58人が本棚に入れています
本棚に追加
「あたしそろそろ帰らないと、お母さんが仕事だから火事手伝い」
啓子が笑いながら立ち上がった。
「うん、じゃ卒業式にね」
「涼子も一緒に帰ろうよ」
啓子ははマダムに魅かれる涼子が何となく心配になった。
「大丈夫」
涼子は笑って見送った。と言うより少し啓子が邪魔だった。マダムから聞くインドや横浜の話を独り占めしたかった。
「冬休みなら横浜に遊びにいらっしゃい。運賃だけで大丈夫よ。うちに泊ればいいし横浜案内してあげる」
涼子はその気なった。同級生の一人が高校最後の夏休みを利用してバックパッカーの旅をした話を自慢していた。彼の周りに皆が集まり見知らぬ町の見知らぬ風習に目を丸くしていた。自分もそんな旅をして仲間に自慢したい。内気で友達も少ない。横浜に一人で行き一週間を過したと言えばみんな羨ましがるし行動力を見直してくれる。観光会社の旅行ではなく人生を磨く旅であることを自慢したい。それにもう一つ理由がある。それは母親への反感である。母親が付き合っている男と別れさせたいためである。娘が家出して行方不明になれば男のことなど忘れてくれるだろうと思った。
「行きたい、あたし行きたい」
涼子はマダムから横浜の自宅連絡先を教えてもらいメモした。
「元町ですか?行きたい」
涼子は夢のような一週間に浮かれて店を出た。バナナの香がする消しゴムを忘れたのも気付かなかった。
吉田町から都橋を渡ると左側に交番がある。交番の裏手が都橋商店街。誰が設計したのか楕円形の廊下がどぶ川にせり出している。その都橋に事務所を開いて三回目の冬が来た。二階、宮川橋側階段を上がり二軒目、屋号は都橋興信所。中央階段を上り宮川橋に二軒目が都橋結婚相談所、この二軒以外は全て飲み屋である。戦後からどぶの両側はバラック建ての闇市、整備事業に邪魔になる店をここに移動させた。都橋興信所の主は徳田英二。両親は徳田が五歳の時に横浜大空襲で死んでしまった。野毛に買ったばかりの平屋二間の自宅があったが大家もろとも空襲で死んでしまい、口約束の契約など消えてなくなり、朝鮮人親子に取られてしまった。
最初のコメントを投稿しよう!