魅惑の箱

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……来た。 俺は知らぬふりをしてノートパソコンの画面に集中する。 手を出さない。声をかけない。目を合わせない。それが基本三原則だ。 在宅勤務とはいえ、今は仕事中である。ニューノーマルだか何だか知らないが、満員電車に乗らなくても日々の仕事がこなせるようになったのは、大いに喜ばしい変化だ。おかげで口うるさい上司と顔を合わせる機会も減ったし、毎日の昼メシ代も浮く。だが……  ――にゃあ 不意に足元が温もりに包まれた。だが甘く誘う声にも耳を貸さない。ここで挫けたら敗北だ。  ――んなぁぁぁ どうやら俺がまるっきり反応しないのがお気に召さないようだ。仕方ないだろう、俺は仕事中なんだよ。おまえのメシ代を稼がなきゃいけないんだ。 ふいに足元が軽くなった。もわっと温かかった足先が、唐突にエアコンの冷気にふれてひやりとする。だが今度は毛並みと体温以上の圧が、俺の真横からじわじわと這い上がってきた。この“必殺かまえ光線”に搦めとられたらおしまいだ。俺はさっきの心得をもう一度思い出す。目を合わせてはいけない。合わせては…… 「うわあっ」 次の瞬間、キジトラの毛毬が画面の前にぐいっと割り込み、俺の両手ごとキーボードにぼふんと着座した。途端に意味不明な文字が画面いっぱいに踊る。 「タマ!まったくおまえはいつも……」 何とかヤツをどかそうと試みるが、しつこく戻っては画面の前に陣取り、何としても邪魔をする。飼い主の意識が自分に向いていないことが、とにかく気に入らないのだ。どうやら俺以上にヤツの方が在宅勤務を歓迎しているようだった。 ちっとも仕事が進まない状況に業を煮やしてネットで検索してみると、飼い猫に仕事を妨害されている同志は意外に多いらしい。画面には愚痴だか惚気だか判らない画像が、これでもかとばかりに溢れている。 どこも同じかと諦め気分で画面を見ていた俺は、その中で挙がっていたある猫よけ法に目を留めた。何でもパソコンの横に箱を置くと、猫が面白いぐらい見事にその中へ入ってご満悦になるらしい。その結果、仕事も邪魔されずにすむという按配だ。一見単純だが、狭いところを好む猫の性質を利用した画期的な方法だった。 さっそく押し入れを漁ってみると、少し前に実家の母親が送ってきたメロンの空き箱が見つかった。高級そうなメロンの写真が印刷された白い箱だ。 「ぴったりだ!」 俺は部屋に戻るとその箱をパソコンの横に置いて、素知らぬふりで仕事を始めた。横に置いた箱からは、微かに甘いメロンの香りが漂ってくる。 やがて普段どおり、ドアの隙間からヤツが入ってきた。背後からじっと俺の背中を眺めつつ、じわじわと距離を縮めてくる。足音もしないのに、なぜか気配が判るから不思議なものだ。 だが今日のヤツは明らかに挙動不審だった。部屋の中のいつもと違う何かが、気になって仕方ないらしい。しばらくすると、ヤツはいつものようにひらりと机に飛び乗った。だが今日は割り込みもせず、ノートパソコン蓋閉じアタックも敢行しない。ただひたすら、机の上に置かれたメロンの箱をしげしげと見つめている。 次第にヤツはじりじりと間合いを詰めると、箱に鼻を近づけてふんふんと匂いを嗅いだ。そしてその小さな頭を突っ込んだかと思うと、箱を倒さんばかりの勢いでずぼりと中に入り込む。 「入った!おい、ほんとに入ったよ!」 思わず手を止めてじっと見ていると、狭い箱の中でヤツはもぞもぞと体を馴染ませ、やがてちんまりと収まった。がっちりと角ばったメロンの箱から満足げな顔を覗かせているヤツの姿は、なかなか見応えがある。 どうやら相当気に入ったのか、ヤツはその箱からまったく動かなかった。指先でちょいちょいと撫でたり、果てはヤツの大好きなおもちゃを鼻先でチラつかせてみても、完全無視を決め込んで箱ともっちり一体化している。ネットの噂は本当だったのだ。 おかげでその日の仕事はかつてなく捗り、俺は上機嫌で画面に没頭した。
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