で時間をかくにんすると、僕に向かって呆れたようにわらう。
「広場はここだけじゃないからね。……どこか他にいったんじゃない?」
「……ほか、……ですか」
「そうよ、ほかの広場。まあ、また気がむいたら戻ってくるさ」
そうさ、広場はここだけではない。けれど僕はここであの娘を知った。ほんとうの名前なんて知りもしないし、あの娘のことなんて何もしりはしない。別に深入りをしたいわけではないけれど、見かけなくなれば気にはなる。
あのとき、あのつらそうなあの娘を見かけたときに、声をかけておけばよかった。なにを訊きだす必要なんてない。むやみに励まそうとする必要なんてない。ちからになろうなんて、そんなだいそれたことを考える必要なんてなかったんだ。
ただもう、すべてはすぎたこと。あれからあと、男の娘がこの広場へくることはなかった。いまごろあの娘は、どうしているのだろうか。
この街のどこかで、笑って過ごしているといいな。四つ葉のようなあの娘のそんざいが、だれかを和ませているといいな。あの娘がつらそうにしてるとき、そばに誰かがいるといいな。
こうしてときどき、あの男の娘を想う。それくらいしか、いまの僕にはできることがない。
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