都橋探偵事情『更紗』

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「ああ駄目だこりゃ、クリーニングしても落ちねえや」  コートを丸めて投げ捨てた。そこへ氷室が駆け付けた。 「時間だ行くぞ」  4時まであと5分。 「女はどうします?」  正垣が考えた。 「ほっとけ、俺を待ってる大事な客人待たせるわけにはいかねえ」  氷室がバイクのエンジンを掛けた。 「横浜西口連絡通路だ、飛ばせ」  氷室は正垣を乗せたままアクセルターンを決めた。  暗闇でずっと目を慣らした。幅員3メートル。高さ2メーター20センチ。長さ40メートル。東海道、横須賀線、根岸線、京急線の下を潜る連絡通路。東西に階段があり階段入り口に灯がある。通路に灯は無く、階段の灯が漏洩して東西とも10メートルまで星明り程度の視覚を感じる。しかし中央部20メートルは暗闇である。世に魑魅魍魎がいるとすればこの20メートルかもしれない。昼間は児童や通勤で利用していた連絡通路。三年前までは片足を失った傷痍軍人がアコーディオンを弾いていた。彼はこのトンネルの番人的な存在で皆が安心して通行していた。その通行料が恵みの小銭である。今はいない、児童も通行しない。浮浪者にはもってこいの雨宿り場所だが、三年前に殺人事件があって以来おかしな噂が流れて浮浪者さえも利用しない。その事件に関わっていたのが、徳田と中西、それに正垣である。今は警官が日に二度警邏するだけの不要になったトンネルも取り壊されることになっている。中西は一時間前に入り暗闇で目を慣らしていた。手を上げれば天井に掌が付く。上段からの斬り落としは出来ない。中西は膝を少し曲げて上段に構えた。ギリギリ刃は天井に当たらない。正垣の上背なら真上から落として来ることも可能である。中西は時計を見た。そろそろ来るだろう。コートを脱いで畳んだ。ソフトを外してコートの上に置いた。両サイドにある浅くて細いドブに壁から染み出た地下水がちょろちょろと流れている。やくざから押収した匕首をズボンのベルトに差し込んだ。鞘が短いから前に突き出たおかしな様子である。居合は抜刀と納刀の絶妙なバランスで成り立っている。鞘を捨てての勝負は居合ではない。抜刀と同時に勝負あり。
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