1 愛する男の新しい恋人は妊娠していた

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1 愛する男の新しい恋人は妊娠していた

「ルイーザと腹の子をお前は殺そうとしたのか?」  ローレンツの声は震えていた。怒りに溢れていたからだ。  彼の腕に抱かれるルイーザの肩はか弱く、ローレンツに支えられていないと今にも倒れそうなほどだった。腰ほどまでに伸びる茶髪の煌めく髪が微かに揺らめいている。黒髪のミカが持っていない、麗しい髪を、ローレンツが大事そうに撫で付けている。  ミカもまた、ローレンツの言葉による衝撃で意識を失いそうなほどだった。  奥歯がガチガチと音を立てて震えている。床についた両手の感触がない。あまりのことに視界が眩んでいて、広場を囲むヒルトマン家の使用人たちの顔も見えない。  ルイーザが妊娠した……?  ローレンツの子を……? 「答えろ、ミカ」 「忌まわしい男だこと……」  ローレンツの両親であるヒルトマン男爵と夫人もまた、跪いたミカを道端で死んだ獣を見るような目つきで見下ろしている。  あたりを囲む使用人たちもまた、同じようにミカを蔑む視線をしているのだろう。視線は毒のベールとなってミカに襲いかかる。両手が震えて、姿勢を保つことができない。  ヒルトマン男爵の杖で激しく叩かれて、背中には燃えるような痛みが走り頬も真っ赤に膨れ上がっていた。幾度も打ち付けられて、ミカはその場で立ち上がる力すら残っていない。  頭をぐるぐると巡り意識を濁らせるのは、ローレンツの言葉だった。  ――『ミカ、お前には失望した』  十年以上も仕えていたローレンツ男爵子息は、今朝方ルイーザと帰ってくるなりそう言った。  四つ年上のローレンツは、幼いミカを道で拾った張本人だ。  そして、秘密の恋人でもあった。  そのローレンツは冷たく言い放つ。 「まさかお前がルイーザを虐めていたとは……」 「ルイーザの妊娠を分かっていて彼女を殺そうとしたんだろう」  怒り狂ったヒルトマン男爵も言う。 「私の宝石を盗んだのもお前だったのね」  夫人は射殺さんばかりに目を細くした。  どれも信じがたいほどの光景だった。これは本当に現実なのか? 怯えて震えるルイーザをローレンツが抱きしめている。かつてローレンツが抱きしめてくれたのは、自分だったのに……。  事の発端は昨晩だった。夫人の宝石が盗まれたと屋敷で噂が走り、そこにルイーザが現れた。  ルイーザは街で小さなカフェを営む町人だ。ローレンツが足繁くカフェに通っていることは知っていたが、この屋敷にルイーザがやって来るのを見たのは初めてだった。  ルイーザは細い体で具合が悪そうにしていた。まだローレンツが帰宅していない。どうすべきか迷ったが、客室に案内し、お茶を差し出した。  そうしてすぐにローレンツが屋敷にやってきた。その夜、ルイーザとローレンツは二人してどこかへ出掛けてしまった。  二人が去る姿を見届けるのは、不安だったけれど、耐えられた。ミカはローレンツを信じていたからだ。  誰にも話してはいないが、ローレンツとミカは恋人同士だった。  ヒルトマン家に仕え始めたのはミカがまだ、七歳の頃だった。孤児となったミカは路地で蹲っている。たまたま通りかかったローレンツがミカを拾い、屋敷に連れ帰ってくれた。  ローレンツの家で使用人として暮らし始めたミカはそれから数年後、ローレンツに愛を伝えられた。  彼の思いを受け止め、男爵と夫人には秘密の恋を隠し持っていた。大切な大切な恋だった。表立って思い合えるような関係ではなかったけれど、ローレンツはミカを大事に愛してくれたし、ミカも彼に答えてきた。  そうして出会いから十年以上が経つ。今日こそが、ミカの十八歳の誕生日だ。  ……十八歳の誕生日には二人で出かけようと話していたのが、遠い昔のよう。  現実では、ローレンツはミカではなく半年前に出会ったらしいルイーザの肩を抱き、男爵と夫人、屋敷の使用人たちは皆、ミカを侮蔑の目で見下ろしている。  どうして、こんなことになったのか。  ミカには受け止められない。  ローレンツがルイーザと出会った半年前から、彼の心が離れているのは察していたけれど……。  まさか、妊娠だなんて。  俯いたミカの視線の先、己の両手がぶるぶると震えている。頭の上では罪を叫ぶ声が続いている。  ローレンツが言った。 「ルイーザを妬んで、彼女の紅茶に毒を入れたとは本当なのか?」  そんなこと、知らない。  ルイーザとローレンツが関係を持っていることすら知らなかったのだから。  あまりのショックで声すら出ない。ミカは赤い瞳を丸くして、目を見開いている。  目の前が眩んで倒れそうだった。だめだ。意識を保たないと。耐えなければ。  夫人が甲高い声で喚き立てる。 「私の宝石があなたの部屋から出てきたわ。恐ろしい子ね」  不意に視線を移すと、使用人の数人がクスクス笑っていた。ローレンツに贔屓されていると、昔からミカを虐めていた者たちだ。  洗濯などの水仕事や厩舎の掃除など、皆の嫌がる仕事をいつも押し付けられていた。それでも耐えなければならないのは、自分に行先などどこにも無いから。屋敷から放り出されれば今度こそ死んでしまう。だから、耐えていたのだ。 「お前みたいな薄汚い男をローレンツが連れて帰ってきた時から嫌な予感がしたんだ」  ヒルトマン男爵が顔を顰めた。  ミカにとって耐えるべき対象とは、ヒルトマン男爵でもあった。この十年でヒルトマン男爵に襲われかけたのは片手では数えられない。部屋に彼がやって来るのが怖くて、男爵が酒を飲んだ日は寝ずに扉を塞いでいた。  そうやってずっと耐えてきたのに。  こんなにも唐突に、終わりの日がやって来るとは。 「この者を屋敷から追い出せ!」  男爵が叫ぶ。その瞬間、使用人たちからも非難の声が上がった。  ミカは顔を上げて、ローレンツを見つめた。しかしローレンツの瞳にはもはや、かつてミカを愛おしげに見つめていた光の一つも残っておらず、ただ蔑む目だけが残っている。
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