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「鈴彦君、腹が減らないか」
「減りました」
「最後の晩餐といこう。僕が奢るよ。何がいい?」
「牛鍋」
「いいね」
牛鍋の店は三軒目でやっと席が空いていた。しかしここも大変な賑わいだ。昼間から酒盛りをしている大人たちを尻目に、やはり真さんは面白そうに笑っている。
二階の座敷の隅に座り、鍋を炭火にかける。女中さんが綺麗にサシの入った牛肉を運んできてくれて、僕は思わずごくりと喉を鳴らした。
「鈴彦君。好きなだけ食べるといいよ」
彼は鍋の中に具材を投入しながら言った。
「金なんて持っていても仕方ない。全部使い果たしてしまおう」
「――真さんは本当に世界が終わるなんて信じていないのに、そんなヤケを起こしていいのですか。うっかり生き延びちゃったら明日には一文無しですよ」
「一文無しになるぐらい食べることができればの話だよ」
「では食べてやりましょう」
ぐつぐつと煮えてきた牛肉を箸ですくい、生卵をたっぷり絡めて口に運ぶ。
「旨っ!」
大きな牛肉の旨みとほどよい甘さが口いっぱいに広がり、僕は頬が緩むのを抑えきれなかった。
「ほら、真さんも早く食べてくださいよ」
僕が急かすと、彼は笑って牛肉を口に運んだ。
「旨いな」
「でしょう?」
僕たちは結局、二人で十人前の量を平らげた。真さんは財布を懐に仕舞いながら「恐れ入ったよ、ありがとう鈴彦君」と笑っている。
「どうして『ありがとう』なんですか。お礼を言うべきなのは僕の方です」
「いいんだよ。僕一人じゃ使い切れないから」
「……さては真さん、とんでもないお金持ちですね。どれだけ使ったって明日の生活に困らないぐらい」
「そんなことはないよ。……だけど、とんでもない金持ちだったらよかったんだろうね」
「何の話ですか」
「何でもないよ」
ふぅん、と頷き、草履を履いて店の外に出ようとしたとき、真さんに「鈴彦君」と呼び止められる。
「口の回りが汚れている」
「あっ」
僕は思わず赤くなった。彼は笑って懐からハンケチ―フを取り出し、僕の口元を拭おうとする。
ところがうつくしい蝶の模様が刺繍されたそれを見て、僕はハッと息を飲んだ。
疑念が確信に変わる。
僕は確かに、このハンケチ―フに見覚えがあったのだ。
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