クライスラーを聴きながら

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前奏曲・・・ 「さっきは、ごめん」 その一言が言えなかったばかりに、もう二週間も話していない。君が隣に居ることに慣れすぎてしまったのか、もう駄目なのかな? 初めて会ったのは、音楽教室主宰のクラシックギター発表会だったね。僕が演奏したS・L ヴァイスの『Fantasie』を誉めてくれた。 LINEに招待され、お互いの身の上話から始まり、過去に観た映画の話、好きな小説や詩を紹介しあった。君のフェイバリットソングはクライスラーの『前奏曲とアレグロ』。 驚いたよ、こんなにも感性の合う女性は初めてだったんだ。 隣県でそう遠くない距離、すぐに会う約束を交わした。 約束の時間より早く着いてしまったが、君は既にそこに居た。夏の日差しを避け、木陰のベンチに腰掛けてスマホを覗いてる。うつむく横顔にときおり木漏れ日が射し込むと、遠目からでも白く(つや)やかな肌を確認出来た。顔を上げた君と目が合った瞬間、時間が止まったかと思ったよ。 カフェに入り話した。美しい君を前に寡黙な僕が、その日は自分でも驚くくらいおしゃべりになって、話せば話す程好きになってゆく。十代の頃の青くイノセンスで、甘く香しい時間が流れてた。 これからの人生を一緒に過ごせたら…… マチネの幕が静かに上がって行くような気がした。 クライスラーを聴きながら、瞳を閉じればいつもここにいる。 あぁ、今宵の上弦を君は見ているだろうか。 見ていて欲しい、同じ月夜を。 ・・・ 「いやすまない、慣れないものでね。取り乱してしまった」 「どうぞお気になさらずに、一時的な記憶の混乱でしょう。よくあることです」 「過去の記憶というのは自分の足跡(あしあと)を辿るようで、なんだかあてにならないものだな」 「時間が経つと都合の良いように、脳が勝手に描き換えてしまうものですから。もう一度チャレンジなさいますか」 「そうだな、もう一度同じ記憶でやってみよう。次は集中するよ」 アレグロ・・・ プリンセスカットレール留め1.25ct PT950幅3.5mmK18YG縁取り ホワイトゴールドと迷ったが、 変色を危惧したのと、婚約指輪ならやはりとプラチナにした。お互い初めてではないし、型にはまったものよりもデザインを重視して決めたんだが、はたして気に入って貰えるかな。 日記サイトがきっかけだったね。 サイトメールで紹介したクラシックギター曲、S・L ヴァイスの『Fantasie』を、良い曲だと綴ってくれてた。その後に君の好きなバイオリン曲、クライスラーの『前奏曲とアレグロ』を紹介してもらったんだが、すっかりはまってしまって、暫くはイヤーワームだったよ。 LINEに招待され、お互いの自己紹介や身の上話、過去に観た映画の話をしたり、好きな小説や詩を紹介しあった。 驚いたよ。こんなにも感性の合う女性は、生涯を通じ初めてだったんだ。 隣県でそう遠くない距離。サイメを貰って3日後には会う約束を交わした。会話の中で大体の容姿は聞いたけど、会う前に写真交換はしなかった。お互い、画像の先入観無しで会いたかったからね。 約束の時間より15分程早く着いてしまったが、君は既にそこに居た。他にも何人か女性が居たけど君しか目に入らなかった。 夏の日差しを避け、木陰のベンチに腰掛けてスマホを覗いてる。うつむく横顔にときおり木漏れ日が射し込むと、遠目からでも白く艶やかな肌を確認出来た。 この人であって欲しいと心から願いながら近づく。 顔を上げた君と目が合った。 時間が止まったかと思ったよ。その眼差しに吸い込まれそうになり僕は目を閉じた。一呼吸してゆっくり開けると、微笑みながら声を掛けてくれたね。嬉しかった。 カフェに入り話した。美しい君を前に、いつもは寡黙な僕がその日は自分でも驚くくらいおしゃべりになって、話せば話す程好きになってゆく。 十代の頃の青くイノセンスで、甘く香しい時間が流れてた。 これからの人生を一緒に過ごせたら…… マチネの幕が静かに、上がって行くような気がしたんだ。 別れ際、去りゆく君の背中に声を掛け、振り向き様そっと抱きしめキスをした。一瞬戸惑い肩を振るわせたけれど、すぐに受け入れてくれたね。 永遠を感じたのは君も一緒だったはずさ。 胸ポケットの中の、わずか10gにも充たないリングがやけに重く感じる。 今日僕は君に会う。 このリングを渡す為に会いに行く。 すべてを伝え、君の同意を得るために…… ・・・ 「ああ、良い想いができた」 「それはよかった」 「今回は記憶していた通りのものが観られたよ」 「嬉しい記憶というものは正確に記録されるものですから。時にお客様、次がラストオーダーとなります」 「もうじゅうぶんだ。いい夢を観させてもらったよ、ありがとう」 「この先の記憶を辿らなくても良いのですか?」 「いいんだ、彼女は結局来なかった」 「さようで御座いますか。そうしますと後味が悪うございましょう、嫌な思い出を残したままになりますが」 「いやそんなことはない、私には良い思い出だった。……あぁそうだ、ラストオーダーということなら、クライスラーを脳内に響かせてはくれないか」 「はい、『前奏曲とアレグロ』でよろしかったですね」 「そう。小舟に揺られて聴くには最高の選曲だ」 「かしこまりました。しかし、これもあくまで記憶なので、正確な旋律はお客様次第でございますよ」 「わかっている。たぶん一音も外さず記憶しているよ」 「承知しました。クライスラーの『前奏曲とアレグロ』を。それと……」 「それと?」 「ヴァイスの『ファンタジー』。こちらはわたくしからの特別サービスでございます」 「あ、ありがとう……」 「こちらこそ。それでは彼岸までの、最後の記憶をお届けいたします。良き旅立ちを」 ……了
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