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ちよ子姉さんは洋裁が得意で、僕は何度も彼女に洋服を仕立ててもらったことがある。けれど今となってはすべて部屋の箪笥に仕舞い込まれたままだ。取り出してしまえば、ミシンの前に座っている元気な姉さんの姿を思い出してしまうから。とてもその寂しさには耐えられない。
それから、姉さんは刺繍も得意だった。
ある日僕は、姉さんが真っ白なハンケチ―フに蝶の刺繍を施しているのを見かけたことがある。一針一針心を込めて縫われてゆく蝶を眺めながら、この蝶もきっと僕のためのものなのだろうと信じて疑わなかった。
けれど違った。完成した蝶は、いつの間にか彼女の部屋からいなくなっていた。
「――真さんは」
口を開いた瞬間、ポロ、と目から雫が滑り落ちた。
「姉さんの恋人だったんですよね」
「……え?」
「太田ちよ。知っているでしょう」
声を振り絞れば、彼は息をのんでその場に固まった。力なくだらりと垂れ下がった右手で、けれど蝶のハンケチ―フだけはぐっと握りしめている。
「……君は『鈴ちゃん』だったか」
彼はハンケチ―フを僕の手に握らせ、力なく笑って店を出た。
気が付けば西日が辺り一面を橙色に染め上げている。
僕は何となくハンケチ―フは使えなくて、着物の袖でゴシゴシと目元を拭った。
目の前を小学生ほどの子供が駆けてゆき、母親らしき女性が「走ると危ないでしょう」と後を追う。道の先から、豆腐売りの喇叭の音が聞こえてきた。
「……町は日常に戻りつつある」
「ですね」
「世界は終わらなかったな」
「……わかっていたんでしょう」
「ああ」
「心のどこかでは僕もわかっていたんです。世界滅亡なんてあり得ないって。……でもやっぱり、今日死ぬかもという日に、一人ぼっちは寂しいじゃないですか」
真さんは西日に背を向け、僕の目を見る。僕はぐっと唇を噛み、それから、彼に向かって頭を下げた。
「……真さん。姉さんを最後まで一人にしないでいてくれてありがとう」
彼は黙ったまま僕を見つめている。
「ちよ子姉さんは頭もよくて器量もよくて――こんなこと、言われなくてもご存じでしょうけど――縁談は降るようにありました。だから一家全員が期待していたんです。……断れなかったでしょうね。資産家の息子と許嫁の関係にありました」
「……知っていたよ」
「だけど姉さんはあなたを愛していた。……それで、ずっと文通だけは続けていた」
『真さんへ』そう書かれた封筒を彼女の部屋で見かけてしまったことがある。僕は彼を恨んだ。許嫁のいる姉さんと関係を持ち続けていたから、ではない。
あの一針一針心を込めて縫われた蝶の刺繍のハンケチ―フが、その相手のところへ渡ったことを悟ったからだった。――姉さんの本当の幸せが、その人のもとにあることを突き付けられた。幼い嫉妬心だ。
「姉さんの結婚は女学校を卒業してすぐの予定でした。けれど卒業を待たずに彼女は結核の診断を受けてしまった。――すぐに婚約は破棄されました。結核は感染するからと、ただの一度も、許嫁だった人が見舞いに来ることはありませんでした」
姉さんは日に日に弱っていった。僕も看病しようとしたが、彼女は「大事な跡取りに病気をうつすわけにいかない」と僕を優しく遠ざけた。
けれど一度だけ、僕を部屋に呼んで抱きしめてくれたことがある。いよいよもう長くはないと、医者に告げられた日の夜だった。
『鈴ちゃん、ごめんね。今までありがとう』
僕は彼女の胸でわんわん泣いた。別れの言葉の一つも告げられなかった。
翌朝、彼女は姿を消した。『最後の数日だけでも一緒に過ごしたい人がいる』といった趣旨の文言と、家族への謝罪、それから感謝が綴られた手紙を残して。
ちよ子姉さんを責める人は誰もいなかった。
けれどやっぱり僕は寂しかった。それから相手が――真さんが、どうしようもなく憎かったのだ。
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