序 花冠の乙女

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 序 花冠の乙女

この世界ーーー創世神の名を冠してヴァステールと呼ばれるーーーでは、五年に一度各国から選ばれた乙女達が、大神殿で舞を競う。 吟遊詩人に最も多く歌われる『花冠の乙女』。それは、どの国々でも乙女達に語り継がれるお伽噺。 清き聖霊に愛されし花冠の乙女と歌い始まる物語は、少女に甘い夢を贈る。 国によって物語の内容が異なるのは、真心を捧げられた乙女が恋を胸に灯し、結ばれる若者。 どの恋を辿っても、苦難や葛藤は有り、時に切なさに涙を流す。 いずれもそれらを乗り越え、幸福で物語は結ばれる。 吟遊詩人が竪琴を爪弾く。 子守唄の様にゆったりとした旋律で奏でられる優しい音。 朗々と響く声が、それは一人の少女の願いから始まったと歌う。 ーーー母様(かかさま)の病が良くなりますようにと。 ーーー婆様の膝が治りますようにと。 ーーー兄様(あにさま)が狩りで怪我をしませんように。 ーーー父様(ととさま)が早く出稼ぎから帰って来られますように。 それは、家族思いの少女の祈り。 瞬く星に、穏やかに輝く月に、夜毎祈る少女が始まりだったと吟遊詩人は歌う。 その日は朝から村のあちらこちらで、フワフワと浮ついた雰囲気が、芽を出していた。 特に、ここ数ヶ月は、ピリピリとした空気が村を覆っていた為に、少女は訝しげに周りを見渡す。 昨日までの大人達の話題と言えば、瘴気に汚されているらしい泉や、浄化が間に合わず育ちの悪い作物、ついには泉の周りの木々が枯れはじめたなどの、あまり良くないことだったから。 歩きながら、何気なく聞き耳を立てれば、少女が家を出る時、年の離れた兄に言われた事と同じ『昼の鐘がなったら帰って来る事』を、村の子供達が家の前で言い聞かされている。 不思議に思うも、少女は村に程近い森に入り、薬草や木の実ーーー森の恵みを籠の中ほどまで入れると、溜息混じりに、昼の鐘がなる頃帰宅した。 少し早い夕食の後、いつもなら穏やかに過す家族の団欒も早々に、寝かしつけられてしまった少女は不意に目を覚ます。笛の音が聞こえた気がしたのだ。 真っ暗な部屋に、何時もなら部屋中に響く兄の鼾が聞こえず、心細さに次いで、恐怖がにじり寄る。 シーツを頭から被りギュッと目を閉じれば、ドクドクと心臓の音がうるさい。 落ち着こうと深呼吸をしたその時、また笛の音が少女の耳に届いた。楽しげに、軽やかに。 子供にとっては恐ろしい闇も、好奇心には勝てず、少女はシーツを被ったまま、兄に作ってもらった木彫りの熊を腕に抱き、軋む木窓をそっと開けた。 音色が風に運ばれ髪を揺らす。 遠目にも闇夜に輝く松明の灯りとざわめく気配。 コクリ、と喉が鳴った。 空で瞬いている星が、朝の訪れがまだ遠いことを示している。 早鐘の様に忙しない心音が、期待と不安を混ぜていく。 少しだけなら。でも抜け出した事を知られてしまったら? ーーーでも、やっぱり。ああ、でも。 木窓に手を掛けて、締めるか開けるのか。 シャン、と鈴の音が聞こえた時、少女の足は誘われた様に、外へ踏み出していた。 少女は、村の中央にある広場の隅にこっそりと隠れる。高く積み上げられた木材が煌々と燃えていて、広場の隅にある松明が寂しく見えた。それを囲む様に男達が座り、手を鳴らしたり、酒を呷ったりと様々だ。 ただ、男達の視線は皆同じ方を向いている。 火の周りをくるりと回りながら踊る女。肌の露出もあらわに舞う。一人が舞終われば、また一人と順々に男と何処かへ消えて行く。 また一人の女が出てきた。その女は長い布を腕に纏わせ、消えて行った女達とは違う舞を見せた。笛の奏でる旋律がゆったりしたものになる。 白い繊手が優雅に闇を切り裂く。布地の切れ目から振り上げられた脚は、優美に弧を描き、踝よりも長い衣装が鳥の羽のように軽やかに広がる。 ーーーシャラン、シャラン 細い手首が翻る度に、領巾がたおやかに宙 を漂い、あるいは燃え盛る火を鞭打つ。 領巾に打たれた炎が火の粉を綺羅と散らし、闇を祓う。 白く浮かび上がる肢体が緩やかに、時に激しく空気を震わす。 ーーーなんて綺麗。 息も忘れて魅入った少女は知らなかった。 舞い踊る女のシャラ、と微かに鳴る、手首に付けられらた鑑札の意味を。 ただ少女には、長い領巾の先に付けた鈴の音が空気を洗うのを感じた。 伸びやかに跳躍しては優雅に回り、におい立つように花を咲かせる。 しなやかに舞う領巾が炎を撫で、反す手首で勢い良く火を弾く。 女の舞は、少女には恐ろしい筈の闇を、そう、何か良くないモノを、その美しい舞で祓っているように思えたのだ。 夢心地のまま、気が付くと簡素な自分の寝台に腰を掛けていた。 一体どうやって家路についたのだろうか。 土で汚れた足が、これが夢では無いと少女に示している。 まだ夜明け前ーーー興奮で眠れなかった少女は、紫金色の夜と朝の狭間で、目に焼き付いた姿を真似て、祈りながら舞う。古びたシーツの両端を結び、胡桃の殻で作った、ドアの呼子を鈴の代わりに付けて。 ーーーカラコロン、カラカラン 布に擦れる胡桃は、響かず掠れてあまりいい音を出さなかったけれども。 少女は願いながら踊った。シーツをはためかせて。 ふと、楽しげに笑う声が聞こえた気がして振り向くと、そこにはいつの間に居たのか、とても美しい、長い髪も艷やかに揺らした少女が、顔を出し始めた朝日を浴びてそこに立っていた。 「凄く上手ね、とても美しいわ。妖精もとても喜んでいるし」 少女は突然の事に思考も身体も動かない。のに、突然現れた息を飲む程に美しい少女は、思考を読んだように事も無げに話す。 「ふふふ、あなたの周りにいるわ。そう、見えないのね?でも大丈夫、妖精はあなたの事が大好きよ。元気をくれたって言っているわ。それから、花冠を髪に飾って踊ったらもっと素敵、ですって」 花なんて枯れかけた庭の何処に、と言おうとした少女の足元に白い花が咲く。それは、みるみる間に増えて、色も花の種類も様々になっていく。 ファサっと軽い音が頭上でしたかと思ったら、小さな光の粒が次々と現れた。 甘い花の香りが髪に降る。 贈り物だよ、と小さく聞こえた。 「あなたのお名前は?」 小さく呟いた名前に、不思議な美しい少女は、一瞬目を丸くして後に微笑んだ。 花冠をもらった少女は、光の粒ーーーおそらくはこれが妖精だろうーーーに、促される様に舞を再開したが、ほんの一瞬、目を離した隙に、そこにいた筈の存在は、気配の残滓すら無く、消えていた。 まるで幻のように。 花舞う庭の存在が村の神官に知られ、少女の舞が、瘴気の浄化をし、弱った妖精や精霊に力を与える効果が認められると、村の泉の浄化を期に少女の噂は国中に広まっていく。 そして、神殿を通して、少女は王子と共に浄化の旅に出る事となるのだ。 神殿からの依頼で、しばしば国境を跨いだ為に、乙女の逸話は世界各国に残る。 やがて少女は花冠の乙女と呼ばれ、舞は広く伝えられ、歳月と共にそれは儀式となっていく。 国々で語り継がれる花冠の乙女のロマンスに、少女達の甘い期待もそっと添えられて。 未婚の乙女なら誰しも一度は夢に見る。妖精や精霊と共に神に仕え、真心を捧げてくれた麗しい騎士が王子が、月明かりの下で愛を誓ってくれる。 それは蜜菓子のように綺羅めいて、砂糖菓子の様に直ぐに溶けてしまう、お伽噺。 それでも。いつの時代も少女達の夢は変わらずそこにあった。 謎多き乙女の綺譚。 ーーーどの詩が真実なのか。乙女は誰と恋に落ちたのか。神殿は沈黙する。 ただ、事実、花冠の乙女は存在した。 大神殿の長、長寿のエルフである大神官は言う。 「真実はフィアリスの白き花の元に」
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