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第一部 10
昭和五十二年
聞いていた通り、四月から紘一さんがマサさんの仕事を手伝うようになったようです。でも、すぐには何も変わりません。四月末も、五月末も、やっぱり生活費には足らない程度しかもらえませんでした。もうしばらく我慢するしかありません、良くなると信じて。
六月に入って最初の月曜日、喫茶すみれでママとお昼を食べ終えた頃サキちゃんが来ました。ここでアルバイトをさせてもらうようになってから私が日中家にいないので、サキちゃんは時々お店に来てくれます。でも結構久しぶりでした、一か月以上、二か月くらい会っていなかったかも。
カウンターに座ったサキちゃんにミックスジュースを出して隣に座りました。店内には常連の方が一人だけの暇な時間だったから。そして最近はそう言う暇な時間はママもいません。私にお店を任せて二階の自宅に行ってしまうから。
「ほんとに久しぶりだね」
座ってからそう話し掛けました。
「うん、ちょっといろいろあったからね」
サキちゃんはそう言ってストローを咥えます。いろいろ、紘一さんの仕事が変わったから? そう思ったので聞きました。
「ひょっとして、紘一さんのことで?」
「えっ、なんでコウちゃん?」
「紘一さん、マサさんの仕事手伝うようになったでしょ?」
「ああ、なんか大変みたいね」
サキちゃんはそう言うとまた一口飲みます。そして続けました。
「でも、マサさんとは仲良かったから、本人は喜んでるみたいだよ」
「そうなんだ」
なんだかそう聞くと安心しました。
「だったら何があったの?」
もう一度聞きました。
「えっ?」
「いろいろあったって言ったでしょ?」
「ああ、それね」
また一口飲みます。そして、
「私ね、いつまでもホステスやってらんないなって思って、お店辞めようかと思ったの」
と、言いました。
「えっ?」
「私だってそろそろ一人ぐらい産みたいなって思うんだけど、お水の身ではなんかね……」
「……」
「だからここんとこ仕事探してたんだ、昼間の」
それで全然会いに来てくれなかったんだ。そして、サキちゃんも子供が欲しいって思ってたんだ。
「そうだったんだ。で、見つかった?」
「えへへ、全然ダメ」
「そうなんだ」
「高校中退の中卒。で、ずっとお水。そんな履歴書、まともに見てももらえない。家族のこと聞かれても、全員、居場所すら分かんないから何も答えられないし」
やっぱり私達って、普通、を求めたらそう言うことになっちゃうんだ。私は幸せなんだ。と思いながら聞きました。
「全員って、お父さんは?」
「知らない」
「えっ?」
「私ね、たまーに、昔住んでたとこ見に行ってたの。でね、何年前かな? 見に行ったら、知らない人が住んでた」
「そうなんだ」
「うん、だから、どっか引っ越したのか、死んだのか、それも分かんない」
「……」
「まあ、引っ越すようなお金もあてもなかっただろうから、死んじゃったんだろうね」
サキちゃんはそう言ってストローを咥えます。さすがになんだか寂しい目をしてる。
「で、どうするの?」
少ししてからそう聞きました。
「うん? ああ、やめた、疲れたから」
「えっ?」
「お店辞めるのをやめた」
「そっか。……子供はいいの?」
「えっ? ああ、まあよくよく考えたら、ホステスやりながら子供作った子もいるしね」
と、私の顔を覗き込むようにそう言うサキちゃん。
「ま、そだね」
そう言って私はサキちゃんに出したお水を飲みました。
「まあ、授かる時には授かるでしょ、神様がその気になってくれれば」
「……」
「私にはまだ早いって思われてんだろね」
サキちゃんはそう言うとまたミックスジュースを飲みます。神様は、私にはあの時がいいと思って恵子を授けてくれたのかな。授けてくれた時期が本当にいい時期だったのかどうかはどうでもいいけど、恵子を授けてくださったことには感謝しかないです。ありがとうございました。
サキちゃんとその後もおしゃべりしていたら、ママが二階から降りてくる音が聞こえました。と言うことはそろそろ三時。恵子が帰って来て、私が帰る時間。そしてママも一緒におしゃべりしているうちに恵子が帰ってきました。
お店の扉を開けて入って来た恵子がそのまま私の所に駆け寄ってきます。いつもは扉を開けたらすぐに、ただいま、と言うのに。それに、なんだか顔が少し赤いような気がする。どうしたんだろう、と思っていたら、
「お父さんってヤクザなの?」
と、言い出します。何言ってんの、と、驚く間もなく、
「違うよね、怖くないから違うよね」
と、続ける恵子。ほんとに何があったんだろう。
私、サキちゃん、ママ、の大人三人は、恵子から出た言葉に顔を見合わせました。ちなみに、アルバイトをさせてもらう時に、ママには主人の勤め先がどういうところか話してあります。後から知られて気まずくなるのが嫌だったからはっきり、ヤクザ、だと告げてあります。
私はしゃがんで恵子と顔を合わせました。
「どうしたの、何かあったの?」
そして尋ねました。何かあったんだろうけど、詳しく聞かないと何も分からない。
「カッ君がお父さんはコワイ人だって」
「ケイちゃんのお父さんはコワイ人って、カッ君が言ったの?」
「うん」
カッ君と言うのは近所と言えば近所の子。幼稚園に入る前からの恵子のお友達。家の裏の公園ではなく、買い物に行くスーパーのすぐ近くの公園で出会った子です。裏の公園は遊具がほとんどないけれど、そこはたくさんあるので恵子は気に入ってます。そう言えばそう何度もないけれど、マサさんも一緒に買い物に行くと、マサさんはスーパーに入らず、恵子とその公園で遊んでいることが多かった。その時にカッ君はマサさんを見たのかな。
「なんでカッ君はそんなこと言ったの?」
「ヤクザだからって」
「なんでそんなこと言うんだろ?」
「手に絵があったからだって、カッ君のお母さんがそう言ったんだって」
「……」
マサさんの腕には肘の少し先まで墨が入っている。やめてって言ってるんだけど、マサさんは夏場に時々半袖で出歩いちゃう。長袖でも袖をまくると肘から少し見えてしまう。あの公園に行った時もそういう格好をしていたことがあったかも。
「でね、ヤクザはコワイ人だって言うから、お父さんは怖くないって言ったの。怖くないからヤクザじゃないって言ったの。でもヤクザの子だって言うの」
「……」
私は言葉が出ませんでした。これは恐れていたこと、いつかこういうことが起こるかもと恐れていたこと。でも、いざ起こった時どうするかなんて考えてなかった。
「ねえ、ヤクザって何?」
恵子がそう聞いてきます。うちではヤクザなんて言葉、使ったことがない。ひょっとしたら恵子は初めて聞いた言葉かも。
「ん? まあ、それは気にしなくていいよ」
「でも……」
「その前に、何でそういうことになったの?」
ごまかしました。父親がヤクザだなんて、恵子にはまだ言いたくなかったから。だって、恵子の前ではほんとにただの父親だから、優しい父親だから。
「ユウ君が叩いたから」
ユウ君って誰? 新しいお友達かな?
「ユウ君は誰を叩いたの?」
「ケーちゃん」
「なんでユウ君はケイちゃんを叩いたの?」
「ケーちゃんが叩いたから」
「恵子はなんでユウ君を叩いたの」
「おひさまを赤くしたから」
う~ん、全然分かんない。一つ一つ聞いていくしかないかな。
「お日様?」
「うん」
「何のお日様?」
「お絵かきのおひさま」
「……、今日はお絵描きしたの?」
「うん、お昼寝のあと」
「そっか、それでケイちゃんはお日様の絵を描いたんだ」
「ううん、おうちの絵をかいたの」
「そう」
「お空を青くしてね、ケーちゃんは白いおひさまかいたの。だって、今日のおひさまは白かったから」
幼稚園のお庭で、幼稚園から見える家の絵でも描いたのかな?
「そのお日様を赤くされたの?」
「うん、おしまいのときにね、ユウ君がケーちゃんのおひさま変だって。おひさまは赤だって」
「それでユウ君がケイちゃんのお日様を赤くしちゃったんだ」
「ううん、しなかった」
あれ、赤くされたんじゃなかったっけ?
「……、じゃあ、誰がケイちゃんのお日様を赤くしたの?」
「ユウ君」
「……」
わ、分かんない。
「おしまいの時じゃなくてね、帰る時にユウ君が赤くしちゃったの」
そう言うことか。お遊戯室の壁にでも貼り出された絵に、ユウ君が帰る間際にでも手を付けたのでしょう。
「だからね、赤じゃないってユウ君叩いたの」
「……」
「そしたらね、ユウ君もケーちゃんを叩いたの」
「そっか、でも、人を叩いたらダメって言ってるでしょ。ダメじゃない」
「ごめんなさい」
俯いてそう言う恵子を見たら、それ以上聞きたくなくなりました。でもまだ肝心のことが分からない。
「で、その後どうなったの?」
「カッ君がやめろって言ったの」
カッ君が止めに入ったんだ、えらいじゃない。と思っていたら恵子がこう言います。
「ケーちゃんのお父さんはヤクザだから怖いぞって」
……、そう言う意味でユウ君を止めただけだったんだ。
やっと最初の話につながりました。そのあと恵子から聞き出した内容だと、幸いと言うかなんというか、その時お遊戯室に残っていたのはその三人と、年少組の時から恵子と仲のいいエミちゃんの四人だけ。いきなり大勢の耳に、ヤクザ、という言葉が入ったわけではなさそう。でも一度出たからには時間の問題かも。これからの恵子の幼稚園生活が心配になって憂鬱な気分です。
憂鬱な気分になったのは杞憂だったかなって感じで数日過ぎました。翌日以降はいつも通りの恵子だったから。それとなく今まで以上に幼稚園でのことを聞き出しましたが、嫌なことを言われた様子はありませんでした。そして迎えた金曜日、三時を過ぎても恵子は喫茶すみれに戻って来ませんでした。
お友達や保母さんと話し込んで、時々三時半くらいまで戻って来ないことはありました。そう思って待っていたけれど、四十分になっても戻って来ません。そろそろ迎えに行こうか、と思った頃、戻ってきました、保母さんと一緒に。
恵子は俯いていて元気がないけれどそれだけ、何ともなさそう。でも何があったんだろうと思っていたら、保母さんの口から説明がありました。恵子が粘土の箱でカッ君を叩いたと。
言い辛そうに話す保母さんによると、帰り間際にカッ君と恵子が口論していたとのこと、ヤクザだ、ヤクザじゃない、と。そして、手での叩き合いのすえ、突き飛ばされた恵子が粘土の箱でカッ君を叩いたようです。カッ君は頭にコブが出来たとのこと。
そして告げられました。明日のお昼のお迎えの時、カッ君の親御さんと共に面談したいと。
ブラウスは白だけど、明るいお日様の下だと紫にも見える紺のスーツを着ました。膝丈のタイトスカートはどうってことないけど、上着はおとなしいとは言えないデザインのスーツ。もう少しフォーマル系のスーツもあったけど、それを選びました。ヤクザの家だと決めてかかっているカッ君のお母さん(保母さんの話によると)。そう思われているならそう言う格好をしてやろう、そんな気がありました。なので化粧も濃い目。ちょっと時間は早いけど、黒革のハンドバックを持って玄関に。そして長いこと履いていない細いヒールの靴を磨いていました。その時、恵子の小さな靴が目に入る。ヒールを磨いていた手が止まった。
気付くと、いつものポロシャツとジーンズ姿に着替えている。身に着けたアクセサリーも全て外し、慌てて化粧も落とす。着替えたポロシャツが濡れちゃったけどもう時間がない。いつもの靴を履いて家を飛び出しました。
何考えてるの、私まで腹を立ててどうすんの。父親のことで恵子を悪く言う、そんなカッ君にも、カッ君にそんなことを言ったその親にも腹が立つけど、それはそれ。そんな怒りを私がぶつけても何にもならない。恵子のためにならない。
ほんとは向こうの親を引っ叩いてやりたいくらい怒ってる。でもそんなことは出来ない。恵子のために出来ない。どんなに腹が立っても人を叩いたらダメ、傷付けたらダメ、昨日そう言って恵子を叱ったばかり。その私がそんなこと絶対にしてはいけない。
とにかく今日は謝るんだ。娘が傷付けた男の子に、その親に、謝るんだ。謝って謝って、許してもらうんだ。ただただ下から下から接するんだ。どんなに惨めな思いになっても心の中で舌を出してればいい。そして、うちは怖い家なんかじゃない、か弱い家なんだと、普通の家より弱い家なんだと思ってもらえばいいんだ。恵子の前でそんな姿は見せたくないけど、ヤクザだと恐れられるよりその方がいい。そんなことを考えながら走って向かいました。
夏が近い季節。幼稚園のすこし手前で汗を拭いたタオル地のハンカチは、絞れば水が滴りそう。少しだけ息を整えてから幼稚園へ。門の周りにはお迎えの保護者がいっぱいいる。その外側で、みんなが帰っていくのを見ていました。
大方の園児が帰った後、園門に近付くと、
「香取さん、入ってください」
と、保母さんから声を掛けられました。返事をして門を入ると、
「勝彦君のご両親はもう見えてますから」
と、保母さんが耳打ちしてくれます。カッ君の名前は、池田勝彦。向こうは両親揃って来てるんだ。少し緊張。でも、マサさんを連れて来るわけにはいかない。
月曜日の時はマサさんには何も話しませんでした。でも昨日は話しました。恵子がお友達に怪我させて呼び出された、なんてことになった以上話さないわけにはいきませんでした。マサさんは話を聞くと、俺も行くと言い出しました。俺の仕事と恵子は関係ねえだろってハッキリ言ってやる、と。ほんと、マサさんの言う通りなんだけど、マサさんが出て行って、マサさんがそう言うと絶対逆効果。脅された、やっぱりヤクザだ、なんてことを言われかねない。なので、青筋立てて怒っているマサさんには我慢してもらいました。我慢してもらった以上はちゃんと騒ぎを治めなきゃ。ああ、なんだか責任重大、さらに緊張してきました。
靴を脱いで玄関ホールに入るとそこで待つように言われました。すぐに保母さんに連れられて恵子がやってきます。そして案内された部屋、すでに池田さんご夫婦とカッ君が座っていました。
池田さんのご両親はどちらもきっちりしたスーツ姿。そして、どちらもそこらのサラリーマンの月収くらいでは買えない高級品。夜のお店で養った目で見てるんだから間違いない。池田さん家ってお金持ちなの? そう言えば公園で出会った時に奥さんが着ていた服もいいものだった。園門の横に大きな車が停まっていた。たまにマサさんが乗って帰ってくる、会社のアメ車、ってのと同じような高級車。ひょっとして池田さんのところの車?
保母さんが池田さんの向かいに私と恵子に座るように言います。恵子は、ピョンと跳ねるように椅子に座りました。でも私は、
「うちの子がほんとに申し訳ありませんでした」
と、まず頭を下げました。
頭を下げているところに女性が入って来ました、副園長先生でした。なので口を開きかけた池田さんは何も言えませんでした。
「取り敢えずお座りになって」
と、副園長先生が私に言います。それに従って恵子の隣に座りました。
「まず、勝彦君、コブはもう大丈夫ですか?」
副園長先生が池田さんの方にそう尋ねます。
「えっ、ええ、もうどこにも、はい」
池田さんの奥さんが慌ててカッ君の頭を確認しながらそう返します。なんだかどこにコブがあったのかも分かっていないみたいでした。
「それは良かったです」
奥さんの返事を受けて副園長先生がそう言うと、
「なにがいいんですか」
と、ご主人が声を上げます。でもそれを手で制すると、副園長先生は今度は恵子にこう言います。
「恵子ちゃん、人を傷つけるのは悪いことだって分かってる?」
「はい」
頷く恵子。
「じゃあ、昨日も謝ったかもしれないけど、もう一度ちゃんと勝彦君に謝って」
恵子は顔を上げてカッ君を見ました。そして、
「ごめんなさい」
と、ちゃんと頭を下げました。私も一緒に頭を下げました。
副園長先生は、今度はまた池田さん達の方を向いて口を開きます。
「じゃあ次は勝彦君の番、ちゃんと恵子ちゃんに謝って」
でもカッ君が口を開く前にご主人がこう言います。
「なんで勝彦が謝る必要があるんだ」
「勝彦君も恵子ちゃんを叩いたと聞いています。それは謝らないといけないことではないですか?」
副園長先生は穏やかに返します。
「そんなこと、叩かれたら叩き返す、当たり前のことでしょ」
ご主人はそう言います。
「仮にそうだとしても、人を叩くのはいけないことではないですか?」
「なにを、じゃあ叩かれっぱなしでいろって言うんですか。やり返すのは当たり前、どっちに転んでも先に手を出した方が一方的に悪いんだ」
「では、悪いのは勝彦君ってことになりますよ」
「はあ?」
副園長先生は私達をこの部屋に連れて来た保母さんに向かってこう言いました。
「保護者の方が揃っているここで、もう一度昨日のことを説明してくれる?」
「はい」
そう答えると保母さんが話し始めます。
「昨日、帰る時間になってみんなを教室から送り出していました。その時隅の方で勝彦君と恵子ちゃんが口喧嘩を始めたんです。そのうち勝彦君が恵子ちゃんを小突いたり叩いたりし始めました」
ご主人がカッ君を見ます。
「それでその場は止めました。でもちょと目を離した間にまた始めていて、その時は恵子ちゃんもやり返したようで、気付いたら勝彦君が泣いていました」
今度はご主人が恵子を睨みます。
「それで、傍にいたエミちゃんに何があったのか聞いたら、帰ろうとした恵子ちゃんの後ろ髪を勝彦君が引っ張って、その、引き摺りまわした後蹴り倒したようです。それで恵子ちゃんも怒ったみたいで、近くにあった粘土の箱を持って叩き返したようでした」
お互いに叩き合っていた、って聞いた気がするけど、恵子が手を出したのは最後だけなんだ。と思ったけれど、一度でも手を出したらダメ、やっぱり恵子も悪い。こんな幼い子に我慢だけしろって言うのはかわいそうだけど、悪いことは悪いと言わなきゃ。私はそう思いながら聞き終えました。でも目の前のご主人は、
「ほら見ろ、凶器だ、その子は凶器で襲いかかってるんだぞ。それこそヤクザのやり口だ」
と、声を荒げます。
ご主人のセリフが分かっているのか、大きな声に怯えているのか、恵子の身体が小さくなる。こんな話、もう恵子に聞かせたくない。そう思っていたら、
「ちょっと、子供達、教室に連れてって」
と、副園長先生が保母さんに言います。
「なんでだ」
と言うご主人を無視して、さっき説明してくれたのとは違う保母さんが二人を連れ出します。連れ出す時、
「ちゃんと二人の傍についててね」
と、副園長先生は加えて言いました。
子供たちが出て行くと、副園長先生が池田さんご夫婦に向かってこう言います。
「ヤクザと言う言葉、やめてもらえますか?」
「なんでだよ」
すぐに反応するご主人。
「事実だろ、ここの亭主はヤクザだ。この母親だって聞いた話じゃ元は夜の女だ、どんなもんだか分かったもんじゃねえ」
何でそんなことまで知ってるんだろ。それに、私のことまで恵子に影響するの? このご主人がこう言うってことは、そう思う人が他にもいるってこと? 私まで恵子が辛い目に合う原因になるなんて、ほんとに恵子に申し訳ない。こんな親の間に産まれたばっかりに、恵子は何も悪くないのに、関係ないのに。
そんなことを思っていたら副園長先生がこう言います。
「仮にそうであっても、恵子ちゃんには関係のないことですよね」
「関係……」
口を開いたご主人を無視して副園長先生が続けます。
「恵子ちゃんのお父さんのことは、直接は存じ上げません。でも、恵子ちゃんの話を聞いている限りは普通のお父さんです。家にいらっしゃるときは恵子ちゃんと遊んでくれる優しいお父さんのようです。それにお母さんもこれまでのところ、何も問題はない、いいお母さんです。園の行事にも積極的に参加してくださって、お手伝いもしてくれています」
「わ、私がそういうことに参加しないのがいけないって言うんですか?」
奥さんがそう割り込みます。副園長先生はそう言った奥さんの方を見てから続けます。
「そして恵子ちゃん、とてもいい子ですよ。明るく優しくて、ちゃんとみんなと遊べる子です」
「うちの子はそうじゃないと言うんですか」
今度はご主人。
「違います。そう言ったことを言っているのではなく、恵子ちゃんも、そのご両親も、何も問題はないと言ってるんです」
池田さんご夫婦は何も言いませんでした。
「ですので、恵子ちゃんのお父さんの御職業のことで、余計な波風が立つようなことを言わないで頂けますか?」
副園長先生は池田さんご夫婦の方を向いてそう言いました。
「これはご家庭内のことですから私が言うべきことではありませんが、出来れば、勝彦君にもこう言う偏った物の見方は教えないで欲しい、耳に入れないで欲しい、そうお願いしたいです」
「う、うちが勝彦に変なことを教えてるって言うのか」
ご主人がそう返します。すると副園長先生は先程の保母さんに、
「昨日の恵子ちゃんと勝彦君の、最初の口論の内容を話してくれる?」
と、言いました。そう言われた保母さんは少しためらいがちに話し始めます。
「はい。えっとその、勝彦君が恵子ちゃんに、お前いつまで来るんだよ、明日からもう来るなよ、って言ったんです。あっ、そのですね、その、何日か前から勝彦君は恵子ちゃんに同じようなことを言ってて、その度にやめさせてたんですけど昨日もまたそう言い始めて」
保母さんがそう言って終えると、副園長先生がこう言います。
「もっと具体的に、なんと言っていたか分かるように話して」
「えっ、でも……」
そう渋る保母さんに重ねて副園長先生が言います。
「構いません」
すると保母さんはまたためらいがちに続けました。
「分かりました。えっと、勝彦君は恵子ちゃんに、ヤクザの子は来るな、と。その、お父さんから追い出せと言われてると……」
「あいつ」
保母さんの話にご主人の口からそう言葉が漏れました。
「どういうことですか? 池田さん」
副園長先生がご主人に尋ねます。
「どうもこうもない、そのままですよ。ヤクザの子がうちの子と一緒にいるなんて、当然のことですよ」
「でも、先ほど何も問題はないとお話ししましたよね。それでもだめなのですか?」
「あのですね、ヤクザの子ですよ。そんな子がいて問題ないんですか。ここはヤクザの子も平気で置いておくんですか」
「ご両親の御職業がどういうものであれ、園児や園に支障がないと判断されるうちは何も問題はありません」
「な、何言ってんだ、おかしいぞあんた」
また声を荒げるご主人。それに対して副園長先生は、これまでと違って強い口調でこう返します。
「今の状況で申し上げるなら、園にいらぬ騒ぎを起こし掛けている池田さん、お宅の方がよっぽど、園や園児に対して支障があると判断しないといけませんよ」
「な、なにを……」
そう言ってご主人が黙りました、でもすぐにこう言います。
「分かった。ここは名古屋市の施設だ、市の方に抗議させてもらうからな」
「どうぞ」
「あんたらどうなっても知らんからな」
「はい、結構です。ただ、先に申し上げておくと、このことは園長を通じて市の方に相談済みです。そして市からの回答も、先程申し上げたものと同じです。もう一度申しましょうか?」
しばらく副園長先生を睨んでいたご主人。俯いたかと思うと、今度は私を睨んできました。
「うちはヤクザにも車売ってるんだ」
池田さんのご商売は車屋さんなんだ、と分かりました。でも、何を言い出したのかは全く分かりません。
「お宅の亭主がどこの組か知らんが、俺が知ってる組に相談して、タダでは済まさんからな」
睨んだままそう言ってくるけれど、この人何言ってんの、そんなことしたら……、勝手に口が開いていました。
「な、何言ってるんですか」
慌てた顔で何か言おうとした副園長先生より先に、平身低頭に徹しようと思っていたことも忘れて口を開いていました。
「ヤクザ同士で喧嘩させたらどうなるか分かってますか?」
「なにが」
まだ私を睨んだままそう言うご主人。
「こっちもタダでは済みませんよ。うちも、お宅も、それが分かってますか? 覚悟はあるんですか? とことん行くとこまで行かないと終わりませんよ」
実のところ、実際どうなのかなんて私も分かりません。でも怖さは知っている。いえ、知らないけれど感じ取っている。普通の人よりははるかに感じている。だからその怖い力を使ったりしたらどうなるかも感じ取れる。
「な、なに……」
睨みも声量もトーンダウンしてご主人がそう言う。
「だからやめてください。私は池田さんと心中する気はありません」
「し、心中って」
「言いましたよね、どちらもタダで済まないって。ほんとにそうなりますよ。私達大人はどうなってもいい。でも子供だけは守りたい。そんな思いも通じませんよ。お互いに、どちらも。だから、やめてください」
大げさだったかも知れないけれどそう言ってました。実際想像した怖さがそう言わせていたかも。
私の言葉に普通の表情に戻っていたご主人が、また少し勢いよく口を開こうとしました。でも奥さんがご主人の袖を引いて止めます。その奥さんはなんだか少し青ざめている様に見える。顔を見合わせるご夫婦。奥さんが小さく首を振っている。やがてご主人が副園長先生に向かってこう言います。
「分かりました。園長の言うことに従って、子供にはもう何も言わないことにします」
さっきも思ったけど、ご主人は園長先生と副園長先生を間違えているみたい。
「ありがとうございます」
副園長先生がそう言って頭を下げました。
「じゃあ、今日はもうこれでいいですね」
そう言ってご主人が席を立ち、奥さんも腰を上げます。なので私も立ち上がりました。そして、
「あの、うちの恵子が勝彦君を昨日叩いたのは事実ですから、その、本当に申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げました。そして持参した菓子折り、今朝恵子を送って来てから千種の和菓子屋さんまで買いに行った、一個……、まあ、値段はいっか、お饅頭を差し出しました。
「これ、ほんのお詫びです」
そう言葉を添えて。でも、
「結構です」
と、ご主人に断られました。今日一番怖い顔で私を睨みながら。でも、迫力不足、マサさんの普段の顔の方が怖いでしょう。
戸口に一番近かった私から廊下に出ました。廊下の突き当りのお遊戯室の扉が開いていて、恵子と勝彦君が見えました。一緒に積み木で塔を作っている。その二人の様子からは、仲が悪いようには見えませんでした。
玄関で靴を履き終えた時、副園長先生がこう言いました。
「さっきは話が途中で終わっちゃったから言えなかったね。勝彦君、恵子ちゃんにごめんなさいして」
勝彦君はお父さんの顔を見上げてから恵子に頭を下げました、ごめんなさい、と言って。池田さんご夫婦は何も言わない。
「じゃあ恵子も、最後にもう一度ごめんなさいしなさい」
恵子は素直に従って、もう一度勝彦君に謝ってくれました。ごめんね、何度も謝らせて。
なんだかとても疲れた気分での帰り道。恵子と手をつないで歩いていたら、
「しーちゃん」
と、呼ばれました。声の主はサキちゃんではなく、喫茶すみれのママ。サキちゃんがお店で私をそう呼ぶので、ママまでしーちゃんと呼ぶようになりました。嫌じゃないからいいんだけど。そのママ、お店の前にいました、お店はお休みなのに。今日、お昼のお迎えのあと面談だと知っていたので待っててくれたのかな?
「お昼は? まだでしょ、食べてかない?」
振り向いた私にそう言います。そう言えばもう一時を過ぎてるはず、お腹すいた。と思っていたら、
「食べる」
と、私の手を放してママの方に駆けて行く恵子。私もママの所へ行きました。
「いいんですか?」
そう聞くと、
「もちろん。旦那さんは?」
と、尋ねられます。
「主人は来てません」
「そっ、良かった」
そう言いながら恵子に手を引かれてお店に入るママさん。振り返ってこう続けます。
「ケイちゃんの好きな物、って思ってオムライスなの。だから旦那さんがいたら他の物作らないといけないかなって」
やっぱり気を遣って待っててくれたんだ。
「いえ、主人の好みは恵子と一緒ですから」
そう言いながら私もお店に入りました。
オムライスを三人で食べ始めたら、恵子が口紅を塗ったような口を開きます。
「お父さんって、やっぱりヤクザなの?」
どうしよう、と思ったけど、もうあっさりこう答えました。
「そうよ」
「じゃあ、悪い人なの?」
「ううん、悪い人ならお巡りさんに捕まるでしょ」
そう答えると恵子が笑顔でスプーンを口に入れます。うまく返せて良かった。
「じゃあ、ヤクザは悪い人じゃないの?」
そして恵子の次の質問。これはどうしよう、うまい答えが思い浮かばない。すると、
「悪い人が多いと言えば多いかもね」
と、ママが答えてくれる。そして続けてこう言ってくれます。
「ヤクザって言っても色々いるの」
「いろいろ?」
「そう。例えばおばさんはお料理作る仕事でしょ?」
と、自分を指してママがそう言います。
「うん」
「でもお料理作る仕事っていっぱいあるでしょ、レストランでハンバーグ作る人とか、お蕎麦屋さんでお蕎麦作る人、お寿司屋さんでお寿司作る人もいるし、ケーキ屋さんでケーキ作る人もいる。いっぱいいるでしょ?」
「……」
次のオムライスを口に入れたばかりの恵子は頷くだけ。
「でもみんな、お料理作る人でしょ。分かる?」
また頷く恵子。そして口の中のものが減ってからこう言います。
「そっか、ヤクザもいっぱいいるんだ」
「そ、でね、いっぱいいるヤクザの中には悪いことをする人が多いから、ヤクザは怖い人ってみんな思ってるわけ」
「そっか。じゃあお父さんはコワイ人じゃないから悪いヤクザじゃないんだね」
「そうだね」
ママの言葉にまた笑顔でスプーンを口にする恵子。助かった、さすがママさん。ほんとに今の説明でいいのかどうかは分からないけれど、とりあえず、今の恵子にはこれでいい、そう思いました。
しばらくすると恵子がまた口を開きます。
「じゃあお父さんはヤクザだってみんなに言っていいの?」
それはまずい。
「それはダメ」
そう言いました。
「なんで?」
「さっきママが言ってたでしょ、ヤクザは怖いと思ってる人が多いって。だから、ヤクザって聞いたらみんな怖がっちゃうから」
「う~ん」
モグモグしながら難しい顔をする恵子。説明がうまくなかったかな。
「だからそんなこと言ったら恵子も怖い人だと思われちゃうよ」
そう付け足しました。すると何かわかったような顔をする恵子。
「そっか、うんこの人とおんなじだ」
分かってくれたのはいいけど、うんこの人? 食事中よ。
「ノリ君のお父さん、うんこの人なんだって。だからみんなには言わないんだって。ケーちゃんとエミちゃんにだけ教えてくれたの」
ノリ君、初めて聞く名前。でもそれ以上に気になる、食事中だけど。
「うんこの人?」
聞いちゃいました。
「うん、う~んとね、バキューカー乗ってる人」
ああ、そう言うことか。
「バキュームカーね」
「バキュームカー」
繰り返す恵子。
「ノリ君はなんでみんなに言わないの?」
「言うとね、ばっちぃとか、くさいとか言われちゃうんだって。だから言ったらダメなんだって」
いないと困る大切な仕事をされてる家の子でもそんなことがあるんだ。親御さんがそう言っているのか、ノリ君自身がそう思って言っているのか分からないけれど分かる話。悲しくてやるせないけど分かる話。
そう思って黙っていたら恵子が続けて話します。
「エミちゃんもそうだし、じゃあケーちゃんもお父さんのことみんなに言うのやめるね」
ホッとすることを言ってくれたけど、エミちゃんも?
「エミちゃんのお父さんは何してる人?」
また聞いちゃいました。
「お巡りさんだって」
「……」
「お巡りさんの子って言うといじめられるんだって。だからみんなには言わないんだって」
幼稚園からなの? と思いました。夜のお店勤めをしていた時にお客さんから聞いたことがあります。そのお客さんの小学生の子供と同じクラスに警察官の子がいて、いじめられていると。それも先生から。ことあるごとに立たされて、何でもかんでも罰当番とか言ってやらされているとか。私にはよく分からない話だったけど、全国規模の教職員の団体があって、そこは警察とか自衛隊をなぜか目の敵にしている。なのでその団体の影響を強く受けている先生のクラスに、そう言う職業の家の子がいると目の敵にされていじめられるとかって。そして、先生がいじめるものだから、他の子もその子をいじめるようになるとか。エミちゃんのとこってそうだったんだ。娘がそんな目に合わないように小さいうちからそう言い聞かせてるんだろうな。なんだかこれもやるせない話。
「お巡りさんもコワイからかな」
恵子がそう言う。
「かも知れないね」
そうとしか言えませんでした。
食べ終わってからオレンジジュースを飲んでいる恵子をテーブルに残して、ママとカウンターでコーヒーを飲んでいました。
「今回は無事に済みそう?」
ママがそう尋ねてきます。
「はい、多分」
「そう、良かった」
しばらくしてまたママがこう言ってきます。
「でも、これからも何度もあるわよ、きっと」
「そうですね」
そう、今回は始まり。終わりはまだまだ先のこと。これから何度も続くんだ。
「言ってね、出来ることはするから」
ママがそう言ってくれます。
「ありがとうございます」
「一人で抱えるより、私みたいなのにでも預けられるものがあると思ったら楽でしょ」
「はい、でも、私はいいんです、大丈夫ですから。でも、恵子に必要以上の辛い思いを味わわせるかと思うとそれが……、それだけです」
「だから、一緒に抱えましょって。ケイちゃんは私にとっても娘みたなものだから」
「ママ」
「子供出来る前に離婚しちゃったから、ケイちゃんで母親気分を味わわせてよ、もちろん、喜びだけじゃなく、辛さも一緒に」
「ほんとに、ありがとうございます」
ママとそんな話をしていたら、恵子が声を掛けてきました。
「お母さん、これ食べないの?」
その声に恵子の方を見ると、持って行った菓子折りの入った紙袋を指していました。池田さんに受け取ってもらえず、副園長先生に受け取ってもらおうと思ったら、それも丁重にお断りされたもの。
「そっか、食べよっか」
そう言うと笑顔で頷く恵子。箱を開けてママにも一つ渡しました。
「何これ、どこのお饅頭? おいしい」
と、一口食べたママが言います。
「よしみつってところのです」
「千種の? 聞いたことある、高かったでしょ」
やっぱり有名なんだ。大事なところへ持って行く菓子折りなら、と言うお客さんが多かったお店。それを聞いてサキちゃん達と何度か通って全種類食べました。どれも本当においしいお店です。もう少し安ければいいんだけど、お饅頭二つ買うと普通の定食が食べられるくらいします。なのに午前中に行かないと、全て売り切れてしまっているくらいお客さんの多いお店です。今日は全て薄皮粒あんの上用饅頭にしました。私達の中ではこれが一番人気だったから。個人的にはここのわらび餅が一番なんだけど、寒い時期にしか作っていないので今日は買えませんでした。
「ええ、まあ、でも、お詫びの品でしたから」
「そっか。そんなの私が食べちゃってよかった?」
「もちろん、もう不要の品ですから」
「ありがと。でも、さすが高いだけのことはあるわね、ほんとおいしい。……ねえ、もう一個もらえる?」
そう言って、チロっと舌を出すママ。はい、どうぞ、ともう一つ渡すと、
「ケーちゃんももう一つ食べる」
と、恵子も言う。この子ももう食べちゃってる。恵子のオムライスは少な目だったけれど、それでも私の半分ってことはなかった。本当に食べれるの? と思いもするけど、恵子も辛い思いをしただろうから、こうやって笑顔を見せてくれるならいっか。買ったのは六個、ちょうど二つずつだ。恵子にももう一つ渡しました。でも私の二つ目はお持ち帰り。明日の恵子のおやつにしよう。
その後、これから続く、と言う私の不安に反して、恵子の幼稚園生活は特に何事もなく過ぎました。保母さん方は恵子や恵子の周りに格別の注意を払っていてくれたようです。それでも恵子が、ヤクザの子、的なことを言われた時は、私の耳にそのことを入れてくれました。でも、当の恵子からはそんな話は聞こえてこない。全く気にしていないのか、いびり、いじめ、なんてレベルではなく、いじられてる程度に感じているのか。そんな恵子の明るさ、おおらかさもあったのでしょう、夏休みに入る頃には、そんな話を保母さんから聞かされることもなくなりました。
その夏の終わり頃から、我が家の家計は改善しました。マサさんが十分なお金を入れてくれるようになったから。やっと仕事がいい方向に向かったようです。相変わらず何をやっているのか詳しいことは知りませんが。
恵子が卒園する頃には、マサさんからのお金で貯金もそれなりに出来ていました。なのでマサさんにお願いして、その頃売られていた、誰でも撮れる、と言う小さなカメラを買いました。そしてそのカメラを持って行った恵子の卒園式。泣いてばかりいて写真を撮ることなんて忘れていました。わずかに撮った写真も、ピント合わせ不要、となっていたのにぼけた写真ばかり。シャッターを押す私の手が動いていたから。唯一と言っていいまともなものは、園門の前で保母さんに撮っていただいた恵子と二人での写真。これは本当にいい写真でした。きっと私の一生の宝物になります。そして気付きました。思えば今まで恵子の写真なんてなかった。恵子が産まれた時に病院で撮ってもらった、ほんとに生まれたての恵子のものしかない。これからはことあるごとに恵子を写真に残そう、そう思いました。これまでの可愛い姿を残せなかったのは残念だけど。
と言うわけで、小学校の入学式にはカメラマンも兼ねてマサさんを誘いました。
「俺が出てったらまた何か言われるかも知れねえだろ」
と、断られました。スーツ着てしゃべらなきゃいいと思うんだけど。マサさんほどの人はそうはいないと思うけど、怖い顔のお父さんは他にもいると思うし。
そう言って口説き続けた前日の朝、
「明日、紘一行かすからあいつに撮らせろ」
と、マサさんが言い出しました。親子三人で写真撮りたかったのに。と言うわけで、紘一さんと恵子と三人で行くことになりました。まるで紘一さんが恵子のお父さん見たい。いえ、私達を見た人はみんなそう思ったでしょう。恵子がお父さん役の紘一さんを、コウちゃん、と呼んでいるのは変だったけど。でも、お父さんそっくりね、なんて言われる度に喜んでいるかのような恵子。この子も演技してるわけじゃないよね、と思いながら、私は複雑な心持であまり笑ってはいませんでした。
昭和五十五年
三年生になって体格がランドセルに追いついてきた恵子。ランドセルを軽快に揺らしながら楽しそうに学校に通っています。でもその頃から、うちの家計はまた厳しい状態に転落していました。
去年の秋にマサさんはまた違う会社に移されました。せっかく軌道に乗せ、広げつつあったシマを取り上げられ、名古屋駅の西側のほんの一部を仕切っている会社へ。いえ、そのほんの一部の地域も実際に仕切っているのは、マサさんの元々いた会社とは敵対する会社。そんな所で営業しているマサさんの会社側の、キャバレーやスナックをお守する仕事。それでまた、うちに入るお金が途絶えました。
二年ほどはたっぷり稼いでいてくれたので、かなりの貯金がありました。なのでその貯金がなくなるまでにまた稼いでくれるようになれば、と思っていたけれど、今回は生活費を入れてくれないどころか、時々私にお金をよこせと言ってきます。沢山あったと思った貯金は見る見る減っていき、マサさんは把握していないアルバイト代の貯金にそろそろ手を付けないといけないくらいになってきました。でも、今のペースで減るのならそれもすぐになくなりそう。そうなるとほんとに最後の郵便貯金にまた手を出さないといけません。出来ればそこには手を出したくはありません。そもそも、今の物価からしたらもう大した金額は残っていないし。
そんな頃の五月の半ば過ぎ、喫茶すみれのママが体調を崩しました。よく分からないんだけど、熱もないのに高熱がある時みたいな辛さだとか。とにかく体が重く、だるく、なにもやる気にならない。眩暈まであって仕事にならない。と言うことで、私の帰る三時でお店を閉めてしまいます。閉店まで(六時)と頼まれたけれど、恵子には家の鍵を持たせていないのでそれは出来ませんでした。でも、明日もこうだと困るから明日はお願いできない? と、頼まれました。
いつもは三時でお店を出て、家で恵子が帰ってくるのを待っています。でも六時までお店にいると言うことで、学校から喫茶すみれに帰ってくるように言いました。
「ホンマに?」
と、嬉しそうに言って学校に行った恵子。ホンマにって、あんたはどこの子や。
その日は私がお店に行くなり、
「ごめん、お昼には降りてくるからお願い」
と、昨日より辛そうなママ。聞くと今日は少し熱もあるとか。
「お医者さん行った方がいいですよ」
「そうね。でも、とりあえずちょっと寝て来るわ」
そう言ってママは二階に上がってしまいました。
昼食のお客さんが入り始めた十二時前、ママはまだ降りてきません。結局一人でお昼を乗り切りました。だいぶお待たせしちゃったお客さんもいたけれどなんとか。
アッと言う間に三時半を過ぎ、四時が近付きました。そろそろ恵子が帰ってくるはず。でも、ママのことも心配。お昼のピークが過ぎて賄いを食べる前にママの様子を見に行きました。ぐっすり寝ていました。そして全然起きて来ない。ずっと寝ているのかな。
そんなことを思っていたらお店の扉が開きました。そっちを見ると恵子が体半分入って私を見ます。ちゃんとここまで来た恵子を見て安心しました。
「おかえり」
と声を掛けると、そそくさと入って来てカウンターの前に来ます。幼稚園の時は扉を開けるなり、ただいま、と言っていたのに。扉横の席に一人いたお客さんに気を遣ったのかな。
「ただいま」
と言って、私の前のカウンターのイスに座ろうとする恵子。
「恵子、あっちに座って」
私はそう言ってカウンターの一番奥のイスを指しました。
「いいよ、お母さんだけ?」
恵子はそう言いながら移動してくれます。
「そうだよ、ママは上で寝てる」
「病気?」
「う~ん、どうだろ」
「見て来ていい?」
「ダ~メ」
「なんで?」
「病気だったらうつるかもしれないでしょ」
「大丈夫だよ」
「いいから、これ飲みながら宿題しなさい」
そう言って、恵子を見てから作り始めたカルピスを恵子の前に置きました。
まだ三年生になったばかりだと言うのにもう傷だらけのランドセル。それを開いて恵子が宿題を始めた頃、またお店の扉が開きました。
「いらっしゃいませ」
と言って、そっちを見た私は固まりました。
「こんにちは」
と言って入って来たその人も、私の顔を見て動きが止まりました。
「カオリさん?」
私の口からそう声が漏れるように出ました。するとその人がカウンターに近付いてきます。
「今は秋子だけどね」
そしてそう言いました。
「えっ?」
「マリも今は違うでしょ?」
「あっ、はい、静です。ほんとの名前です」
「そっ、私も秋子が本名」
「そうなんですね」
「うん、コーヒー頂戴」
そう言ってカオリさん、じゃなくて、秋子さんは目の前に座りました。すごく久しぶり、何年ぶりだろう、十年以上? そう思いながらコーヒーを小鍋で温め直しながら聞きました。
「今日はどうしたんですか? こんなところへ」
「えっ? 私、ほとんど毎日来てるよ、この時間に」
「ええっ、そうだったんですか?」
「うん」
「この辺りで働いてるんですか?」
秋子さんの服装は明灰色のタイトスカートにブラウス、その上に紺のカーディガンでした。
「うん? その前に、マリ、じゃなくて静? 静はここで働いてるの?」
「あっ、はい」
「いつから?」
「え~っと、もう二年以上、三年くらいですかね」
「そんなに前からいたんだ」
「はい」
そう言ってからコーヒーを出しました。
「ありがと。それにしても久しぶりね、十年ぶりくらい?」
そう言って秋子さんがコーヒーに口をつけます。
「そうですね、この子が今年九つだから、十年にはなりますよね」
そう言いながら恵子を見ました。
「えっ? マ、え~っと、あなたの子供?」
秋子さんも恵子を見てそう言います。宿題の手を止めて私達の方を見た恵子と目が合ったのでこう言いました。
「はい、そうです。ご挨拶して、この人はお母さんが昔働いてたところの先輩なの」
「香取恵子です」
恵子が秋子さんに挨拶しました。
「香取、マサさんとの子?」
秋子さんが私を見て、少し驚き顔でそう聞いてきます。
「はい」
「そっか、そうなんだ。今も一緒?」
少し意味あり気な顔つきでそう聞いてくる秋子さん。それに対して私は、
「はい」
と、笑顔で答えました。
「……そっか」
秋子さんは笑顔でそう返してくれると恵子の方を向きました。
「恵子ちゃんか、よろしくね。おばさんは秋子って言うの。お母さんは私のこと先輩だなんて言ったけど、仕事仲間、友達だからね」
「友達?」
「そ、お友達。九歳か、何年生?」
「三年生、まだ八歳です」
そう言って少し俯く恵子。
「そっか、まだ八歳か。恵子ちゃんかわいいね。特に目がとってもいい」
そう言われてさらに俯き首を振る恵子。
「さあ、宿題やっちゃいなさい」
話を切り上げるように恵子にそう言いました。
「ああ、ごめんなさい、宿題の邪魔しちゃった?」
秋子さんがそう言うのに小さく首を振ってから、再び宿題を始める恵子。私はその姿を見てから秋子さんに話し掛けました。
「さっき毎日来てるって言ってましたけど、そうなんですか?」
「そうよ、なんで会わなかったんだろね」
秋子さんが私に顔を戻してそう言います。
「あっ、いつもこのくらいの時間って言ってましたっけ?」
「うん」
そう言ってコーヒーを飲む秋子さん。
「だからですよ。私、三時までですから」
「そうだったんだ」
「はい。今日はママの具合が悪くてたまたまですから」
「そうなの。って、ママ、具合悪いの? 昨日もお店閉まってたけど」
「ええ、昨日から。昨日は私が帰る時にお店閉めましたから」
「そうなんだ。風邪?」
「分からないです」
「今は?」
「上で寝てます。起きてきたらお医者さん行くように言おうと思ってますけど」
「そっか。うん、お医者さん行った方がいいだろね」
「ですよね」
そして秋子さんはまたコーヒーに手を付けます。
コーヒーカップを持ったままの秋子さんに尋ねました。
「秋子さんは今この近くなんですか?」
「えっ? ああ、そこのスナック、私の店なの」
「ええっ? えっと、紫、ですか?」
この建物の一階に四軒並んだお店の、喫茶すみれの反対側の端にあるお店がスナック紫でした。
「そっ、私も店の上に住んでるから昼間も出入りしてるんだけど、全然会わなかったね」
「ですね。いつからやってるんですか?」
「う~ん、最初、伏見の方でお店やろうとしてたでしょ? それがだめになって、半年ちょっとしてからかな。だからパープル辞めてちょうど一年後くらい」
「と言うことは、もう十年以上?」
「うん、今年で十一年かな?」
最初のお店が出せなくなったと聞いた後、私がお店を変わったりしたのでその後のことが分からずにいました。でもちゃんとお店開いていたんだ。そして十年以上も続いているんだ。
「チエさんも一緒ですか?」
チエさんと一緒にお店をやると言って、二人でパープルを辞めたのでそう聞きました。
「ううん、チエ、多美子と一緒に始めたんだけど、あの子は一年ちょっと、二年もいなかった」
「そうなんですか」
どうして? と聞こうと思ったら、先に秋子さんが話してくれます。
「あの子はずっと男の人と住んでたのよ」
「……」
「で、その人が東京に行くことになってついてった」
「……」
秋子さんがコーヒーを飲みます。
「紫って、パープルですか?」
なんとなくそう聞いてました。
「そっ、私も多美子もパープルがスタートだから、あやかったって言うのかな」
「そうですか」
「あやかるほどのいい思い出がそんなにあったわけじゃないんだけどね」
そう言うと秋子さんはコーヒーを飲み干して立ち上がります。
「さあ、そろそろ行かなきゃ」
「えっ?」
「五時開店だから準備しなきゃ」
「そうなんですね」
「うん、いつもはコーヒーもらって帰って、準備しながらお店で飲んでるの」
「あっ、すみません」
「ううん、話せて嬉しかった。じゃあまたね」
そして秋子さんは恵子にも、またね、と言うと帰っていきました。
五時過ぎに起きて来たママ、意外にも元気でした。お医者さん行ってください、ってセリフが出ないほどに。お腹減った、と言うのでお粥でも作ろうかと思ったら、牛丼がいい、と言い出すくらい。
そしてその日から、私は閉店までお店に入ることになりました。マサさんの収入が不安定なうちにとっては、お給料が少しでも増えるのはありがたいこと。今でも夕方から始める家事は大変なんだけど、何とかするしかありません。
恵子はまたここに帰ってくることになる。家に帰るのは毎日六時以降になる生活。申し訳ないな、なんて感じていたけれど、当の本人はいたって楽しそうなので甘えていいのかなって感じです。
と、明るめの話ばかりではありません。その年の年末頃、我が家の貯金はほんとにもう一か月分の食費もないくらいになりました。なのでマサさんに、もうお金がない、ほんとに生活費だけでもなんとか、と、泣きつきました。
引っ叩かれました。人の顔見たらおんなじことばかり言いやがって、と。そう、確かにそのころはお金の話ばかりしていたかも。でも、しないわけにはいかないくらい切実な問題だったんだもん。
その日は引っ叩かれてもお願いしました。すると、
「わかった、少し待て」
と、マサさん。
「ほんとに?」
「ああ」
「いつもらえます?」
蹴られました。
「分かったって言っただろ」
年末の話はそれで終わりました。本当になんとかしてくれるのかな、と思いながら年を越した数日後、マサさんが十万円くれました。
「これでしばらく何とかしろ」
一言そう言って。
「ありがとうございます」
そう返したけどマサさんは何も言わない。でも嬉しかった。
それからは私が叩かれ、蹴られるのと引き換えにお金を入れてもらう形になりました。機嫌を悪くさせて蹴られたりするのは嫌です。太ももを蹴られると本当に痛いです。もう蹴られ過ぎて太ももは常に黒ずんでいるくらい。それでもそれで生活できるなら。
恵子だけはちゃんと食べさせなきゃいけない。それに洋服もどんどん買ってやらないといけない。私の洗濯や裁縫の腕を上回るほど、汚したり破いたりすることがまだまだあるって言うのもあるけれど。それ以上に最近の恵子の成長が早すぎます。大き目の服を買ってもすぐに着れなくなってしまう。そろそろ着ているものにも気を遣い始める年頃、不憫な思いはさせたくないから、同じ服ばかり着させるわけにもいかない。そうなると、すぐに着られなくなると思っても、ある程度の種類は揃えておかないといけない。いつも笑顔でいて欲しいから。その為なら私が痛い思いをするくらいのこと、全然平気、何でもないことだ。
昭和五十六年
恵子が四年生になってしばらく経ったとある土曜日のこと。喫茶すみれはお休みなのでお昼前に買い物に出ました。お昼で帰ってくる恵子に何を作ってやろうか、なんて考えながらスーパーの袋を持って帰ってくると、玄関の前に人がいました。小柄な初老の女性。知っている人でした。信じられない人でした。まさかこの人に再び会うことがあるなんて、そう思う人でした。
「叔母さん」
呟くようにそう言ってました。
「し、しーちゃん?」
叔母さんも私を見て、小さな声でそう言います。そして、
「ごめんなさい。ほんとにごめんなさい」
と、叔母さんがそう言っていきなり頭を下げました。
「ど、どうしてここが」
何で叔母さんがいきなり謝るのか、と言うことより、そのことの方がまず気になりました。
「うちの人からこれを」
そう言いながら叔母さんがハンドバッグから取り出したのは年賀状でした。それを見て思い出しました、恵子が生まれたあと、叔父さんの会社宛に一度だけ年賀状を出したことを。もう心配しないで、というつもりで、結婚して子供も生まれました、と、書いたことを。
「そうですか」
そう言いながら叔母さんに近付きました。近付くと叔母さんが一、二歩下がります。
「それで、その……」
そう言う叔母さんを無視して玄関の鍵を開けました。
「とりあえず入ってください」
そしてそう言って先に入りました。
台所で買って来たものを仕舞いながら、入って来た叔母さんにこう言いました。
「散らかってますけど、とりあえず座ってください」
テーブルのイスを勧めました。散らかってる、と言ったけれど、実際は居間にはほとんど何もありません。居間と続く六畳間に学習机なんかを置いて恵子の部屋にしたので、私とマサさんは居間に布団を敷いて寝ています。なのでもうソファーもありません。座卓一つ置いていない、箪笥が並ぶだけの部屋です。
お茶を入れながら口を開きました。
「その、どうしたんですか? 今日は」
お久しぶりです、とか、ご無沙汰してしまってすみません、とか、他にも言うことはあったと思うけれど、そんな言葉しか出ませんでした。
「うちの人、二か月ほど前に入院したの」
「……」
「腰が痛いってずっと言ってたんだけど、とうとう起き上がれないくらいになっちゃって。それで救急車呼んで共立病院に入れたら癌だって」
共立病院、瀬戸にある大きな病院だ。で、癌? もう長くないってこと? その疑問はすぐに叔母さんの口から聞けました。
「そしたらもう何も手当てできないくらいの状態で、いつが最期になってもおかしくないって」
「……」
黙ってお茶を飲みました。すると叔母さんも口をつけました。そして続けてくれます。
「それで、もうずっと寝たきりだったんだけど昨日の夜目を覚まして、……全部話してくれた」
「……」
全部、そう聞いて俯いてしまいました、まさかと思いながら。
「ほんとにごめんなさい。あの人があなたにしたこと、全部聞いた。ごめんなさい、ほんとに酷いこと、ごめんなさい」
まさか、が当たってしまった。叔父さん、ほんとに全部話したんだ。もう今更、今更なことなのに話したんだ。今更話さなくてもいいことなのに。
「なのに何にも知らなかったから私はあなたを追い出してしまった。ほんとになんてことを、ごめんなさい、謝って……」
「いえ、あの時は私が悪かったから」
叔母さんを遮って口を開いていました。
「私が俊介君に酷いことをしたから。だから当然だったんです、追い出されて当然だったんです」
するとおばさんが顔を上げてこう言います。
「ううん、あのあと俊介から聞いたの、あの子が寝ているあなたの所に行ったんだって」
「それは……」
今度は私が遮られました。
「あの前から何度も行ってたって。寝ているあなたの身体を触りに行っていたって。それで、あの日は触っているうちにあなたが起きてしまったんだって」
「……」
「でもあなたが怒らなかったから、調子に乗って触らせてと頼んだんだって」
俊介君、そんな風にお母さんに言ったんだ。
「違います」
そう言ってました。
「俊介君は私が気付いた時に逃げようとしました。それを引き止めて、私が自分から触ってって言って脱いだんです」
「えっ?」
「私が自分から脱いで触らせて、誘ったんです。その、俊介君を辱めてやろうと思って」
「……」
叔母さんが何も言えず私を見ています。私は続けました。
「いえ、俊介君で仕返ししようとしたんです。叔父さんにされた私の身体で、叔父さんの息子としてやろうって。息子の初めての相手が私だと知ったら、叔父さんはショックを受けるに違いない。息子が私に辱められたって思うに違いない。そうやって仕返ししようとしたんです」
「……」
叔母さんはまだ何も言えない様子でした。
「でも、俊介君のことは考えませんでした。そこまで考えられませんでした」
「どういうこと?」
叔母さんがやっと口を開きました。
「そんなこと、俊介君もショックなはず。一生の傷になるはず。そこまで考えませんでした」
「でも俊介とは、その、結局何もなかったんでしょ?」
「そうですけど、あんな状況になったってだけで俊介君には……」
「ううん、それはいいの、それは別。仮に俊介と何かあったとしてもそれは別よ」
「えっ?」
叔母さんの顔を見ました。
「あなたは一生の傷になったんでしょ? うちの人があなたにしたことで」
「それは……」
「私も女よ、うちの人がどんなに酷いことをあなたにしてきたか分かるわよ。ほんとに償いようもないこと。なのにあなたは何も言わずに……。私が出て行けって言った時に言ってくれても良かったのに、何も言わずに出て行くんだもの。ほんとにごめんなさい。あんな年で住むところもなくして、辛い思いをしたでしょ?」
叔母さんがそう言った時、
「ただいま」
の声と共に玄関の開く音がしました。恵子が帰って来ちゃった。
台所に入って来た恵子に、おかえり、と言いました。でも恵子はお客さんを見て口を開きません。涙を拭っていた叔母さんを見て少し驚き顔。
「恵子、この人はお母さんの叔母さんよ、ご挨拶して」
「香取恵子です、こんにちは」
ペコっと頭を下げる恵子。
「こんにちは、恵子ちゃんって言うのね、よろしくね」
「うん」
そう答える恵子。
「こら、うんじゃないでしょ」
「はーい。お母さんの叔母さんなの?」
「そっ、だから恵子の大叔母さんね」
「おおお叔母さん?」
「大叔母さん」
「おお叔母さん」
そんな親子のやり取りに叔母さんがこう言いました。
「恵子ちゃんも叔母さんって呼んでくれていいわよ」
「うん」
「こら」
「はい、分かりました」
「よろしい」
そう言うと恵子は自分の部屋にランドセルを置きに行きます。
「何年生? かわいいわね」
と、叔母さん。
「四年生です」
「そう、ほんとにかわいい。私にしたら孫みたいなものかな」
「俊介君にお子さんは?」
叔母さんのセリフにそう聞いてました。
「あの子はずっとフラフラしててお嫁さんもまだなの」
ひょっとして私の所為で女性不信にでもなったのかも。そう思っていたら叔母さんがこう続けます。
「付き合ってる相手がいると思ってもすぐ逃げられちゃう」
「なんでですか?」
「浮気性なのよ、次から次だから。ほんとにうちの人の子ね」
「そうですか」
「まあ、つるんでる仲間が悪いから、付き合う子もお嫁さんにしたいような子じゃないけどね」
あんまり恵子の前でしたい話じゃないな。そう思っていたら、お茶を一口飲んだ叔母さんがこう言います。
「あなたには母親代わりとして何も出来なかった。ううん、逆に酷いことをしちゃったから、恵子ちゃんは孫としてかわいがらせて」
「そんな」
そう言うと叔母さんがまた口を開こうとしました。でも先に恵子の声が割り込みます。
「お腹すいた、お昼ご飯は?」
「あっ、まだ作ってない。なに食べたい?」
「う~ん、やきめし! 目玉焼きのってるやつ」
「分かった、焼き飯作ろっか。あっ、叔母さんも良かったら一緒にどうですか?」
叔母さんにそう声を掛けました。でも叔母さんは、
「ううん、私はもう帰るわ。うちの人、さっき言った通りの状態だから」
と、席を立ちます。
「そうですか」
いつが最期になるか分からない、そう言っていたので早く戻りたいのでしょう。なのでそれ以上は言いませんでした。
恵子と玄関まで送りに出ると、
「恵子ちゃん、そのうち叔母さんのとこにも遊びに来て」
と、叔母さんが恵子に声を掛けます。恵子が、うん、と返事すると、今度は私にもこう言います。
「静も、いつでもいいから」
でも私は曖昧な笑顔しか返せませんでした。
二週間ほど過ぎた頃、叔母さんから手紙が届きました。叔父さんが亡くなって、葬儀などがすべて終わったことが記されていました。亡くなった時に連絡は来ず、葬儀にも呼ばれなかった。叔母さんが訪ねて来てくれた後、叔父さんのお見舞いにも行かなかった私。会いたくないのだろうと気を遣ってくれたのでしょう。
手紙の最後にこうありました。
『何かあったらいつでも連絡ください。遠慮しなくていいからね。』
ありがたい言葉だけど私には無理、そう思いました。私はもうあの家に迷惑を掛けるわけにいかない。叔母さんがなんと言ってくれようとそれはダメなこと。それこそ叔母さんが使った言葉を借りるなら、償いようのないことを私はしてしまっている。俊介君と叔母さんにしてしまっている。それはもうどうしようもないこと。この思いは一生私から抜けないでしょう。なので、優しく温かい言葉をもらうほど辛くなる。だから、ありがたいと感謝しながら、手紙を缶の中に仕舞いました。
その夏頃からマサさんの仕事はまたうまくいくようになったようでした。家に入れてくれるお金は十分な金額が続くようになりました。マサさんも機嫌が悪くなることがなくなり、私が叩かれたりするようなことはなくなりました。優しいマサさんに戻ってくれた。
でも仕事がうまく行き出すと、お金に余裕ができると、と言った方がいいかな、マサさんは帰って来ない日が増えるようになりました。それは憂鬱なこと。どこかに泊まっている。そして、多分そこにはマサさん一人じゃない。誰か女の人と一緒にいる、そう思えるから。
年が変わった頃、なんだか違う商売に手を出し始めたようでした。紘一さんの友達って人も加えて何かやってます。何なのかは分からないけれど、うちに入れてくれるお金がさらに増えました。嬉しいことだけど贅沢せずに貯めてます。以前のようなことが起こってもいいように。
その商売は順調に軌道に乗っているようで、秋が過ぎるころにはとんでもない金額をマサさんが持って帰るようになりました。私は不相応過ぎる金額に恐れを抱いて受け取りませんでした。マサさんの方で貯金しといて、と、頼みました。なんとなく直感で分かります。マサさんの仕事で大金が動く、それは危ない仕事、良くない仕事、かもしれないと。生活出来るお金があれば十分。家族三人、幸せに暮らせればいい。そう願う私はマサさんが言う通り、小心者、なのかな。
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