彗星到来の日

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「もう一度言います。真さん。姉さんを最後まで一人にしないでいてくれてありがとう」 「……なぜ」  彼はうつむいた。アーク燈の紫の光が目元に影を落とす。 「君は僕を恨んでいるだろう」 「そりゃ恨んでいますよ! ずっと僕と一緒にいてくれた姉さんが、どこの馬の骨だか知れないやつに心惹かれていく様を見守らなきゃいけなかった気持ち、あなたに想像できますか!」 「馬の骨」 「……でも。姉さんが最後の時を一緒に過ごしたいと望んだのはあなただったんです。少しの間でも、姉さんが本当の幸せを感じてくれたなら、よかった。だからありがとう」 「……鈴彦君」  そのときだった。近くの店から男性の断末魔が響いてきて、僕たちはびくりと肩を震わせる。 「だから言ったじゃねえか。最後の日だからって博打で有り金ぜんぶ擦っちまう馬鹿がいるかよ」 「くそう! 彗星の大馬鹿やろう!」  僕たちは顔を見合わせる。やがてどちらからともなく笑って夜空の下を歩きだした。 「僕は家に帰ったら親にしこたま怒られるでしょうね」 「なぜ?」 「昨晩家を抜け出したきり帰っていないんです」 「じゃあ早く帰った方がいい」 「そうします。……真さんは明日から一文無しですか」 「はは。残念だけど生活に困らないだけの金はある」 「ではもっと食べてやればよかったですね」  家の近くまでやってきて、僕は改めて真さんに向き直る。 「これはあなたのものなので持っていてください」  蝶のハンケチ―フを手渡すと、彼は頷いて懐に戻した。 「本当はね。彗星が怖かった。心細かったんです、ちょっとだけ。だから一緒にいてくれて感謝してます」  彼は驚いて目を見開く。僕は自分がとても恥ずかしいことを言ったのに気が付いて顔を熱くし、慌てて彼に背を向けた。 「……じゃ、帰ります。牛鍋、ごちそうさまでした」  僕は家の方向へ歩を進める。背後から真さんの声が追ってきた。 「また会おう鈴彦君」  振り返る。  また会おう。その言葉を何よりも待ち望んでいたような気がするのだ。  僕は大きくうなずいた。  五月二十日の朝は何事もなかったかのように訪れた。  僕は部屋の箪笥を開いて、ちよ子姉さんに仕立ててもらった洋服を引っ張り出し、久しぶりに身に着けてみる。  身長が伸びたおかげで小さくなってしまった洋服に、もう少し大きく仕立ててもらうんだった、と思う。地球最後の日の翌日の空気はなんだか肌になじまない。次にハレー彗星が回帰する七十五年後のことを考えて、途方のなさにどうでもよくなった。  昨夜博打で一文無しになった彼はどうなっただろう。断食の駄菓子屋、ようやくご飯が食べられるだろうか。中野君は美人に振られていてほしい。牛鍋はとても旨かった。真さんの描く絵が見たい。  さまざまな思いが胸に去来し、僕は誰かと話したい気持ちになる。ちよ子姉さんならどんな表情をしてどんな返事をくれるだろうと想像するにつけて、やはりどうしようもなく、ただあなたに会いたいと思うのだった。 〈了〉
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