夫婦の契り

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紙のにおいって独特だ。 積み重ねた便箋も、一番下と一番上の紙ではにおいが全く違う。上に行くほどより“外”のにおいが強く、……彼のにおいがする。 新鮮だったな。今思うと、ちょっと変質者っぽい気付きだったけど。 「……」 ベッドに仰向けで寝ながら、静かに息をもらす。 白希は大きな瞳で薄暗い天井を見つめていた。 外の生活に慣れてきても、暗い場所にいるといつだって昔のことを思い出す。何せ人生の半分、六畳ほどの納屋と屋根裏で過ごしたのだから。 家族の顔より見ていたのは薄汚れた壁と天井。そして床、だろうか。人の声や足音が聞こえるとどきどきして、聞こえなくなると途端に寂しい。 ただ生きてるだけなら感情なんてない方がよかった。無駄に考え続ける、この思考こそ地獄だ。 人は皆、頭の中でもがき苦しむ。力の有無は関係ない。 「白希、起きてたの?」 「あっ」 声と共に、部屋の照明が点いた。部屋の全貌があらわになる。体を起こすと、バスローブ姿の宗一がドアの前に立っていた。 「目が覚めちゃいました」 半裸状態なので、下半身はシーツで隠す。 昨夜は随分盛り上がって、また中途半端な時間に目が覚めたようだ。時間は午前三時。二度寝できそうだが、白希は起き上がってシャツを着た。 「水飲みな」 「ありがとうございます」 ミネラルウォーターを受け取り、水分補給する。冷たい水が胃の中に流れていく感覚は、生きてることを実感する。当たり前のことなのに、体が水を求めていたのだと分かる。 昔は喉が渇いても、それを伝える気力もなかった。 「もう一回寝よっか」 宗一さんが隣にやってきて、横になる。頷いて一緒に寝ようとしたけど、あることを思い出した。一度自室に戻り、また彼の部屋に戻る。 「宗一さん、これ……良ければ使ってください」 「お。これは……」 持ってきたのは、昨日書店で買ったダイアリー帳。渡しておきながら、不安のあまりごにょごにょと言い訳をしてしまう。 「こ、好みじゃなかったら無理しないでください! 毎日書くのも大変だし、無理して書く必要はありませんから……!」 「いやいや、日記帳だよね? 嬉しいよ! 買おうと思ってたんだ」 宗一さんは起き上がり、ダイアリー帳をめくって中に目を通していた。 「これは使いやすそうだ。ありがとう、白希」 「大丈夫ですか……? 俺は宗一さんみたいに、すごく良いものは買えないから」 「ふふ。昨日雅冬に怒られたばかりだけど、物の価値はお金じゃないよ。私もそう思う」 優しく頬を撫でられる。彼はダイアリー帳を持ったまま、俺を抱き締めた。 「これで、君の可愛かった出来事を記録できるわけだ」 「そんなのありませんし、書かなくていいですよっ」 恥ずかしくて顔が熱くなる。でも宗一さんは真面目に取り合わず、楽しそうに笑った。 相変わらずだけど、良かった。……迷惑じゃなかったみたい。 「宗一さんのダイアリー帳は黒で、俺が使ってるのは白なんです。色違いですね」 「お揃いかぁ。尚さら嬉しいな」 彼はページを開きながら、真剣に何を書こうか考え出した。その日あったことを書くだけでも良いんだろうけど、テーマを決めると幅が広がる。それも日記の醍醐味のひとつだ。 個人的には、共通の日課ができたことも嬉しい。 「……さっきは俺のことは書かなくていいって言いましたけど。よく考えたら、俺は宗一さんのことばかり書いてます」 「ええ、ほんと? ちょっとだけ読まして」 「すみません、それはちょっと……」 赤面しながら首を横に振る。日記の内容は、昔彼に書いたラブレターなみに恥ずかしい。 「どんなささいなことも覚えていたいし、嬉しかった言葉は忘れたくない。記憶は、宝物と一緒ですね」 「……そうだね」 宗一さんはゆっくり頷き、ダイアリー帳をテーブルに置いた。 「私も、君との思い出をひとつひとつ拾っていこう。今までは駆け足過ぎて、来た道を振り返ることもしなかったから」 「でも、宗一さんらしくて良いと思います」 「はは、ありがとう。……私は、白希のこまやかさが好きだ」 俺は単に心配性且つ、神経質なだけだと思う。でも宗一さんは俺の長所だと、力強く言ってくれた。 「よく考えたら、白希からの初めてのプレゼントだ」 「すみません、頂いたばかりで……」 指輪やバッグ、洋服と、宗一さんからはプレゼントらしいものをたくさん頂いている。 でも俺の場合、お金もないしセンスもない。常に良いものを身につけてる彼に下手なものは送れないと思って、尚さら遠慮してしまった。 項垂れて謝ると、また頭を撫でられた。 「私がプレゼントしたいだけだから気にしないで。それより本当に嬉しいよ。ありがとう」 「……こちらこそ!」 彼の離れていく手を握り、その甲にキスする。せめてこの気持ちだけは、取りこぼさずに渡していきたい。 毎日が幸せ。でも同じ一日なんて存在しなくて、日々新しいことを学んでいく。 宗一さんから教わった新しい感情を育む。時に熱く、時に冷めゆく自分への期待も、捨てることは決してしない。 もう少し自分を信じてもいいんじゃないか、と……彼にずっと、背中を押してもらっているから。 だけど、環境が変わるのはいつも唐突だ。 バイトが終わり、家路につく。マンション前でポケットの中にある鍵を探っていた時、ふと後ろから声を掛けられた。 「白希……か?」 確かめるような声。誰かと思って振り返ったとき、時間が止まった。指から滑った鍵が足元に落ちたけど、そんなことを気にする余裕はなかった。 「兄さん……」 声も顔も、自分が知る青年とは別人だ。それでも微かに残る面影が、疑念を確信に変える。 “外”に出た以上、同じ毎日なんて存在しない。当たり前のことなのに、忘れていた。
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