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「卒業祝いとかですか?京帝美術大学の」 俺は何食わぬ顔で質問をしてみる。 憂に父親はいないし、母親は憂に卒業祝いを贈るような人間ではない。 憂は困ったように少しだけ微笑み、もう一度時計に視線を落とした。 「もっと前から着けてるのでーーー違うと思います。 きっと自分で…気に入って買ったんじゃないかな」 憂の返答の歯切れの悪さに、俺は歯痒い気持ちになる。きっと自分で、ってなんだよ。 そんなに気に入って10年以上も使うくらいならーーー普通覚えてるだろ。 「というか私、京美大に在籍はしてたんですけどーーー卒業はしてないんですよ」 突然言われ、俺はあまりにも衝撃的な言葉に、顔をこわばらせた。 幸いそうした自分に自分で直ぐに気が付き、慌ててこわばらせた顔に驚いたような笑みを貼り付ける。 目を疑問を問うように大きくして見せながら、憂の言葉を頭のなかで繰り返す。 卒業してないーーーー? 「平さんがエッジハウスでバイトしてた私を見かけてたのはーーー多分大学3年生の頃までだと思います。 3年生の冬に…私交通事故に遭ってしまって… 珍しく雪が降った日で…スリップした車に跳ね飛ばされたんです。 それでしばらく入院して…そのまま退学してしまってーーー なんならその時頭を強く打った衝撃でーーー所々…在学中の記憶が無くって」 憂はそこまで話すとまた困ったように微笑んで見せた。笑って、一気にあどけない印象の顔になった憂を前に、俺は必死に返す言葉を探す。 所々ーーー在学中の記憶も無いーーーー… それは俺と過ごした日々もーーーその事故で綺麗さっぱり忘れてしまっているという事か。 「大変だったんですね…… …記憶を無くすなんて……中々無いと思いますけどーーー」 「私を撥ねた車ーーー道路が凍っててブレーキが効かなかったらしくて… 60キロの車にぶつかるのってビルの4、5階から落ちたくらいの衝撃みたいなので、それでーーー」 身振り手振りを加えながら話す憂を見て、そういう事だったのかと納得する。 という事は憂が俺の前から消えたのはーーー俺に愛想を尽かしたわけでも、俺を嫌いになったわけでも、他に好きな男が出来たからでもなくてーーーー 事故の衝撃により俺という存在そのものを忘れてしまったからという事だろうか。
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