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プロローグ
「見ろ太田君、あれがハレー彗星だ」
学友の中野君が、両親に買ってもらったという新品の遠眼鏡を僕に手渡した。
レンズ越しに彼の指さす夜空を見れば、確かに灰白色の光の帯を確認できる。先端は細く、裾に向かって広がる光はさながら竹ほうきのよう。なるほど、これがほうき星。
七十五年に一度回帰するというハレー彗星が、明治四十三年五月十九日の今日、ついに太陽面を通過しようとしていた。
同じ中学校の級友である中野君と僕――太田鈴彦は、まだ家じゅうの人たちが眠る深夜三時、二人で示し合わせて近所の山へ彗星観測へとやってきていた。帰ったら家族に大目玉を食うだろうが、そんなことはどうだっていい。
なぜかって、あと数時間先、僕たちが生きていられる保証はどこにもないのだから。
「――あの彗星の尾に地球が包まれるとき、尾の中の水素と地球の酸素が化合して、人類はみな窒息死してしまうそうだ」
「どの学者が言っていたんだっけ」
「それは知らない」
「うちの隣の婆さんは、彗星のガスで地球が丸焦げになると言っていた」
「こっちの爺さんは地球が粉々になってしまうと言っていたな」
僕たちは神妙に顔を見合わせたのち、再び夜空を見上げた。周囲には同じく彗星観測の人の姿が多く見える。商魂たくましく彼らに甘酒を売りつける親父の声が聞こえてきた。
「――太田君」
「何?」
「ついに地球最後の日だ。君はこれから誰とどう過ごす?」
「……じゃあ、どうせ一緒にいるのだし中野君と――」
「それは却下。俺はお前と心中するのは御免だ。どうせ心中するならとびきりの美人がいい」
「全員死ぬのに心中も何も」
「というわけで、俺はこれから最後の時を一緒に過ごしてくれる美人を探しに行く。お前は誰とどうとでも過ごせ。じゃあな」
――そんな都合のいい美人が転がっているわけないだろう、馬鹿!
颯爽と走り去る中野君の背中に向かって、僕は今生一番の呆れ声を上げた。
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