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「人生で今日がいちばん若いんだ」  木崎(きざき)聖子(せいこ)はこの台詞で田中啓子(けいこ)を説得した。  啓子は「んなこた、わかってる」と返しつつも、動揺は隠せない。  長い付き合いだからわかる。大学卒業後、1年のブランクを経て入った大東(だいとう)創薬研究所の新入社員研修で出会って以来だから、ふたりの友人関係はもう早23年に及ぼうとしている。今や聖子は「仕事ができて美人だけど、口が悪いのが唯一の難点」と公然と評される総務部の主任だし、研究職の啓子は菅野(すがの)研究室のふたりいるサブリーダーのうちのひとりだ。  あとひと押しだ。聖子はビールから切り替えた赤ワインのグラスをテーブルに置いて口を開いた。 「いいか、明日は今日より老ける」 「ヨギちゃん、そりゃないわ」  啓子が生ビール中ジョッキの持ち手を握りしめて強く反論に出た。「老けるて、ひどない、老けるて。もうちょっと繊細なワードチョイスしてもええんとちゃうん。自分も同じような歳なんやし、なんならわたしよりいっこ上やん」  兵庫県出身の啓子は研究所を出た途端に関西弁になる。聖子が一度「大阪弁」と言ったら、それは違うと訂正された。どこが違うのかよくわからない。ちなみに京都弁もまた別物らしい。 「繊細ねえ。たとえばどんな」 「成熟するとか熟成するとか‥‥、あと、円熟の域に入るとか、えと、爛熟(らんじゅく)期とか」 「じゅくじゅくってことだ。そのうち腐ってぼとりと落ちる」  何か言おうとするように大きく息を吸った啓子は、それをそのまま、ぷはあ、とため息にして吐き出した。  3杯めのジョッキもすでに半分になっている。もっと至近距離ならかなり臭ったことだろう。おそらくこれが今日の最後の1杯だ。 「そうなんだよなあ」
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