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いつまでそうしていただろうか。気が付けば、時刻は午前十一時を回っている。
僕は涙を拭き、とぼとぼと墓地を後にした。曇天の空は、気が付けば晴れ間を覗かせている。
墓地を出るとき、一人の背の高い書生風の男とすれ違った。彼も亡き人に会いに来たようだ。なんとなくざわめく気持ちを抑えながら大通りに出る。
下駄屋の婆さんがしきりに念仏を唱えている。交番のお巡りさんが通行人に「我々はいつ死ぬのか」と切羽詰まった様子で取り囲まれ、疲れた様子で煙草をふかしていた。
僕はすっかり雲の薄くなった空を見上げた。いつも通り太陽がのぞいている。そろそろハレー彗星が通過する頃合いだ。
僕はにわかに、一人で通りの真ん中に突っ立っているのが心細くなってきた。
「太陽を直接見ると目を傷めるよ」
目の前に一枚の煤けた硝子板が差し出される。
驚いて振り向くと、そこに立っていたのは、先ほど墓地に入っていった書生だった。
「さっき通りがかった小学生に『もう飽きたから』と煤硝子をもらった。今日はそこら中に一枚五銭で売られている。これで彗星を見るといいらしい」
「要りません。べつに彗星が見たいわけじゃありません」
「彗星が怖いか?」
「べつに怖くありません」
胸のいやな高鳴りを悟られぬようぶっきらぼうに言い放つ。
彼はふっと笑った。心細い面持ちで突っ立っていた僕のことを馬鹿にしているのだろうと思うと、とても腹が立った。
改めて彼の顔を見上げる。濡羽色の髪に切れ長の一重、それからすっと通った鼻筋。悔しいけれど整った顔立ちをしている。年齢は二十の手前あたりだろうか。
「もうじき世界が終わるそうだね」
「馬鹿にしていますか?」
「していないよ。けれど混乱した町を歩くのは少し楽しい」
「やっぱり馬鹿にしているじゃないですか」
彼は通りを歩き始めた。僕はむっとして彼の後を追う。
「君、学生か? 名前は?」
「中学生です。お……鈴彦です」
「鈴彦君。僕は片瀬真。今は商業の専門学校に通っている」
真さん。僕はその名前に見覚えがあった。
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