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最初の勝利
年が明けて、私は結婚指輪を外した。
そのままいつもの通り通勤電車に揺られて、オフィスに向かう。
当たり前だが一人で食っていかなければ。
だから仕事に手を抜くことはあり得ない。
私の仕事は営業部隊を支える何でも屋ポジション。
技術的な話ならエンジニアにもなり現場設計の大まかな内容をデザインして提案内容を考え、契約の話なら法務に突っ込まれないような契約書を準備する。
電話で営業からの質問にも懇切丁寧に説明したり、客先に出かけて営業と一緒に提案して作ってきた見積もりも出す。
客が外資系なら、英語で対応することもままある。英語はあまり喋れないけど、ビジネスメールくらいなら、まぁ。
でも一番面倒くさいのは連絡会議という名のくだらない社内調整。経緯など何も知らない人間たちが集まってグダグダ突っ込まれる。
しかし決裁を通すには必須という何ともスピード感のない組織。
スピード感なさすぎで、営業から他社に取られました、と報告されることは何度もあった。我が組織のせいで申し訳ないというと、うちもそうですから分かります…と営業の悲哀が伝わってくる。
こんなふうに自分の仕事にはそれなりにたくさんの理不尽はある。何でも屋だから忙しくもある。
だけど私は一人で食っていかなければ暮らしていけない。
なのに数日後、なぜか暇な奴らが
「真岡さん、指輪外してるよ…」
と噂しているのが、どこからともなく聞こえてきた。
──私が指輪を外そうが、関係ねーだろが?!
くだらない噂話してるなら、仕事しているフリはやめたまえと言いたいくらいだが、相手にするのもくだらなすぎて、完全に無視していた。
ところが総務から私宛に電話がかかってきた。いつも決裁でお世話になってる人だった。
「あのー、真岡さんの出張の旅費が振り込めなくてですね…」
…え?手続きは全部したはず。
「給与口座とは違う手続きなんで」
やってしまった。
ツギハギだらけのシステム過ぎて、どこでどう手続きしていいか分からなかった、唯一出来なかった別口座の氏名変更手続き。
こんなシステムさっさと更改しろや!会社よ!と叫びたいのをグッと抑えて、落ち着いて対応した。
「実は名字が真岡になりまして」「え?」
明らかに困惑する相手。本当に申し訳ない。
旧姓利用なるものをしていたからこそ起きた混乱なのである。
「…真岡さんに戻ったということですか?」
「はい、そうです。申し訳ございません」
「…そうですか。こちらで直しておきますんで」
「本当にすみません。よろしくお願いします」
明らかに聞いてはいけないことを聞いてしまったという相手の気まずさが伝わってきた。
いつもお世話になってるだけに本当に申し訳ない。
しかしこの電話を聞いていた暇人のせいで、私の離婚は明確に広まった。
「なんで離婚したんですか」と不躾に聞いてくる輩まで現れた。
「そうですねー、性格の不一致ですね」
営業スマイルで答え続けて、やがて噂なんて消えていった。
離婚してさぞかし不幸な人間だと哀れんでいるだろう。
しかし私の離婚は、我ら"離婚共同戦線同盟"にとっては最初の勝利なのだ。
それを知る者はここには誰もいない。
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