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彗星到来の日
夜が明けた。どんよりと曇り空が広がって、なんとも不穏な一日の始まりだ。
道行く人々は一見平気な顔をしながらも、ふと立ち止まっては不安そうに懐中時計を取り出し眺めている。あの彗星が太陽面を通過し始めるのは午前十一時過ぎだというが、一体いつこの世が終わってしまうのかいまいち予測がつかないのがおそろしい。
僕は一人、太田家の墓のある墓地へと向かった。
墓石の前で手を合わせたのち、そこに刻まれた名前を見る。
――太田ちよ
僕は『ちよ子姉さん』と呼んでいた。昨年十七で結核により亡くなった実の姉だ。
中野君が、最後の日を誰とどう過ごすか問うたとき、僕は真っ先にちよ子姉さんの顔が浮かんだ。身体が貧弱で昔から外遊びが得意でなかった僕に、家の中で古今東西さまざまな物語を話して聞かせてくれた、優しく聡明な姉だった。病気にかかる前は、女学校で優秀な成績を残していたという。縁談もすでに決まっていた。文学と洋裁が趣味だった。
『鈴ちゃん』
ふと、彼女の柔らかな声音を聞いた気がした。姉さんはいつも僕のことを『鈴ちゃん』と呼んでいたのだ。
――その瞬間、ボタボタと両目から大粒の涙が零れ落ちる。
僕は墓の前で声を上げて泣いた。男のくせに、長男のくせに、声を上げて泣いた。
『ほらもう、泣き虫さんねえ』
その手が僕の頭を撫でてくれることは二度とない。声だってもう、生前の彼女の声をそっくりそのまま思い浮かべることなんてできなくなっている。
――ちよ子姉さんに会いたい。最後の日に会えないなんて嫌だ。
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