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サジル
サジルが暗闇の中を移動しながら目指すのは、ムーダンの南側国境付近にある、山間の村だ。
ボルサの街で、小物売りの露天商の経験は中々愉快な経験だと思うサジルだが、店の中で影に消えるまであった、悠然とした微笑みが不意に歪む。
右手の中指からの出血は止めたが、焼けた指先の痛みがジクジクと止まらない。
傷を治す護符を使ったのに、治まらないのだ。
「こんなに痛いのが続くのは、初めてだな」
あの姫神と出会った瞬間から初めての事ばかりだ。
ーーーー女神の方は、出会った等とは思いもしていないだろうが、あの舞殿で、サジルは出会ったと思ったのだ。
先ず、飾って置きたくなる美しさに目を惹かれた。
あれ程の美貌なら暫くは飽きないだろうと、ちょこまかと動く姫神を視線で追った。
フィリアナとかいう、愚鈍で欲望に忠実過ぎる娘は、世を引っ掻き回す為の駒としては良く踊ってくれたが、鼻で嗤えるお粗末な振りだった。
利用価値がなければ、とっくに捨てていただろう。
折角与えられたお宝も使い方が雑で、無様さを笑うのにも、あの娘にも飽きてきた時だった。
何らかの手は打ってくるとは思っていたが、追い落とされた令嬢と、女神が乗り込んで来た事に、気が変わった。
ーーーー面白くなりそうだ、と。
神のくせして人間の様にあくせく動き、汗をかく。
真剣な眼差しは、市井に生きる人々によく見られるそれで、如何にも人間臭い。
何故ああも懸命になれるのか、サジルには疑問だった。
神なのだから、気に入らなければ滅してしまえば済むだろうに。
制約があるとは聞くが、神のものを盗んだのだから、相応だと思うが何故それをしないのか。
無駄な手間を掛ける女神に、興味が湧いた。
あの真剣さが自分に向けられたらさぞかし気分が良いだろうと思う。
ゾクゾクする背筋に、気分が高揚して、手を出した。
もしかすると、あの神が顕現するかも知れないと期待するが、フィリアナご執心の神は姿を見せなかった。
痛手を追う羽目に陥ったものの、あの紫水晶の瞳が見られたのだ。
ーーーー今日は間近で、僕をその瞳に写して、見た。
どんな感情であったとしても、自分だけに向けられた心はなんと甘く感じられる事か。
「この傷もお姫様に付けられたものだったなら、治らなくても良いのに」
一瞬で迸った、女神を守る凄まじい力。
サジルの結界など稚技に等しい。
正直、死ぬかと思ったのだ。
「嫉妬深い男が相手なのは嫌だなぁ」
諦める事をしない男の心は、重くて強い。
サジルは、ふとシャークを思い出した。
優しいが気の弱い伯父を。
ーーーー何度でも、説得しに行くよ。
大人しくて、優しいだけが取り柄の、誰にも相手にされずに王宮で本ばかり読んでいたクセに。
けんもホロロに追い返されても、石を投げられても、国が立ち退きを要求している山間の村に、何度も何度も足を運んでいた。
聞く耳を持たぬ、学も無い少数の民。
学が無い故に、説明されてもあの村の場所がいかに危険かが分からないのだ。
民を守る為だ。軍を差し向ければ済む話なのに。
実際、ラウゼン二世もそうしようとしていた。
だがシャークはそれを押し留めて、ギリギリまで続けさせて欲しいと言い切ったのだ。
気の弱いシャークの情けない眼差しが、サジルの瞼に浮かんで離れなかった。
「ただいま、僕のお姫様。良い子にしていたかい?」
サジルは用意しておいた髪紐を土産だと言って、フィリアナに渡す。
この顔が好みと言うだけあって、うっとりと見上げてくる。
「ええ、ちゃんと出来たわ。ここからだって見えるでしょう?緑の木々が。村人がとっても喜んでいるの。病気も治したわ。教えてもらった通りに、あの天秤を使って」
わざとらしくも煌めかしい瞳は紫に染まり、真っ直ぐで黒い髪は滝の様に膝の下まで流れている。
ーーーーああ、なる程。
本物を間近で見た後では違いは明らかで、似ていないのが分かる。
甘えて寄り掛かってくるフィリアナの額に褒美だと口付けると、サッと身を離す。
「でも、村の男の一人が、精霊が怒ってるって騒いでるのよ。ここは危険な土地だからとか?なんとかって。ねぇ、大丈夫なの?」
平気さ、と言って奥の部屋に下がる。
少し休むからと言って、鍵を掛けた。
フィリアナのギフトは便利だ。今少しは我慢して、利用すべきだと分かってはいても、飽きた玩具は面白くない。
窓の外は、禿げた土地に青々とした緑の木々が生い茂っていた。
フィリアナのギフトで【変換】しただけなので、魔力を含んだ鉱石が眠るこの土地では直ぐに枯れていくだろう。
ここの鉱石には、魔毒が含まれているからだ。
だが、時間的には充分だ。
彼らの信仰心が、かの堕ちた神に、どう影響するのかが分かれば良いのだから。
遊び場はここだけでは無いのだし。
「僅かな、上っ面だけとはいえ、禿げた土地が突然森の中に現れたら精霊も怒るだろうよ」
サジルは青く輝く花を取り出す。
花弁が一枚欠けているも、美しい。
「早く来てくれないかな、本物のお姫様」
花弁の一枚に唇を触れさせる。
冷たい花弁がぬくもりを灯した気がして、サジルはゆっくりと瞳を閉じた。
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