きみがいなくても、世界は廻る

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きみがいなくても、世界は廻る

    「……そんな怖い顔しないで」    夕方のテレビで、世界の株価がどうとかこうとか、円安がなんとかかんとか言っている。 「俺が思い出せないせいで、ごめんね」  その言葉にムッと腹が立つ。(おさむ)が、なにか思い出せそう。と俺に言ってから一週間経った。それからは、特に変わり映えのない日々。修の体が点滅するように時折薄くなったりもっと薄くなったり、を除いては。   「……別に」 「なにか言いたくてここに来たんだとは思うんだけどな」 「……もったいぶってんの?」 「え……」    なんでこんな言い方しかできないんだろう、俺。自分を遠くから見ているようで、呆れる。   「ち、違うよ。俺も必死で思い出そうとしてる。伊織が教えてくれたこと、一から……」 「でも思い出せねーんだろ」  修を責めてなんになるんだよ。   「……うん。ごめん」 「そんなふうに謝んな。すげぇむかつく」 「むかつくって……俺だって……」 「どうせ他人事なんだろ。お前にとっては。俺は、お前が消えそうでこんなに焦ってんのに」 「違うって……」 「……なにが違うんだよ」 「それは……」 「そうそう。お前が死んでも、なんにも変わらないんだってよ。この世界は」 「伊織……」 「それがすげえむかつくんだよ。俺だって、なんにも……飯だって食うし、眠くなったら寝るし。毎日大学行って、青木と仲良かったから寂しいだろなんて言われて……」 「……」 「なんにも、なんにも変わらないなんて、そんな残酷なことあんのかよ……」    今修に言うべき言葉じゃないはずだろう。でもこの感情をどうやって制御したらいいのかまたわからなくなった。   「伊織」    また、その言葉にビクついてしまう。その声が好き。その言葉を紡いでくれる修が好き。だから、どうしようもない。   「伊織。俺は、それで十分だよ。こんなに悲しんでくれる人達がいるんだから。俺のことを愛してくれる人が、こんなにいるんだから。こんなに嬉しいことって、ないよ」 「なんでそれが嬉しいんだよ!」    俺は正反対の気持ちなのに。   「それでも、嬉しいよ、俺は。死んじゃって何も伝えられないのは……悲しいけど」 「そーかよ」 「……伊織」 「……なに。またかわいそうだとか思ってんの?」    そんなこと思って欲しいんじゃなくて。   「……うん……」 「じゃあさ。俺のことかわいそうだと思うならさ。抱きしめろよ。勝手に死んで悪かったと思ってんならさぁ。……なぁ。思ってんなら……抱きしめてくれよ! お前がいない人生なんて……つまんねぇんだよ! わかるだろ……!」    激しく揺れ動くこの心を、なにかに思い切りぶつけたい。修を責める心が言葉になって、俺はしゃくり上げながら彼にそれを暴力的にぶつけた。   「ごめん。修。ごめん……」 「う、う、ううっ……」    俺の好きだった、俺に優しく触れていたあの手の平が確かにここにあるのに、差し伸ばされて肩に置かれたそれは、空気よりも軽かった。        俺達の間に、沈黙が流れる。いつ消えてしまうかわからない修が気になってしょうがない。   「伊織。なんか食べた方がいいよ」 「……うん」    それでもこうやって俺のことを気遣ってくれる修。俺はなんて浅はかなんだろうか。自分を思い出せない修を気遣うことさえもできないほど、子どものように自分勝手だ。   「……今日は、なんか買ってくるわ。ちょっと頭冷やしてくる」 「うん。わかった」    頭を冷やしたくて、なんて口から出まかせだ。居た堪れない空気から逃げ出したくて、俺はコンビニまで歩いた。できるだけ、ゆっくりと。   「……はぁ」    この時期の夜風はまだまだ寒さを感じる。もう一枚羽織ってくればよかった。そう感じながら、おでんを何個かとパンを買った。   「……ただいま」 「おかえり」    修がテーブルの前で、ガサ、と袋を置いた俺を見た。バランスが悪い、とか言われるんだろうな。   「今日はおでん。なにも食べなかったらお前がうるさいから」 「……うん。おいしそう」 「……いただきます」    もう、いいんじゃないのか。なにも思い出せなくても。今ここにいる修を大事にする方が、残っている時間を大事にする方が、俺達にとってそれが最善なんじゃないか。    俺は帰ってくる途中、点々の明かりをぼんやり視界に入れながらトボトボと歩き、そんなことを考えた。    修のことが好きなんだから、それでいいじゃないか。なぜそれ以上を望んでいるのだろう、俺は。後悔ないように、二人の時間を過ごす方が絶対にいい。    そう思ったら、チクチクざらざらしていた俺の心が、少しだけふわりと軽さを取り戻した。          そんな俺の心変わりとは反対に、修は俺と話すでなくなにか考えごとをすることが増えた。機嫌悪そうにしているのではなく、ずっと黙って難しい顔をしている。   「……修。学校、行ってくるから」 「……」 「修っ」 「えっ? あ、なに? ごめん、聞いてなかった」 「学校……行ってくるよ」 「あ、うん! 行ってらっしゃい」    俺の心変わりとは裏腹に、修は俺に構ってくれなくなった。俺はなるべく、努めて明るく過ごした。今日あったことや、ガラじゃないけど修とのなれそめなんかも話したりした。でも修ときたら、心ここにあらず。俺がこんなに修と話したがっているのに。   「……なんか、あった?」 「……」 「修……」    これが修? 俺のことをずっと気にかけてくれていた修?   「なぁ……」 「あ、ごめん! 考えごとしてた!」 「うん……」 「ど、どうした?」 「こっちのセリフ……。最近ずっとそうじゃん。どうしたんだよ」 「ああ、うん。……そのー……あの、さ」 「……うん」 「思い出しそう、なんだ。なにかを……その、説明しにくいんだけど……」 「……前も言ってたもんな。そんな考え込むなんて、あとちょっとなのかな」 「かもしれない……。ほんと、ここまできてる感じがするんだけど……」 「思い出したらいなくなる?」 「……わかんない。消える前に、思い出したい」 「もう、いいよ」 「え?」 「思い出さなくても。だから、ずっとここにいてよ」 「……伊織……。俺も、そうしたい……」 「……」    付き合ってた時は、どうしてたんだっけ。こんな空気になったことがないからわかんないな。きっと気の利く修が場を和ませてくれていたのだろう。不器用で口下手な俺にはそんな器用なマネはできないとここで悟ってしまった。    引き留めたってしょうがない。いつまでここにいられるかなんて誰にもわかるはずがない。修が一生懸命思い出そうとしているのもやめさせないようにしよう。そして、この時間を大切にしたい。    そう思った、矢先のことだった。         「修……もっと薄くなってる」 「……うん」  ふぅ。と肺からため息をつく。そろそろなんだとこの目で感じた。泣いて別れるのは嫌だと思っていたのに、やっぱりじわりと視界が滲んだ。   「きょっ、今日は……大学、休もうかな。いいよな、今日ぐらい」    明るく過ごそうって決めたじゃないか。泣くな。修が悲しむだろ。   「修。……あっ。お、修」    ぱっと無理に晴れさせた顔を上げ修を見た瞬間、俺は言葉を失った。   「伊織……思い出したよ、俺」    眉をひそめ、うるうるとした瞳で俺を見てそう言った。   「……えっ」 「思い出した。やっと……」    修が瞼を閉じると、溜めきれなかった涙が彼の頬を流れた。   「思い出した……? あっ、な、なにを。いや、もう、それ、いい。思い出さなくて、いい」 「伊織……聞いて」    いやだ。そんなの、言ってからそのまま消えるに決まってる。   「い、言わなくて、いい。聞きたくない。それよりさ。俺もっと他の……」 「……聞いてほしい」 「いやだっ!」 「伊織……」    なんてひどい男だ、お前は。俺がどれだけお前のことを好きだったか知っているはずなのに、俺に、また一日中泣いて過ごせと言うのか。こんな仕打ちを俺にする奴だったのか、お前は。   「聞いて。その……実は、伊織を完全に思い出したわけじゃないんだ」 「……はっ?」  なに。なに。修の言うことを、耳を塞いで聞いていたい。俺はひどく混乱した。修がなにを言っているかすぐに理解できず、ここに立っているだけで、それだけで精一杯だった。   「今まで、なにも思い出せなくてごめん」 「いい。もう、いい。いいよ、そんなことっ」 「ううん。謝らせて。それに、先に死んじゃって、ごめん」 「もう……、いい、って……」    なにかを悟った様子の修に、それが現実になってしまう恐怖に、俺は口をつぐんで俯いた。修は半歩俺に近寄り、透けた体で俺を包んだ。   「俺が伝えたかったこと、聞いて」 「うっ、うう……っ、うっ……」    その声は、俺が聞いてきた中で一番優しさで溢れていた。聞きたくないのに、その先を言って欲しくないのに、俺の鼓膜をこんなにもそっと震わせた。   「伊織と撮った写真。もう一度、あれを見て欲しい」 「しゃ、写真?」 「そう、写真。……ごめん。本当はどんな写真なのかもわかってない。でも、なんとなく伊織と二人で撮ってる気がする。……違うかも」 「あっ、あるよ! 二人で撮ってる写真! 待って。今、見せるから」 「伊織。いいよ。ここにいて。もう少しだけ、こうしていたい」 「う、うん……」 「ありがと……。あと、もうひとつ」 「……っ、……、……」 「伊織。あの時、またな、って言ってくれてありがとう」    その言葉に、全身が震えた。俺が修にかけた言葉は、あの時誰一人聞いていなかったはずだから。やっぱり、やっぱりここにいるのは修だったんだ。   「だから迷わずここに来れたのかも」 「……修」    修から流れ落ちた涙が俺の頬にあたって、ぽたりと音を立てた気がした。俺を抱きしめているはずの腕の感触は全然ない。なのに、なぜか、その粒の温かさだけは、確かに俺に伝わった。   「もう一回同じ人を好きになるなんてこと、あるんだね」    そう言って、修はにこりと笑った。俺がこんなに泣いているというのに。   「修! 待って。待って。行くな。待て、って……。また、一人で生きていけって言うのかよ……!」  もう一度瞬きをしたら、ぽろろっとたくさんの粒が溢れていった。その一瞬で眩しい西日が俺の目を眩ませた。そして俺が一人で泣きじゃくっていた頃の部屋に、何事もなかったかのように、戻ってしまっていた。   「修……うっ、うっ、うぅ……」    ぽつんと一人取り残された俺は、この狭い部屋の中で崩れるようにしゃがみ込んだ。その中で、いつまでも嗚咽を繰り返していた。           「……一重になってら」    さんざん泣いた。また俺を置いて行きやがって、もっと一緒にいたかった。その二つの思いがぐるぐる頭を出しては、その度にため息を吐いた。    死んだ人は心の中にいるなんてのは嘘だ。話せもしないし、触れることすらできない。心のどこを探せば修がいるんだよ。    俺はそれを言いだした奴を憎んで、パシャパシャと顔を洗った。冷たい水が気持ちよくて、少しだけ目が開けやすくなったように思う。    二度目の修との別れの後、なかなか写真を見ることができなかった。見たら、また苦しくなりそうで。   「……見ないと怒られるかな、さすがに」    そういえば修の怒った顔って見たことないな。俺ばっかり……。   「……ずずっ」    垂れてきた鼻を吸って、押し入れの三段ケースの一番下に手をかけた。そこには修との思い出の品をしまっていた。もちろん、あの時撮った写真も。   「あった」    相変わらず変なフレーム。一体どこで売ってんだろう。   「……あっ!」    パリ……ッ。    するりと俺の手からこぼれ落ちた。裏返しのフレームを表にしようとしたら。裏返しのまま、ガラスが割れた音がした。   「あーもう……」    しゃがんでフレームの端を掴む。そっと表向きにすると、案の定嵌めガラスが割れていた。   「……っ」    二人で撮った写真。ふいに懐かしさが込み上げる。唇を噛んで耐えて、写真に傷がつかないように裏の留め具をずらした。かぱ……と写真を押さえている板を外すと、写真の裏に何か書いてあった。   「修の字だ」    そう口に出していた。小さくてかわいらしい、修の字。   「……」    ああ、これを見せたかったのか、修は。全然知らなかった。だから俺が嫌がるのを無視して無理矢理こんなフレームに入れていたのか。そっか。俺が誕生日プレゼントなんていらないよって言ったから。だから、だから……。    ——好きだよ。伊織。また来年も一緒に誕生日過ごそうな。   「……。……、うっ、ううっ……! 修。おさむっ……」    修。会いたいよ。もう一度だけ、お前に会いたい。どこを探せばお前に会えるのか俺に教えてくれ。こんなに苦しい思いをしなければならないほど、お前が好きだったと伝えさせてくれ。   「修……」    くた……と力を無くした俺の体が、床にへばりついた。今日もまたわんわん泣かなければならない。そろそろ隣から苦情がくるかもしれない。修のバカ。そうなったら絶対絶対、お前のせいだからな。          電車を乗り継いで、修の墓に行くことにした。しばらく俺に会ってないから寂しいかな、と思って。そして、少しの花を手向けたくて。    今日は天気がいい。花粉の季節も終わりこんなラフな格好で来たけど、さあさあ流れる風が心地良かった。   「青木家……ここだ」    墓に乗っている落ち葉を払って、修が好きだった炭酸の缶を開ける。プシ、と音が鳴って、それをお供物にした。    見てるかな、修。お前が好きだった花なんて知らないから、花屋で安かったこれで勘弁な。俺も一応まだ苦学生だからさ。   「……線香買うの忘れた」    持ってきたライターを見つめて、とりあえず手を合わせる。俺には、どうしてもここに修が眠っているとは考えられなかったけど、なんとなく会える気がして来た。   「……じゃあな、修。またな」    これは俺が飲むからな、と言って供えた缶を一気飲みした。途中で咽せて、ゲホゲホと喉に痛みを感じるほど咳き込んだ。   「イテ……今笑ったな。くそっ」    ずっと鼻を吸って、俺はくるりと身を返した。         「これでよし。あんな趣味の悪い写真立てはお断り」    フレームを落とした時、気付かなかったけど俺はガラスで指を切っていた。少し写真が血で汚れて、優しくティッシュで押さえた。修に見つかっていたのならば、俺達の貴重な写真なんだからな、と怒られただろうか。   「……いい顔してる。俺達」    そう。今ならわかる。世界が変わるべきだったのではなく、俺自身が変わったのだ。俺の世界の、修というパーツがころんと取れて、俺は必死でそれを探していた。でなければ、俺の世界は形を保てない。そう信じ込んで。    それでも、修を思い出すと寂しくて涙が滲む。あんなに好きだったのだから仕方ない。あいつめ、俺を置いて行きやがってと何度思っただろうか? それでも、寂しくても憎くても、最後には『あんなに好きだったのに』と思ってしまうのだ。   「お前に、ちゃんと面と向かって好きだって言えてたらなぁ……バカだな、俺。今頃になって大事なこと言うの忘れてんだから。お前には思い出せ思い出せって言っといてな」    俺達二人だけの時間を思い起こせば、心がじんわり温まることばかりだったなぁ。絶対修のおかげだな。   「……さっ。俺ももうすぐ卒業だからお前ばっかに構ってやれないからな。中途半端に図面書いてるから苦労してんだぞ」    ぶちぶち文句を言って、卒業制作に取り掛かる。先生に相談したら、形まではなんとかなりそうだと言ってもらえたのだ。   「完成したら、お前に一番に見せてやるからな」    うーん、うーん……と慣れない図面を懸命に起こす。修の頭の中がなかなか想像できなくて、完成させるまでに相当苦労した。   「あー……ちょっと休憩」    ——いいよ。三十分経ったら起こしたげる。    目を閉じたら、修のそんな声が聞こえた気がした。    修。いつかまたお前に会いたいよ。その時は初めから、恋人だったんだよ、と伝えたい。   「……あ、そっか」    そうか、そうなのか。死んだ人は心の中にいるって、そういうことだったのか。俺の身の回りは、こんなにもお前という色で彩られている。字を書く時も、テレビを見る時も、昼寝をする時も、夕食を作る時も。   「俺って、お前でできてたんだなぁ」    そう言うと、修は下唇を少し噛んで、その後にはにかんだように俺に笑ってくれた。          
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