彗星到来の日

4/7
前へ
/8ページ
次へ
「鈴彦君、腹が減らないか」 「減りました」 「最後の晩餐といこう。僕が奢るよ。何がいい?」 「牛鍋」 「いいね」  牛鍋の店は三軒目でやっと席が空いていた。しかしここも大変な賑わいだ。昼間から酒盛りをしている大人たちを尻目に、やはり真さんは面白そうに笑っている。  二階の座敷の隅に座り、鍋を炭火にかける。女中さんが綺麗にサシの入った牛肉を運んできてくれて、僕は思わずごくりと喉を鳴らした。 「鈴彦君。好きなだけ食べるといいよ」  彼は鍋の中に具材を投入しながら言った。 「金なんて持っていても仕方ない。全部使い果たしてしまおう」 「――真さんは本当に世界が終わるなんて信じていないのに、そんなヤケを起こしていいのですか。うっかり生き延びちゃったら明日には一文無しですよ」 「一文無しになるぐらい食べることができればの話だよ」 「では食べてやりましょう」  ぐつぐつと煮えてきた牛肉を箸ですくい、生卵をたっぷり絡めて口に運ぶ。 「旨っ!」  大きな牛肉の旨みとほどよい甘さが口いっぱいに広がり、僕は頬が緩むのを抑えきれなかった。 「ほら、真さんも早く食べてくださいよ」  僕が急かすと、彼は笑って牛肉を口に運んだ。 「旨いな」 「でしょう?」  僕たちは結局、二人で十人前の量を平らげた。真さんは財布を懐に仕舞いながら「恐れ入ったよ、ありがとう鈴彦君」と笑っている。 「どうして『ありがとう』なんですか。お礼を言うべきなのは僕の方です」 「いいんだよ。僕一人じゃ使い切れないから」 「……さては真さん、とんでもないお金持ちですね。どれだけ使ったって明日の生活に困らないぐらい」 「そんなことはないよ。……だけど、とんでもない金持ちだったらよかったんだろうね」 「何の話ですか」 「何でもないよ」  ふぅん、と頷き、草履を履いて店の外に出ようとしたとき、真さんに「鈴彦君」と呼び止められる。 「口の回りが汚れている」 「あっ」  僕は思わず赤くなった。彼は笑って懐からハンケチ―フを取り出し、僕の口元を拭おうとする。  ところがうつくしい蝶の模様が刺繍されたそれを見て、僕はハッと息を飲んだ。  疑念が確信に変わる。  僕は確かに、このハンケチ―フに見覚えがあったのだ。
/8ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加