49人が本棚に入れています
本棚に追加
/88ページ
1
「人生で今日がいちばん若いんだ」
木崎聖子はこの台詞で田中啓子を説得した。
啓子は「んなこた、わかってる」と返しつつも、動揺は隠せない。
長い付き合いだからわかる。大学卒業後、1年のブランクを経て入った大東創薬研究所の新入社員研修で出会って以来だから、ふたりの友人関係はもう早23年に及ぼうとしている。今や聖子は「仕事ができて美人だけど、口が悪いのが唯一の難点」と公然と評される総務部の主任だし、研究職の啓子は菅野研究室のふたりいるサブリーダーのうちのひとりだ。
あとひと押しだ。聖子はビールから切り替えた赤ワインのグラスをテーブルに置いて口を開いた。
「いいか、明日は今日より老ける」
「ヨギちゃん、そりゃないわ」
啓子が生ビール中ジョッキの持ち手を握りしめて強く反論に出た。「老けるて、ひどない、老けるて。もうちょっと繊細なワードチョイスしてもええんとちゃうん。自分も同じような歳なんやし、なんならわたしよりいっこ上やん」
兵庫県出身の啓子は研究所を出た途端に関西弁になる。聖子が一度「大阪弁」と言ったら、それは違うと訂正された。どこが違うのかよくわからない。ちなみに京都弁もまた別物らしい。
「繊細ねえ。たとえばどんな」
「成熟するとか熟成するとか‥‥、あと、円熟の域に入るとか、えと、爛熟期とか」
「じゅくじゅくってことだ。そのうち腐ってぼとりと落ちる」
何か言おうとするように大きく息を吸った啓子は、それをそのまま、ぷはあ、とため息にして吐き出した。
3杯めのジョッキもすでに半分になっている。もっと至近距離ならかなり臭ったことだろう。おそらくこれが今日の最後の1杯だ。
「そうなんだよなあ」
最初のコメントを投稿しよう!