この言葉は、本物

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この言葉は、本物

     引っ越しを決めた日。俺は、俺達の思い出がたくさん詰まったこの部屋を出ようと決意した。何日カーテンも開けず、何日電気もつけっぱなしで、何日ここで泣いて過ごしただろうか。    大学もずっと休んでいた俺は、とうとう親に連絡されてこっぴどく叱られた。まだ稼いでもいない学生の身分で、と。俺は親に修とのことを言っていなかった。実は友達が亡くなって、一番仲の良かった友達だったんだと伝えると、落ち着いたらまた学校へ行きなさい。一番大事な友達を休む口実に使ってはいけないよ、と言われた。    では、それが恋人だったならどうだろう。悲しくて悲しすぎて、後を追う人だってきっといるはずだ。俺も何度そうしようと思ったかわからない。このまま何も食べずにいたら栄養失調にでもなれるかもしれない。そんな感じで。    俺は、俺の大事な(おさむ)がいなくなったこの世界が、まるで何事もなかったかのように振る舞っているのが許せなかった。でも俺は、悲しみに暮れているというのにやはり腹は減った。喉も渇いた。一番許せないのは、いつも通り食べて飲んで排泄して寝られる、自分だったのかもしれない。         「うーん。薄くなるとは聞いてない」 「……」 「うーん……」    手をひらひらさせている。こんな時にもおちゃらける修に、俺は心の中でため息をついた。    また悲しませるだけならなんで俺んとこに来たんだよ。お互い同じ気持ちだったことも忘れちゃってさ。一緒に外に出ることもできないのに、触れることすらできやしないのに。   「……幽霊なら、なんか後悔とかがあるんじゃねぇの。親に言い残したこととか、姉ちゃんとか」 「後悔。そうか、俺は後悔があってここにいるのかぁ」 「……知らねえけど」    それが俺だったらどんなに嬉しいだろう。たくさんの人の中から俺を選んでくれたに違いないと喜んでいただろうな、単純な俺は。   「ねえ、俺達ってさ。どのくらい仲良かった?」 「えー……。学校で連んだりとか、一緒に飯作ったりとか、かな」 「そっかー……」 「……なんで」 「んーすごく仲良かったのかなって。俺の笑いの好みとか知ってるし。最初に見せてくれたテレビのやつとか……」 「まぁ、そこそこは」 「そんなに仲良くしてたのに覚えてないなんて、俺ホントにひどい奴だよな」 「……ほんとだよ」    修が少し真面目に言ったもんだから、つい俺の本音が出てしまった。いくら説明しても何も覚えていない修。本当のことを言ってしまいたい自分。でも拒否されるのが怖くて、俺に対して今はそんな気持ちじゃなかったらと思ったら怖くて、言い出せなかった。それを言わなくてもここに来てくれただけで十分だろ。と俺を諭す自分もいた。   「俺と伊織はケンカとかしたことある?」 「ない……かな。しても一瞬で終わってた」 「一瞬で? そっかー、気が合ったのかな」 「……たぶん」    俺達はケンカなんてしたことがない。正確には、ケンカしても修が俺をなだめてくれてそれですぐに関係は元通りになっていた。気の強い俺と、優しく寄り添ってくれるような存在の修。何度俺のわがままで修を困らせていただろうか。    俺は、この先もずっとお前の優しさに甘えていたかったのに。もうそれができないと考えただけで心の深いところがぎゅうっと鷲掴みにされたように苦しくなった。          狭い部屋。また一人で飯を食べる。一人の幽霊の隣で。   「今日はチャーハン? おいしそう」 「うん。これ、お前が好きだったんだ。俺最初食べたことなくて。そんなの絶対マズイだろってずっと嫌がってた」    レタスの入ったチャーハン。修が作るみたいにパラパラしたのにはならない。   「ベチャベチャになるんだよな。レタス入れると余計に。お前にちゃんと聞いとけば良かった」 「……そうだね」    かちゃかちゃとスプーンが皿に触れる音がする。鶏ガラの素にワカメをふやかしたスープをすする。簡単だし、売ってるの買うより安くつくよ。と言って教えてくれたレシピ。俺が食費を節約できているのも、こうして栄養のバランスが取れているのも、修のおかげだ。   「ねぇ伊織」 「なに。もう食えねえわ。明日の弁当にしよう」    スープを最後まで飲んで、手を合わせた。   「俺さぁ。俺……もしかしたら俺、伊織のこと友達とは思ってなかったかもしれない」    そのセリフにどきりと胸が反応する。   「……なんで?」 「んー……なんでって言われると……答えにくいんだけど……なんと、なく?」 「ふーん……」  なるべく修を見ないように、すぐ後ろのベッドに寄りかかって満腹の腹を撫でた。   「なんか……伊織見てたらさ。友達以上に感じてたのかもって思って……あっ! 気持ち悪かったらごめん!」    友達とも思ってなかったのかも、と一瞬だけ思ってしまって、そうじゃなかったことに心底安堵した。その次に感じたのは、やっぱり俺は修が好きなのだということだった。   「いーよ」    左手を床について自分の身を起こす。膝立ちで修に近寄ってテーブルに右手をつき、薄目して薄く色付いた修の唇に俺のを重ねた。触れることはできなかったけど、懐かしい気持ちが俺の中に溢れた。   「い、伊織……」 「……」 「キス、した? 今……」 「そうだよ。俺達はこういうことする仲だったんだよ。……嫌だった?」 「ううん……。嫌じゃ、ない」 「そっか。良かった」    俺風呂入ってくるわ。と言ってテーブルの上を片付ける。    まただ。視界がじわりと滲んで、物の境界線が曖昧になってしまった。落とさないように台所まで持って行かないと。両手が塞がっていては目を擦ることさえできない。もう少しだけ保ってくれ。そしたら、風呂の中で思い切り泣けるから。         「あのー、さ。こないだのことなんだけど」 「うん、なに?」 「俺達、付き合ってたの」 「……そうだよ」    さして興味もないネット番組をひたすら流し見する。俺が修に言ったことで彼を混乱させてしまったのかもしれない。修はあの後、しぼんだように口数がぱったりと減った。   「なんで、俺に言わなかったの」 「なんでって……お前がなにも覚えてなかったから」 「俺、俺のことが知りたいって言ったよな」 「……うん。でも、嫌な顔されたらって思ったら言えなくて」 「それでも教えて欲しかったんだけど」 「ああ、そうなんだ」 「そうなんだ、って……」  修が好きなお笑い番組も、客席にはどっかんどっかんウケているのになにを言っているのかさっぱりわからなかった。   「言ってくれたらなにか思い出したかも……」 「何にも覚えてない恋人なんかいるかよ」    あ、嫌な言い方した。今。俺のバカ。   「覚えてなくてもなんか思い出すかも、って……」 「勝手に置いていきやがって。今のお前も本当は青木修じゃねーのかもな」 「……」 「違うの見ていい? ……なぁ」 「……」 「なんだよ」 「なんか……かわいそうだな、って……思って」 「は? 他人事かよ」 「あ……ごめん」 「なんか別人みてえだわ、お前」 「……」    俺の悲しみが、怒りに変わってしまっていたのがわかった。俺を置いて先に死んでしまったけど、俺はたくさん悲しみをお前に捧げたけど、何一つ覚えていないお前に、ただ、たった一言だけ「一人にしてごめんな」と言って欲しかった。俺の悲しみが、苦しみが、俺にもわかるよ、と同情してほしかったのに。   「あーあ。そんなもんだったのか。俺達の関係って。俺はお前の骨まで拾ったのにさ」 「……」  修が困っている。言いたくないことや、都合が悪くなるとすぐこうして下唇を噛んでいた。修がよくする、クセ。  やっぱり、修じゃん。俺が好きだった修じゃんか。   「……クソッ」    ポロポロと涙が転げた。好きなのに、こんなこと言いたいんじゃないのに、どうすればいいかわからない。テレビの電源をプチッと切って、リモコンをテーブルに叩き置いた。 「……泣かないで」 「るせぇ」 「……ティッシュ一つ差し出せないなんて。俺、俺……」 「……」    ザッザッとそれを乱暴に引き出して鼻をかんだ。お前にしてもらわなくても自分でできると言わんばかりに。   「俺、玄関にいるね」 「……ああ」    この狭い家で、なんて居た堪れない空気。身を捩って玄関を見ればすぐにドアが見えるというのに。   「……はぁ」    もしかしたら俺は、とんでもなく酷いことを言ってしまったのかもしれない。それか、修の記憶がなくて良かったと思っている自分がいる。どちらの俺も、戸惑っている。    早く謝れ。いや、仕方がないことだ。記憶がなかったんだから。いきなり無愛想な男に、俺が恋人だったんだよと言われて困らない男が何人いるんだよ。そうじゃなくて、困っていたとしても自分の気持ちを伝えるべきだったんじゃないのか?   「……どう言えば良かったんだよ」    たった一つの臆病な俺の心のせいで、また二人の間に溝ができてしまった。うまく言えたらどんなに楽だろう。俺が言われて嬉しかったものが、修が俺に言われたら同じ気持ちになるに決まってる。でも今は素直にそう思えない自分がいる。    ちら、と玄関の方を見ると、ドアの前に座る姿の修が透けて見えた。    今のこの荒んだ気持ちではなく、あの時と同じ思いでそれを伝えたい。きみが消えてしまう前に。俺より遥かに、好きだよ、の言葉を紡いでいてくれていたのだから。          
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