彗星到来の日

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「――ちよ子さんは葛藤していた。僕が彼女を手放せなかったばかりに」 「…………」 「それでいて彼女を何もかもから奪ってしまえる自信も勇気もなかった。ようやく決心がついたのは彼女が亡くなる数日前。つくづく自分が情けない」  遠くの山に日が沈みゆく様子を、真さんは目を細めて眺めている。  やがて、僕に向き直ると、おもむろに口を開いた。 「――絵を褒めてくれたんだ」 「絵?」 「僕は美術の学校に入りたかった。家はあまり裕福ではなかったけれど、親戚が寄り集まってどうにか学費を工面してくれた。僕は期待を一身に背負って受験し、けれど見事に落ちた」 「……あぁ」 「それはもう落ち込んだよ。両親にも親戚にも失望されるし、唯一の誇りだと思っていたものがズタボロに叩き潰されたような気持ちになって、自分の形がわからなくなった」 「……うん」 「結局絵は諦めることにしたんだけど、最後に一枚だけ、気まぐれに道端の花を描いて――これも本当に駄目で、その場に破り捨てようとしたら、偶然通りがかった女学生が僕の絵をのぞき込んで『素敵なお花ですね』と言った。――だから僕は最後の一枚を破り捨てずに済んだんだ。本当に気まぐれのひとことだったろうけれど、あの花を捨てていたら、僕は自分を失ったまま、帰ってこられなかっただろう」  話し終わると、彼は再び遠くを見つめた。  もうすっかり日は沈み、近くの民家から慌ただしく夕食の支度をする音が聞こえてくる。 「それなのに――。彼女はもうこの世にいないのに、何事もなかったかのように回り続ける日常が憎いよ」  ――真さんにとってはちよ子姉さんがすべてだったけれど、世界はそうではない。ちよ子姉さんがいなくたって世界は回る。  ハレー彗星の騒動が何事もなく収まって、よかった、助かったと安堵する気持ちにも、人類の無事を祝福する気持ちにも、やっぱり何事もなかったじゃないかと呆れる気持ちにもなれないのは、僕も彼に少なからず共感しているからだ。  死にそうなほど寂しい思いを抱えているのに、やってくる明日は受け入れなければいけない。こんなに残酷なことはない。  ――だけど。
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