第一部 04

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第一部 04

 昭和四十三年 四  なかなか仕事は見つからない、それでも雇ってもらえそうなところはありました。でも住所がないことが問題。なら先に住むところを決めよう、と思って飛び込んだ不動産屋さんで所持金不足が判明。不注意で大金を失っていなければ足りたのに。そんな思いで歩いていたら、またまた不注意でお金を失ってしまった。そんなどん底な気分で足が向いたのはなみちゃんと再会した歓楽街。先日なみちゃんがいたビルの前まで来て、なみちゃんが現れないかと待ちました。だけどなみちゃんは現れない。と、立ち去りかけた時、 「しーちゃん」 と、後ろから声が。振り返るとビルの階段になみちゃんがいました。良かった、会えた。  なみちゃんが階段に現れたビルの方に戻りました。でもすぐになみちゃんの方が駆け寄って来てくれました。 「またこんなとこに、なんかあったの?」 なみちゃんがそう言います。 「うん、なみちゃんに会えるかなって」 「あのねぇ、私が言うのも変だけど、私らくらいの年の子がうろうろするところじゃないよ」 「ごめん」 「いや、いいけど。ずっと待ってたの?」 「ううん、そんなには」 なみちゃんと一緒に階段を下りていた女性が傍に来ました。なみちゃんがそれに気付いてこう言います。 「同じお店にいるユキさん。こっちは学校行ってた時の友達のしーちゃんです」 私とユキさんに各々を紹介してくれました。お互いに挨拶しました。するとユキさんがなみちゃんにこう言います。 「買い物どうする?」 なんだかおっとりしたしゃべり方の人です。 「え~っと、友達来ちゃったんでいいですか?」 「分かった。私、買い物したらそのまま戻ってるから」 「すみません」 なみちゃんが頭を下げるとユキさんは行っちゃいました。私の所為で一人で買い物に行ったみたいだったので、私も頭を下げてました。 「ごめん、買い物良かったの?」 ユキさんを見送りながらそう言いました。 「ああ、別に。なんとなく買い物行こうかって言ってただけだから。それよりどうする? どっか入って話す?」 「うん、なみちゃんお昼は? 私まだなんだ」 「あ~、私、掃除しながら適当につまんじゃったからなぁ。ま、でもいっか、いいとこあるから行こ」  またなみちゃんに先導されて移動しました。南の方に行きます。着いたのは歓楽街とオフィス街の境辺りにあった居酒屋さんでした。なみちゃんが平然と入って行くのでつい入っちゃったけど、未成年が入っても良かったのかな。  お店の中はお客さんが半分くらい入っています。皆さん会社員の様です。昼間からお酒飲んでるの? と思ったらお酒を飲んでいる人なんていません。昼間は食堂の様でした。 「お弁当二つ」 空いた席についたなみちゃんが店員さんにそう言います。 「あ~、今日はもうお弁当なくなっちゃったよ。来るの遅いよ」 「え~どうしようかなぁ、じゃあ、私は焼き鳥丼。しーちゃん、ごめん、ここのお弁当安くてお得だったんだけどもうないんだって、お昼はあそこに貼ってあるのしか出来ないから好きなの頼んで」 なみちゃんが自分の注文をした後そう言います。私は言われた壁の貼り紙を見ました。お昼メニュー、と書かれているのはお弁当を含めて五種類でした。全部共通で百十五円となっています。私にしたら百十五円は高いと思うんだけど、他のお店では百十五円で食べられるような内容ではありませんでした。ほんとにお得なお店なのかも。 「私も同じでいいです」 選ぶのが面倒だったわけではないけどそう言ってました。  注文をしてから先にトイレに行きました。席に戻るとすぐに焼き鳥丼が来ました。ネギの方が多いとは言え、結構大き目の焼き鳥がいくつもご飯の上に載ってます。小さな鶏肉が二、三個入っているだけの親子丼が、二百円近くするお店もあるのになんだか嬉しい驚きです。それにお味噌汁までついている。  なみちゃんがすぐに食べ始めたので私も食べ始めました。ご飯は多いくらいだったんだけど、甘辛い焼き鳥もネギもおいしくてどんどんお箸が進みます。お昼代わりに何か食べたと言っていたなみちゃんもすぐに食べ切ってしまいそう。  結局ろくに会話もなく、二人とも一生懸命食べただけでそのお店を出ました。なみちゃんに会えてお腹も膨れた。少し気分が良くなりました。どこで話そうか、と言いながらなみちゃんが向かったのはこの前のお店でした。今日はサイダーを一本ずつ買いました。そしてこの前と同じテーブルに。 「さあ、今日はしーちゃんが話す番だね」 いきなりなみちゃんがそう言います。まあ、確かにそうだけど。 「そうだ、この前、家を追い出されたとかって言ってたよね、今も?」 私が話始める前に聞かれました。 「うん」 「ええ? どこで寝泊まりしてるの?」 「安い宿で」 「勿体ない。そんなにお金持ってるの?」 「うん、追い出されるときもらったお金がまだあるから」 「まだあるって、たっぷり?」 「ううん、まさか、そんなに余裕ない。と言うか、部屋借りるとかってなったら足らないくらい」 「そっか」 「だから働くところ探してるんだけど、なかなか雇ってもらえなくて」 「それって普通の会社とか?」 「うん」 ここでなみちゃんがサイダーに口を付けました。なので私も。 「私達みたいな未成年だと、普通の所は保護者がどうとか、保証人がどうとか言うんじゃない?」 サイダーを一口飲んだ後なみちゃんがそう言います。さすがに一足先に働き始めているなみちゃんは、そう言うことが分かっているようです。 「うん、採用してもらえそうになっても履歴書に書いた住所に書類を送るとかって言われるのね。でもそこにいないから書類を受け取りに来ますとかって言うと急に断られちゃう」 「そっか。って、採用してもらえそうにはなるんだ、すごいね」 「すごくはないけど。でもね、部屋を借りてそこの住所を履歴書に書いてれば何とかなったかも知れないの。保護者の署名くらいは多分してもらえるから」 「なるほど」 「でも、部屋が借りれない以上それも出来ないから、なんだか行き詰っちゃって」 「そっか」 私はそこでまたサイダーを口にしました。つられてなみちゃんも。そしてまたなみちゃんが先に口を開きます。 「ちょっと待って、まさか、部屋を借りるお金貸してくれとか言いに来た?」 思いもしなかったことを言われて驚きました。 「ええ? まさか、まさかまさか、そんなこと考えてないよ」 「ほんとに?」 「ほんとほんと、頭下げて頼むなら叔父さんしかいないと思ってるから。でもそれはもうほんとにしたくないことだから、それで悩んでるの」 「そっか、ごめん変なこと言って」 「ううん」 そして、また二人してサイダーを。 「履歴書に書く住所か。今ね、私がいるところ、丁度一人減ったところだから、しばらく泊めてもいいか聞いてあげようか」 「えっ?」 これも思っていなかったことなので驚きました。もしそんなことが頼めるのなら、と、喜びが、湧き上がる前にこう言われました。 「ああ、でも忘れて、ダメだ」 「……?」 「ごめん、また変なこと言って。うちは問題あるから、しーちゃんはダメだ」 「……そう、分かった」 問題ってなんだろう、従業員じゃないとダメってことかな。そう思いました。そう思ったら考えが浮かびました。私もなみちゃんと同じところの従業員になれないのかな、と。お酒なんか飲んだことないし、飲めるかどうかわからないけど。スナックってお店がどいうとこか分からないし、怖さもあるけど。でも、なみちゃんもやってるんだし、なみちゃんと一緒なら、そう思いました。 「ねえ、なみちゃんの働いてるところって、従業員の募集してないの?」 気付いたらこう聞いてました。真剣に考える前に口にしてしまう、私の悪い癖かも。 「えっ?」 当然、なみちゃんは私の言いたいことが分かったようで驚いています。 「まさか、しーちゃんうちで働く気?」 「うん、だめかな? 募集してない?」 「いや、募集はいつもしてるような感じだからいいと思うけど、本気?」 「うん、その、ホステスって言うの? それも仕事は仕事だからいいかなって」 「いやいや、お酒飲まないといけないよ、未成年なのに」 「なみちゃんも飲んでるでしょ?」 「それはそうだけど……。それにこの前話したと思うけど、お客さんに身体触られるよ、胸とか当たり前のように触られるよ」 それは出来れば避けたいけれど、 「でもそういうお店じゃないんでしょ? 多少は我慢する」 でもそう言ってました。 「我慢ってあんた……。しーちゃんには無理だと思うけどな。やめときなって」 そう言われて私のまた悪い癖、意地になってきました。 「なんで? なみちゃんの所で雇ってもらえたら、住むところもあるわけでしょ?」 「それはそうだけど」 「なら」 そう言うと、なみちゃんが声を大きくしてこう言いました。 「そうだ、それ、住むとこ。さっき問題あるって言ったでしょ、絶対ダメ」 「問題って何?」 「う~ん」 そう言うとなみちゃんはまたサイダーを口にします、私は黙って待ちました。 「あんまり言いたくないんだけど、……うちね、女の子だけじゃなくて男の子も住んでるのよ」 「うん」 「住んでるって言うのは実際一人なんだけど、平日は帰るの面倒だからって店の他の男の人も何人か泊まりに来るのよ」 「うん」 「うんって、分かんない?」 「何が?」 「何がって……、その、されるってことよ」 される、それが何を意味するかはもう分かります。そう言うことか、それは想定外でした。 「される」 「そう、意味わかる?」 「えっ、ああ、分かる、大丈夫」 「大丈夫って、まあ、どういうことか分かったならいいや。どう? そんなところしーちゃんには住めないでしょ?」 「……その、なんて言うか、必ずされちゃうわけ?」 「いや、必ずってわけじゃないけど、さすがに毎日ってことはないから」 「いや、そうじゃなくて、その、されそうになった時、拒否したらダメなの?」 「ああ、そいうことか。それはダメ、基本的に。体調が悪いとか、何か理由がある時だけはいいけど、そう言うことがなければ男の人に求められたらするしかない」 なみちゃんから返ってきた返答は、なんだか信じられないものでした。 「えっ、そうなの? それって決まりなの?」 「ううん、決まりじゃないけど、その、もともとは逆だったみたいなの。本当は男の人の寮なの。だからそんなところに泊まるとか、住み込むって言うのは、そういうことされてもいいって覚悟があるってことになるの。ううん、もうハッキリ言うね、されたいから泊まりに来てるってことになるの。分かる? だから拒否するって言うのはダメなの。おかしいでしょ、されたくて来てるのに拒否するなんて。こんなことまで言いたくなかったけど、私もそうだから。そう言うことを覚悟してあそこに入ったんだから」 なみちゃんはそう言うと、残りのサイダーを注いで飲み干しました。そして何も言いません。  今の私にはなみちゃんのその時の気持ちが分かる気がします。もう待ったなしって状況の時に、仕事と住むところが両方手に入る。それと引き換えならあれをされることくらい我慢する範疇に入れてしまう。そんな気持ちになってしまうことが理解できる。なぜなら、私も今そんな気持ちになっているから。それは多分、私がもう普通の女の子じゃないから。恋愛感情なんて全くない、望まぬ相手としかあれをしたことがないから。大好きな人と結婚して、その人の子供を産むためにする。そんな風に思っていた私はもういない。だからあれはもう単なる一つの行為。特別に考えることなんて何もない。望むことも期待することも何もないただの作業だと思えば、そう思い込むことが出来る。悲しいこと、恥ずべき事かも知れないけど。そしてそれは多分、なみちゃんも同じだ。  私は残っている自分のサイダーをなみちゃんのコップに注ぎました。そしてこう言いました。 「分かった」 なみちゃんがホッとした顔をします。 「分かった? 良かった、じゃあこの話はもうなしね」 私をそういう世界に踏み込ませないで済んだ、と安心している様子のなみちゃんには申し訳ないんだけど、私はあっさりこう返しました。 「ううん、そうじゃなくて、それでもいいから」 「……」 なみちゃんが驚いた顔になります。ごめんね、心配してくれてるのに。 「だから私をお店の人の所に連れてってくれない?」 「いやいや、あんたほんとに分かってるの?」 なみちゃんが慌ててそう言います。 「うん」 「いや、分かってないよ、されるとか、やられるって、その、エッチってことだよ、セックスだよ」 「分かってるよ」 「えっ?」 「……」 私はサイダーを飲み干しました。 「しーちゃん、聞いてもいい?」 「ん?」 「したことあるの?」 「……うん」 「……もう一回聞くよ。はっきり聞くよ、男の人とエッチしたことあるの?」 私が分かっていないと思ったのか、なみちゃんがもう一度尋ねてきました。 「うん」 「……そうだったんだ、しーちゃんが。なんか以外、って言うか信じらんない」 「なんで?」 「なんでって……、そもそもそういう相手いたんだ。私が学校辞めてから?」 「う~ん、相手がいたって言うか……。この前話しかけたことなんだけど、私ね、去年の夏に叔父さんに犯されたの」 「……」 さすがにこれを言うのは勇気がいったけど、このなみちゃんの驚いた顔を見たら満足かも。 「それからずっと、何度も何度もされたの」 「そう……だったんだ」 なみちゃんが最後のサイダーを飲みました。 「だから平気ってわけじゃないけど、私も仕事と住むところがもらえるなら、もうそのくらいって思えちゃうの」 正直言うとそんなことあるわけないけれど、なぜだか強がってしまいました。 「……そっか」 「うん、もうどうせお嫁に行けるような身体じゃないし」 異常な思考だと自分でも思います。楽な方に簡単に流されているんだとも思います。でも、なみちゃんを前にこう割り切った以上、もうこれでいいと自分に言い聞かせていました。 「ほんとにうちで働く?」 なみちゃんがまじめな顔でそう聞いてきました。 「うん」 「分かった。とりあえずママに会わせてあげる」 「ママ?」 「あ、ママって分からない? うちのお店ではホールで一番偉い人。なんて言うのかな、ホステスのトップってところかな。お店全体の責任者はマネージャーなんだけどね」 「そうなんだ」 「お店によってはママって人が経営者で一番偉いんだけどね」 「そう」 うん、覚えることがいっぱいありそう。 「ただどうしようかな、まだ二時過ぎか」 なみちゃんが店内の時計を見て考え込みます。 「何かあるの?」 「うん? まあいいわ、ママは四時半くらいに多分来るから、そのくらいにお店行こうか」 「うん、お願い」 「分かった。私は五時半でいいんだけどね、お店六時からだから。だから四時なんかに行ったらそのあと暇なんだけど」 「ごめん」 「いいよ、その代わり、三時くらいで夕食付き合ってよ、しーちゃんのおごりで」 「分かった、いいよ」 「と言うか、それまでここでもうずっと時間潰しだね」 そう言うとなみちゃんは、また冷蔵ケースの所へ行ってサイダーを二本取ってきます。駄菓子コーナーからもお菓子を何個か持ってきます。そしてサイダーを各々のコップに注ぐと、 「とりあえず乾杯だね、サイダーでだけど」 「乾杯って何に?」 「何でもいいの、飲み始めるときは何にもなくてもみんな乾杯って言うんだから」 「そうなんだ」 と言いながら乾杯しました。 「でもしーちゃんがそんな経験してたなんてなんかショックだった」 乾杯の後、お菓子を開けながらなみちゃんがそう言います。 「もう言わないで、私が一番ショックなんだから」 「でも、なんか合点がいった」 「何が?」 「胸触られるよって言っても平気な顔してたでしょ? なんか変だなって思ったの、しーちゃんならそんこと言われたら怯えるんじゃないかと思ったから」 「ちょっとひどい、平気なわけないよ、やっぱり嫌だよ」 「だよね、って、こっちこそちょっと待って、思い出した、あんた私の初体験の話聞いてひどいって言ったでしょ。どっちがよ、しーちゃんの方がひどい初体験じゃない」 「だからその話もうやめようよ」  東洋ビルと書かれた三階建てのビルの前でなみちゃんを待っていました。さっきまでいたお店はもともと鉄板焼き屋さんだったようです。そして今でも奥で料理して出してくれます。なので結局あそこで、夕食に焼きそばまで食べてからここに来ました。そしてなみちゃんは仕事の格好に着替えるために部屋に上がりました。部屋にはほかにもお店の女性がいるというので、私はついて行かずに下で待っている、と言うことです。  階段を下りてきたなみちゃんを見て驚きました。小ぶりのフリル袖の付いたきれいな水色のワンピースに紺色のヒール。お化粧もしている。なんだか大人っぽいです。ワンピースの胸元は結構切れ込んでいて下着が見えちゃいそう。私も同じお店で働くことになったら、こんな格好しないといけないのかな。ヒールって履いたことないけど大丈夫かな。 「お待たせ、行こうか」 なみちゃんは傍まで来てそう言うと、立ち止まらずお店の方に向かいます。 「うん。なみちゃん、なんかカッコイイ、もう大人みたい」 私は横に並んでそう言いました。 「そう? ありがと。でもまあ、お酒飲むわけだから大人に見えないと困るんだけどね、二十歳ってことになってるから」 「そうなんだ」  お店のビルの前まで来ると、 「ここもうちとおんなじ会社がやってる店だよ」 と、一階の『スナック 愛』となっているお店を指しながらなみちゃんはそう言い、階段を上がります。会社? 私は今一つどういうことなのか分かりませんでした。二階に上がるとなみちゃんは、『スナック パープル』と書かれた看板の横の扉を開けて入って行きます。私はスナックと言う大人のお店に入ることに緊張しながら続きました。  初めて入ったスナックと言うところなので、広いとか狭いとかは分かりませんが、キレイなお店だとは思いました。中に入ると、左側にカウンター、イスが七つ。右側にはそんなに大きくないテーブルが二つ。そして奥は左右に同じテーブルが三つずつ。テーブルの所は全部ソファーでした。  なみちゃんはカウンターの奥、左側のソファーに座ってテーブルの上のノートみたいなものに何か書きこんでいる女性の所に行きました。その女性は母くらいの年、四十歳過ぎくらいに見えました。しっかりお化粧しているけれどきれいな方です。袖なしのブラウスを初めて見ました。下はタイトスカートに黒のヒール。うん、カッコイイ。 「おはようございます。ママ、ちょっといいですか?」 なみちゃんが女性にそう話し掛けます。この人がママさんなんだ。でも、この時間になんで、おはよう、なの? 「おはよ、サキ、早いわね。ん? その子は?」 なみちゃんの挨拶に顔を上げたママさんが私に気付いてそう言います。私は目が合ったのでとりあえず小さく頭を下げました。 「この子、私の友達なんですけど、ちょっと理由があって働くところ探してるんですよ。なので、ここでってわけにいきませんか?」 なみちゃんがそう言うと、ママさんがまた私を見ます。私はさっきより深く頭を下げ、 「よろしくお願いします」 と言いました。ママさんが私を見たまま口を開きます。 「理由って?」 う~ん、どこから話そう、と思っていたら、なみちゃんが先に話します。 「この子、去年親を亡くして親戚の所にいたんですけど、なんか酷いことされた上に追い出されたみたいなんです。だから今、仕事も住むところもなくて。ダメですか」 おお、簡潔で完璧な説明、なみちゃん凄い。  ママさんが席を立って私の二歩くらい前まで来ました。そしてこう言います。 「酷いことって、例えば?」 「えっ、それは……」 何か言わなきゃ、と思いながら俯いて、言葉を探していました。 「どんなことされたのか一つ、二つでいいから言ってみて」 「えっと、その……」 そう聞かれた私の頭の中には、私の前から逃げるように立ち去る時に見せた俊介君の怯えたような顔、私を何度も叩いた時の叔母さんの恐ろしい顔、そして、私にお金を押し付けて、出て行ってと言った時の叔母さんの悲しげな怒った顔、それらしか浮かんできませんでした。そう、ひどいことを、されたことではなく、したことしか思い浮かびませんでした。なので何も言えず俯いたままでした。するとまたなみちゃんが口を開きます。 「あの、ママ、あんまり人に言わないで欲しいんですけど、この子、その……、親戚の叔父さんに犯されたんです」 なみちゃんありがと、でも、そんなにあっさりそのことを言わないでよ。なみちゃんのセリフに、ママさんは一度なみちゃんの方を振り返ったようです。でもすぐに私の方を向いて、 「ほんとなの?」 と聞いてきます。私は俯いたまま頷きました。 「はい」 「……、あっそう、そうなの。可哀そうに」 ママさんはそう言うと元の席に戻ります。そして腰を下ろしながらこう聞いてきました。 「でも、他の親戚の所には行けないの?」 「親戚はその叔父さんのところしかないです」 顔を上げてママさんを見てそう言いました。なみちゃんが私の手を引いて、ママさんの座るソファーの近くまで私を連れて行きます。 「そうなの? 遠い所にもいない?」 ママさんがまたそう聞いてきます。 「はい、母にはもともと身内がいなくて、父の両親ももう亡くなっているので、残っているのは父の弟の叔父さんだけなんです」 「そう。叔父さんて言うのはお父さんの弟なわけね」 「はい」 「それにしても、お兄さんの娘に手を出すなんてひどい叔父さんね」 「……」 はい、とも言えず俯きました。  ママさんがタバコに火をつけ、煙を一つ吐き出してからこう言いました。 「あなた名前は?」 「大西静です」 「シズカ、いい名前ね、そのまま店で使えそう」 「……」 「で、大西さん、サキからどんな仕事か聞いた?」 「あ、はい、少しだけですけど」 実際は何も聞いていないけど。 「出来そう?」 「えっと、初めてのことなんで分からないですけど頑張ります」 「そう。サキの友達ってことは、年もサキと一緒?」 「はい」 そう答えるとママさんはまたタバコを吸いました。そしてこう言います。 「あんまり大っぴらに言えないんだけど、成人ってことでお酒も飲んでもらわないといけないけど大丈夫?」 「は、はい」 「飲んだことある?」 「いえ、ないです」 「まあ、うちはお客さんのお酒どんどん飲んで、どんどんボトル入れさせてってことまで言わないから、無理して飲む必要はないけどね」 「はい」 ボトル入れる?  「でも、お客さんは女の子と飲みたくて来てくれてる人が多いから、一緒に楽しく飲めるようにはなってもらわないといけないわよ」 「はい、頑張ります」 ママさんがしばらく私を見つめていました。そしてタバコの火を消すとこう言います。 「分かった。サキ、あんたはどう?」 「えっ?」 急に名前を呼ばれたなみちゃんが慌てます。 「あんたが連れて来たんだから聞く必要ないかもしれないけど、この子、大丈夫? 何か揉めそうなこととかない?」 「えっ、え~っと、揉めそう、ですか?」 「そ、さっきから出て来てる叔父さんとかってのが連れ戻しに乗り込んでくるとか」 「いえ、それは……ないと思いますけど。ないよね?」 なみちゃんが私に振ってきました。 「はい、そんなことはないと思います」 「そう、あとこの子、ほんとにうちでやれると思う?」 ママさんはまたなみちゃんに聞きます。 「はい、まあ、本人がやると言ってるんで大丈夫だと思います」 ママさんが私を見ました。そしてしばらく見つめられました。 「わかった、私はいいわ」 なみちゃんと顔を見合わせて、少しだけ笑顔になっちゃいました。でもママさんがこう言います。 「でもマネージャーにも了解取らないといけないから、どうしよう、今日、マネージャー来るの遅いのよね」 ママさんが何か考えているように黙りました。そしてしばらくしてからこう言います。 「今夜マネージャーに話しておくから、明日の四時過ぎくらいにもう一度来てくれる? マネージャーにもそのくらいの時間に来るように言っとくから」 「分かりました」 「まあ、私がいいって言ったらまず大丈夫だから、明日は顔合わせだけのつもりでいいわよ」 「ありがとうございます」 なんだかホッとしながら頭を下げました。するとなみちゃんがママにこう言います。 「あの、いいってことなら、しーちゃん、じゃなくて大西さん、うちの部屋に今夜泊めてもいいですか? 私の部屋、今、私一人なんで」 「えっ? ああ、行くとこないんだったっけ。でもそれはちょっと、マネージャーに話す前だからねぇ」 ありがたい話だったのだけど、ママさんは渋い顔です。 「ダメですか?」 なみちゃんがもう一度聞いてくれます。 「う~ん、ダメって言ったらどうするの? と言うか、今までどうしてたの?」 「安いとこ探して泊り歩いてたみたいです」 私より先になみちゃんがまたそう言いました。 「そう、それは勿体ないわね。でも、大丈夫?」 「何がですか?」 「何か盗んで消えたりしない?」 「ああ、それは私が保証します。しー、じゃなくて、大西さんは絶対にそんなことしませんから」 「ほんとに?」 「はい。もしそんなことになったら私が全部弁償しますから」 なみちゃんがそこまで言ってくれた、ありがと。 「わかった、いいわ。じゃあ、あんたまだ時間あるからその子連れて帰って、部屋のこととか教えてあげなさい。まだ部屋に誰かいるでしょ、その子たちにもその子のこと紹介しときなさい」 「分かりました、ありがとうございます」 そう言って頭を下げるなみちゃんの横で、私も頭を下げてお礼を言いました。  お店を出て階段に向かいながらなみちゃんが、 「良かったね」 と、言ってくれました。 「うん、ありがと、なみちゃん」 「ううん、あ、でももう、なみちゃんって言ったらだめだよ。これからはサキって呼んで」 「なんで?」 「お客さんの前で女の子の本当の名前言っちゃわないように、いつも店での名前で呼ぶようにって決まりなの」 「そうなんだ。分かった、サキちゃん」 本当の名前、お客さんに知られたらいけないのかな? 「なんか、しーちゃんにサキちゃんって呼ばれたら変な感じ」 「私も変な感じ」 二人でクスクス笑いながら階段を下りました。 「でも、しーちゃんも明日マネージャーに名前もらうだろうから、そしたら私ももうしーちゃんって呼べないね」 「そっか、私も違う名前になるんだ」  そんなことを話しながら部屋に向かって歩いていたら、サキちゃんと同じようなデザインの濃い紫のワンピースを着た女性が前から歩いてきました。するとサキちゃんがこう言います。 「あれ、サユリさんって言って同じ部屋の人だよ」 そしてその人が近付くと、 「早いですね、サユリさん」 と、サキちゃんが声を掛けます。 「下で何か食べてから上がろうと思って」 そう言うサユリさんと目が合ったので会釈しました。 「そうだサユリさん、この子、大西さんって言って私の友達なんですけど、明日から店に入ります」 「よろしくお願いします」 サキちゃんに紹介されて、改めて頭を下げました。 「そうなの、よろしくね」 「それで、今夜からもう部屋に入るんですけど、いいですよね」 挨拶を返してくれたサユリさんにサキちゃんがそう言います。 「いいですよねって、マネージャーかママがいいって言ったんでしょ?」 「はい、ママには了解してもらいました」 「そ、じゃね」 そう言ってサユリさんは行ってしまいました。私はそのうしろ姿を見ながら不安なことが浮かんで来てサキちゃんに尋ねました。 「なみちゃん、私、そういう服、持ってないけど買わないといけない?」 歩き始めたサキちゃんが答えてくれます。 「ああ、大丈夫。これ、お店が用意してる服だから。それと、なみちゃんじゃないよ」 「ごめん、サキちゃん。そうだったんだ、良かった、いくらするんだろうって心配した」 「部屋に行ったら分かるけど、似たような服が沢山あるから、しーちゃんのサイズの服探せばいいよ」 「分かった。あ、靴もあるの?」 「あるよ」 「よかった。でも、ヒール履いたことないからなんか怖い」 するとサキちゃんが笑います。 「それはしばらく苦労して。私も最初の頃は何度もコケたから」 「そうなの?」 「うん、コケると言うか、クキッってなって足をくじいちゃうの。結構痛いよ」 「そうなんだ、なんかヤダなぁ」  部屋は東洋ビルの二階、202号室でした。玄関を開けるといきなり本棚のような大きな靴入れがありました。色とりどりのヒールが並んでいて靴屋さんのようです。でも、ぎっしり埋まっているわけではありません。 「しーちゃんは下の二段ね。玄関の靴入れは場所が決まってるから」 先にヒールを脱いで上がったサキちゃんがそう言います。 「そうなんだ」 「私がその上の二段。次の二段がユキさん、一番上の二段がさっき会ったサユリさん。しーちゃんも自分の履く靴決めたらここに置けばいいから」 「ここから選ぶの?」 私の場所と言われた下の二段に、すでに六足置いてあったのでそう聞きました。 「ああちがう、それはこの前までいた人が履いてた靴だから。まあ、靴とか服とか選ぶのは明日にしよか」 「うん」 とりあえず私は履いていた運動靴を下の空いているところに置きました。  玄関を入ってすぐのガラス障子を開けると台所のようでした。四人掛けのテーブルがありますが、テーブルもイスも、上に物がたくさん置いてあって使えそうにありません。入って左手、ちょっと振り返るような位置に流しがあります。その流しの並びにカーテンが掛かっていて閉まっています。そのカーテンを見ていたら、サキちゃんが私が見ているのに気付いて教えてくれます。 「その向こうは洗面所。入って左の扉がトイレで右がお風呂だよ」 「わかった」 そして入って来た時の正面、開け放たれたガラス障子の向こうは居間って感じの部屋でした。中央より右寄りに正方形の座卓。見るからに冬はこたつっぽいです。その正面にはテレビがありました。そして左のベランダ側の掃き出し窓の前には敷きっぱなしの布団が一つ。そしてそして何より、この部屋も衣類だとか、物がいっぱいです。 「ここが一応共同の居間なんだけど、ここに住んでる男の子、コウちゃんって言うんだけど、その人がここで寝てるから」 「そうなんだ」 「私達より一つ上なんだけど、なんか全然年上っぽくないからコウちゃんって呼んでるの」 「ふ~ん、この布団がそう?」 足元の布団を指してそう聞きました。 「うん、いると思ったけどいないね。って言うか、ちょっと待ってね」 サキちゃんはそう言うと居間を横切って左右に一つずつある襖の扉の内、左側の方に行きます。そして、 「ユキさん、います?」 と、声を掛けています。返事はなし。 「ユキさん、開けますよ」 サキちゃんはもう一度そう声を掛けると襖を開けました。敷きっぱなしの布団が二組。そしてここも物が……。さらに左右の長押の間に何本か張られたロープには、洗濯物がちらほら干してあります。 「ユキさんもいないね、まだちょっと早いのに」 サキちゃんはそう言いながら襖を閉めます。 「こっちの部屋がサユリさんと、昼に会ったユキさんの部屋。まあ、勝手に開けないようにしてね」 「うん」 サキちゃんは右の襖に移動、そして開けます。 「こっちが今は私だけの部屋。だからしーちゃんもここね」 「うん」 そう言いながらそっちに行きました、足元の物を避けながら。襖の前まで来ると熱気を感じます。居間に入った時は涼しい気がしたのに。そしてこっちは、寝る部屋ではなく倉庫でした。隣の部屋と同じで長押の間にロープが張られていて、洗濯物が干されています。でも、こっちの方が量が多い。シーツも下がっているし。なので、シーツがカーテンのようになっていて部屋の奥が部分的に見えません。でも、奥に玄関に置いてあったのと同じような靴入れが見えます。こっちは靴が置いてあると言うより詰め込まれてます。 「ごめん、シーツ干してるの忘れてた。今日洗ったんだ」 サキちゃんがそう言いながらシーツをロープから降ろします。そして足元のシーツが外された敷布団の上に落とします。 「ベランダに干せないの?」 不思議に思ったまま聞きました。 「干せるけど、鳩とかにフン付けられるから」 「そうなんだ」 「洗濯するならベランダに洗濯機あるから使っていいよ」 「分かった、ありがとう」 それはありがたいです。 「布団干してないけど、しーちゃんそこの使って」 そこってどこ? と思いながらサキちゃんの指す方を見たら、衣類の山の下に敷布団らしきものがありました。 「ありがと」 とりあえずそう言っときました。  サキちゃんが居間に戻って電話台の引き出しを開けます。電話があるんだと思って見たら、電話の横にお茶っ葉の入っている缶が置いてあります。その缶に紙が貼ってあり、『一回十円。長電話禁止』と書いてありました。引き出しを開けたサキちゃんが、 「これ、ここの鍵、失くさないでね」 と、鍵を一本差し出してきました。受け取ってお礼を言います。 「テレビ見ていいし、クーラーも使っていいから、気楽にしてて」 「うん」 クーラーと言われて探しました。ベランダ側の壁にありました。私がクーラーを見たのでサキちゃんがこう言います。 「使い方わかる?」 「うん、あの紐引っ張ってガチャガチャ回せばいいんでしょ?」 「そう。あ、お風呂も使っていいからね、タオルなかったら私のとこの適当に使って」 「うん、ありがと」 「あとなんか聞きたいことある?」 そう聞かれたけれど、頭がまだ状況に追いついていませんでした。 「う~ん、特には。あっ、なみ、サキちゃんは何時に帰ってくるの?」 「ああ、店は十二時までなんだけど分かんない。お客さん帰るまでやってるから」 「そうなんだ」 「うん、だから寝ちゃってていいよ。なんだかんだは明日にしよ」 「うん」 「あ、まあ分かると思うけど、みんな遅いから、早起きしてもあんまり音出さないでね。下手に起こすと怒られちゃうよ」 「分かった」 「じゃあ、私、店に戻るね」 そう言って玄関に行こうとするなみちゃんに、ついさっき気になったことを聞きました。 「あ、なみ、サキちゃん、その、寝てる間にされたりするの?」 「えっ? ああ、分かんないそれは。今日は誰がここに寝に来るかも分かんないし」 「そっか」 「でも、すぐにはないんじゃないかな? 私は三日目か四日目だったよ、最初にされたの」 「分かった。いろいろありがと」 「ううん、じゃね、じゃあまた明日」 「うん、行ってらっしゃい」 そして私は一人になりました。今からここが私の家になるんだと思いながら、どんな生活になるんだろうかと不安も感じていました、少しの後悔も。  お風呂を使ってから、クーラーをつけた部屋で涼みながらテレビを見ていました。思えばこんな快適な環境でくつろぐのは初めてかも。でも、夜が更けてくるとちょっとした悩みが出来ました。それは空腹。だって夕ご飯、三時だったんだもん。サキちゃんは大丈夫かな? お店で何か食べれるのかな? 私のためにサキちゃんも夕飯が早かったのでなんだか心配。  喉が渇けばお水は飲めるんだけど、食べ物はどうにもなりません。台所は普段使っているようで、調理器具や調味料なんかもあります。でも、冷蔵庫はあるけど勝手に開けたらいけないだろうし。開けたとしても中の物を勝手に使うなんて出来ない。食パンやお菓子なんかも目に付くけど、これも勝手に食べれないし。何か買いに行こうにも、もうお店が開いてる時間じゃないし。ああ、もうどうにもならない、寝ちゃおう。と言うわけで、さっさと歯を磨いて寝ちゃいました。サキちゃんが帰ってくるまで起きてるつもりだったけど。  初めての部屋で目が覚めました。カーテンが風に揺れています。そして、カーテン越しに外が明るいのが分かる、もう朝だ。横を見るとサキちゃんが寝ている。でも、驚いて完全に目が覚めました。なぜならサキちゃんが全裸だったから。は、裸で寝るんだ。と思ったら、サキちゃんの向こうに、同じく全裸の男の人。えっ、……信じらんない。思わず息を殺していました。見てはいけない物を見てしまった、気付かれたらいけない。そんな気分でした。  でも、起きるしかない状況です。それはトイレ。多分トイレに行きたくて目が覚めたんだと思う。だって、結構もう限界だったから。空腹を紛らすためにお水を飲み過ぎたのが原因かも。  そっと体を起こし、立ち上がります。ジーパンを履いていませんでした。誰かに脱がされたわけではなく、寝るときは窮屈だから脱いだだけ。でも、履いてる余裕はありません。そろりそろりと歩いて二人を超えて居間へ。襖は全開でした。そしてそのまま居間を横切ってトイレへ一直線。用が済んで水を流した時、その音でみんなが起きないかとヒヤリとしました。恐る恐るトイレの扉を開くと誰も起きた感じはありません。  安心してそっと居間へ。カーテンは閉まっているけど、窓も部屋の襖も全部開いています。暑いからかな。襖が全開なので左の部屋の中も丸見えです。左側の布団には片方の素足が見えているけど、タオルケットを掛けて寝ている女性がいます。そして右側には、部分的にタオルケットが掛かっているけど、明らかに全裸だと分かる男女が寝ています。ほんっとに、衝撃の光景です。どこにいて、どこを見てればいいのか誰か教えてって感じです。  サキちゃんからこういう状況になるんだと聞いてはいたけど、実際に見ると思った以上です。私、ここで本当に暮らせるのかな、そう思いました。決めるのが早かったかな、と、また少し後悔の思いが湧いてきます。でも、もう叔父さんたちに頼らない、その気持ちを徹底させたら選択肢なんてこれしかなかったんだ、そう思い込むことにするしかない。  寝ていた布団までそっと戻って、ジーパンを履き、着けていなかったブラも付けました。そしてこの前買った本を持って台所へ。台所のベランダ側の腰窓はカーテンがなく、そこだけはもう昼間のように明るかったです。テーブルの所のイスの一つから物をのけて、そのイスをそこへ。そしてそこで本を読んでいることにしました。みんなが起き出してくるまで音を立てずに過ごすには、それしかないと思ったから。でも、文字が頭に入りません。衝撃の光景がどうしても気になってしまうから。  誰かに体を揺すられて目が覚めました。そう、イスに座ったまま壁にもたれかかって寝ていました。 「マリちゃん、そろそろ起きて」 サキちゃんの声がする。でも、マリちゃん? それ誰? 「ん? なみちゃん? おはよ」 「違う、サキだよ」 「あ、そっか、ごめん」 「そして、あんたはマリちゃん」 「えっ?」 何言ってんの? と思ったら、台所にはもう一人女性がいました。ボウルで何かかき混ぜています。卵かな? そう思っていたらその女性が私にこう言います。 「おはよ、マリちゃん。よろしくね」 ユキさんでした。昨日会ったときはお化粧してたから、していない今の顔を見てすぐには気付きませんでした。 「あ、はい、よろしくお願いします」 立ち上がって挨拶しました。でも疑問が。 「マリって、私のこと?」 サキちゃんに聞きました。 「そうだよ。もう昨日のうちにマネージャーもOKだって。だから今日からあんたはマリ」 「もう決まったんだ」 「そ、まあ、昨日ママが言ってた通り、今日は四時に行って顔合わせはあるけどね」 「そうなんだ」 「良かったね」 「うん、ありがとう」 そうは言ったけど頭の中は複雑でした。今朝の光景が本当に衝撃だったから。 「ねえ、そろそろそこ空けてくれない? 卵焼きたいから」 ユキさんがそう言います。私がイスを置いて座っていたのはガスレンジの前でした。 「あ、すみません」 すぐにイスを持ってどきました。するとユキさんがまたこう言います。 「ありがと。サキはパンお願い」 「は~い」 サキちゃんはそう言うと居間の方に声を掛けます。 「サユリさん、トーストは?」 「一枚でいい、それより先にコーヒー欲しい」 座卓でタバコを吸いながら、サユリさんがテレビを見ていました。 「了解、コウちゃんは?」 サキちゃんは、今度はベランダの方に声を掛けます。 「俺は二枚欲しい」 そう答えたのは、今朝サキちゃんの横で寝ていた男の人でした。この人がここに住んでるコウちゃんか。彼は敷布団をベランダに順番に持ち出して干していました。 「しー、じゃなくてマリちゃん、これ、マーガリン塗って」 サキちゃんがトースターから抜いたトーストをお皿に載せて差し出してきます。 「分かった」 お皿を受け取って、マーガリンは? と思ったら、サキちゃんが冷蔵庫を開けてそれも出してくれました。 「そっちで塗って、私はコーヒーやるから」 そっちと言うのは居間の座卓でした。なのでサユリさんの傍に行きました。 「おはようございます」 座りながら挨拶しました。 「おはよ、マリになったのね、よろしく」 「はい、よろしくお願いします」 そしてマーガリンをトーストに塗り始めました。塗りながら部屋の中をぐるっと伺いました。目に入った時計を見るともう九時でした。そして一人少ない気がする。確かもう一人男の人がいたはずだけど。一枚の片面を塗り終わって、二枚目を塗ろうとしたらサユリさんが口を開きます。 「その二枚は両面塗って、先にコウちゃんにあげて」 「えっ? あ、はい」 「コウちゃんは両面塗ってある方が好きみたいだから覚えといて」 「分かりました」 そう返事して塗りながらコウちゃんを見ると、掃き出し窓の所で足をベランダに出して座っています。  二枚の両面を塗り終わって、お皿のまま掃き出し窓の方に持って行きました。 「あの、マリです。よろしくお願いします」 「俺は松本紘一、よろしくね」 一つ上だとサキちゃんから聞いたけど、なんだか年下に見えました。だって、とってもかわいい垂れ目だったから。 「ありがと、もらうね」 そして紘一さんはそう言うと私の手からお皿を取りました。ここで食べますか? って、聞こうと思ってたのに。紘一さんは続けて台所の方に声を掛けます。 「サキ、コーヒーまだ?」 「今やってるって」 並べたカップにインスタントコーヒーを入れていたサキちゃんがすぐにそう返します。するとトースターからパンが跳ね出てきました。 「しー、マリちゃん、パンお願い」 それを見てサキちゃんがそう言います。返事してそっちに行き、焼けたパンをトースターから抜きました。 「まだ焼く?」 サキちゃんに聞きました。 「うん、二枚入れて。マリちゃん何枚食べる?」 「一枚でいい」 「じゃあ次で終わり」 サキちゃんはそう言いながら、お湯を注いだカップの一つにお砂糖と粉末クリームを入れると、それと何も入れていないカップを持って居間へ。何も入れていないコーヒーだけのカップをサユリさんに、そしてお砂糖とかを入れたカップを紘一さんに届けます。  座卓に戻ってマーガリンを塗っていたら、またサキちゃんが声を掛けてきます。 「マリちゃんは砂糖とかどうする?」 「あ、じゃあ、二杯ずつお願い」 ほんとはコーヒーじゃない方がいいんだけど。ユキさんがオムレツを載せたお皿を運んできました。でも、オムレツの一部がへずられています。味見で食べたにしたら多すぎるよね、と思っていたら、別の小皿にありました。そしてそれは紘一さんの所へ。 「紘一さんは一緒に食べないんですか?」 思わず聞いちゃいました。 「お布団干してるからねぇ、コウちゃんは鳥の番してくれてるの」 ユキさんが答えてくれます。するとすかさず紘一さんがこう言います。 「でも俺、今日はあと一時間もしたら出ちゃうんで、そのあと知りませんよ」 「じゃあ出る前に取り込んでってよ。一時間もお日さんに当たってたら十分だから」 サユリさんがそう言いました。 「ええっ! 了解、分かりました」 サユリさんがこの中では最年長っぽいので逆らえないのかな。サキちゃんが焼けたトーストを持ってきました。私はそれにもマーガリンを。そしてそれを塗りながらサキちゃんに聞きました。 「ねえ、男の人もう一人いなかった?」 「ああ、後藤さんはもう帰ったよ」 「そうなんだ」 「ここで寝てく人は電車やバスが動いてないからだから。だから大抵起きたらすぐに帰っちゃうよ」 「そう言うことなんだ」 と言ったら、ユキさんが洗ってざるに盛っただけのレタスを手にしながら座卓に着き、こう言います。 「寝るだけで帰ってくれたらいいんだけどね」 そしてサユリさん。 「ほんと、二人目産まれたとか言いながらいい加減にしろって言うの」 で、ユキさんがそれにまた続きます。 「ですよねぇ、せめて寝起きは勘弁してほしいですよね」 「まったくよ」 そしてまたサユリさんでした。その後藤と言う人はこの二人の部屋で寝ていたはず。二人としてたの? 信じられない、しかも寝起きまでなんて。そんな濃い話で朝食が始まりました。でも、女四人でワイワイ話しながらの食事、なんだか楽しかったです。  朝食後は部屋でサキちゃんと私のワンピース選び。部屋にはハンガーラックが二つありました。一つはサキちゃんの服が沢山掛かっているもの。もう一つはこの前までいた人が使っていたもののようです。そこにはワンピースが五着と、小さな手持ちバッグが三つ掛かっていました。サキちゃんがその五着のワンピースを指して、 「どれでもいいから着てみて。合うんじゃないかな? 背格好似てるから」 と言います。 「わ、分かった」 初めて触る華やかな服なのでちょっと恐る恐るでした。 「大丈夫だよ、クリーニング済みのしか掛かってないから」 サキちゃんは別の理由で私が躊躇していると思ったみたい。手に取った桜色のワンピースの首の後ろには、確かにクリーニング屋さんのタグが付いていました。  すんなり着れました。サキちゃんにファスナーを上げてもらっても余裕です。そう、ちょっと大きいのです。これでもいいかって気はしますがやめました。なぜなら、ただでさえ胸の所が大きくⅤ字に切れ込んでいるデザインなので、余裕があり過ぎるともう胸が丸見えみたいな感じです。  それを脱ぎながら、 「もう少し小さいと言うか、細い人用のがいい」 と言いました。と言っても他にはなさそうなのでどうしようもないのかな。 「そっか、やっぱり私と同じサイズかな」 サキちゃんがそう言います。そう、背格好が似ていると言えば私とサキちゃんもそうです。サキちゃんはそう言った後押入の右側を開けました。そこの上段は洋服ダンスのようになっていて、さらに二十着くらいワンピースが掛かっていました。 「多分この中に合うのがあるよ」 そしてそう言います。  明るい緑、黄緑、青っぽい緑の三着を選びました。緑が大好きと言うわけではありません。サイズが合ったもので決めていったらそうなっただけです。サキちゃんはさっきの五着を押し入れに掛けて、私が選んだ三着をハンガーラックに掛けてくれました。  そして今度は靴選び。選んだ服が緑ばっかりだったので緑の靴を探しました。サキちゃんがその間に玄関から前の人が置きっぱなしだった靴を部屋の靴棚に運んで来てくれます。するとその中にきれいな緑の靴がありました。それを履いてみます。履くだけでコケそうになりましたがぴったり。とりあえずその靴に決めました。  次は部屋にある小さな整理ダンスの前にサキちゃんが私を連れて行きます。そして七段ある真ん中の一段をサキちゃんが開けます。そこにはタオルタイプの物を含めて、沢山のハンカチ類が入っていました。 「ここのは共用ね。店に行くときバッグに入れてって。あっ、バッグもそこらにあるの適当に使っていいから」 「分かった」 サキちゃんの説明に頷きました。するとサキちゃんはその引き出しを閉めて、 「ここから上の三段はしー、じゃなくて、マリちゃんが使っていいから。下の三段は私が使ってる」 と、説明を続けてくれます。 「分かった」 と言いながら一番上の引き出しを開けました。空です。 「ここはもう全部空になってるはず」 サキちゃんがそう言うのを聞きながら二段目を確認。空でした。 「ここは何入れるの?」 二段目を確認しながら聞きました。 「下着とか私服とか」 「そっか」 そう返しながら三段目。小さな木箱が一つ入っていました。 「あれ? 空にしたって言ってたけど何だろ」 そう言いながらサキちゃんが手に取りました。そしてフタを開けると、イヤリングが何個か入っていました。 「あれ? 多分これ、前の人の私物なんだけど置いてったんだ」 「そうなんだ」 「ここにあったんだからマリちゃん使っていいよ」 サキちゃんはそう言いながら木箱を戻します。 「ええ? 私物なら忘れていっただけで取りに来たりするんじゃないの?」 「いや、多分それは置いて行ったんだよ、いらないって」 「ほんとに?」 「うん、いつも着けてたのは違う奴だったから」 まあ、着けるかどうかは置いておいて、とりあえずもらっとこう。  そのあと私は自分の荷物を整理ダンスに入れることにしました。木箱のあった三段目に手紙の缶を並べて入れました。そして下着なんかを入れていこうとしたところに、冷蔵庫からプラッシーの瓶を二本取ってきたサキちゃんが戻ってきました。そして瓶の一本を私に手渡しながらこう言います。 「ちょっと、下着ってそんなのばっか?」 私はプラッシーを一口飲んでから答えます。 「うん」 するとサキちゃんも一口、二口飲んでから、 「あんた、お金ってそれなりに持ってる?」 と聞いてきます。 「えっ? まあ、それなりには。なんで?」 「買いに行こう、下着」 「えっ、ダメなの? これじゃあ」 するとなみちゃんはハンガーラックからワンピースを一着取って、自分の身体にあてます。 「うちの店の服って丈が短いでしょ? 大体どれも膝上くらいまでしかないから」 「うん」 私もそれは思っていました。でも今年は寒いころからミニスカートが大流行しています。この栄辺りでもミニスカートで歩いている女性が沢山。歩いているだけで下着が見えちゃいそうな人も見掛けます。なので私的には短くて抵抗があったけど、そんなものかと思っていました。 「でね、お店のイス、特にお客さんが座るソファータイプの方、低いのよ」 「……」 「だからそっちに座ったりしたら動くたんびに結構チラチラ見えちゃうのよ」 「……」 「それに胸も結構開いたデザインでしょ? こっちもチラチラ見えるのよ」 「それは、しょうがないんだよね」 「しょうがないって言うか、わざとそいうデザインにしてるのよ、会社が」 「なんで?」 「チラチラ見えた方が客が喜ぶからでしょ?」 「……」 「そんなところでこんなお子様下着見せられたら、お客さん酔いが醒めて帰っちゃうよ」 ひどい、ひどいこと言われてるけど、確かにお子様下着かも。と思っていたら部屋の入り口の襖の所から、 「お子様下着ってどんなの?」 と、敷布団二つを抱えた紘一さんが言ってきました。 「男は知らなくていいの」 と言うサキちゃんとは別に、私は床に広げた自分の下着をかき集めていました。出来るなら見られたくないし。 「なんで、別に下着くらいいいだろ」 「下着になんて興味ない癖に」 「どういう意味だよ」 「もう、布団置いてさっさとどっか行って」 「はいはい」 紘一さんはそう言うと布団を置いて出て行きます。 「ありがとうございます」 私は一応お礼を言いました。 「あいつにそんなこと言わなくていいよ」 サキちゃんはそう言います。でもこの二人はなんだか仲がいい感じ。そう感じながらも私は、朝の光景が頭に浮かんでいました。そして、ここにいたら私も紘一さんとそのうちするんだろうなっと、少し想像していました。  その後サキちゃんが、私が化粧品も一切持っていないと知ると、急にあわただしくなりました。とにかくまず買い物に行こう、と言われ、部屋を飛び出すように出ました。ただし、練習、と言われて、サイズの合う別のヒールを探した後、それを履いて。急いでいるのに初めて履いたヒール、がに股のような恥ずかしい格好でヨタヨタとついて行きました。でも、背が高くなったみたいでなんだか楽しかったけど。  結構離れたところにある婦人服のお店まで連れていかれました。近くに安いお店があるらしいんだけど、そこだとサイズ合わせどころか試着も出来ないからと。今日はこのお店でしっかり合うものを選んでもらって、一つか二つだけ購入。そして後日、安いお店で同じサイズの物を買おうと言われました。  試着室でサイズを計られた後、そのまま上半身裸で待つように言われて待っていました。すると店員さんがブラをいくつか持ってきます。そして言われるがまま順番に着けていきました。そしてサイズなどが決まると、おすすめの品、と言うのをまた店員さんが持ってきます(後から聞きましたが、これはサキちゃんが選んだもの)。白いのと肌色の物でした。初めて着けたレースのブラ。なんだか大人になった気がします。両方もらうことにしました。そして試着室を出ると、買うことにしたブラとおそろいのパンツ、いえいえ、ショーツも勧められました。レースのショーツ、もうほんとに大人の物だ。しょうがないのでそれも買いました。  そして次は化粧品。サキちゃんの言う、クキッ、て言うのをもう何回も経験しました。そして痛みのひどい右足を引きずりながら辿り着いた雑貨屋さんのようなお店の化粧品売り場。私は何にも分からないのでサキちゃんが勧めるままに買いました。サキちゃんに買って来てもらっても同じだったかも。  サキちゃんの勢いはまだ止まりません。お腹が減ったと言う私に、あとあと、と言って次に連れて来られたのは美容院。えっ? と思ったけど、夏休みだったので一か月以上何もしていない髪。多分毛先はそろっていないしボサボサでしょう。今日は時間ないからパーマはなし、カットして揃えてもらうだけね、と言って、店員さんにもそう頼み込むサキちゃん。時間があってもパーマをかける気はないけど。  小一時間ほどかかった美容院を出るとサキちゃんがいません。どうしようかと思ったけれど、そこはもう部屋の近くだと分かっていたので戻ることにしました。サキちゃんも私がいなければ戻ってくるでしょう。とにかく靴を脱いで休みたかったです。  部屋に戻ると玄関を開けるなり涼しい空気が迎えてくれました。出掛けるときはまだつけていなかったクーラー。なんだか嬉しい、生き返る気がします。台所に顔を出すとユキさんがいました。 「おかえり。ああ、頭、スッキリしたね」 一目見てそう言われました。 「ただいま」 と言いながら、そんなにひどい髪をしていたのかなと思いました。 「今日はおそうめんにしようと思ってるけど、マリちゃんも食べる?」 続けてそう言ったユキさんに頷きました。 「はい、ありがとうございます」 嬉しい、もう二時過ぎ、朝食が遅かったと言っても歩き回ってお腹ペコペコでした。でも、 「あっ、ユキさんごめん、私達四時にお店行かないといけないからいいです」 と、奥の部屋から出て来たサキちゃんがそう言います。嘘でしょ、私もう倒れちゃうよ。 「あ、そっか。二人のだけ先に作ってあげようか?」 「いえいえ、大丈夫です」 ユキさんの申し出をあっさり断るサキちゃん。何が大丈夫なの、と睨もうと思ったら、サキちゃんはお風呂上がりの様でさっぱりした格好をしていました。それにユキさんのセリフからすると、おそうめんは昼食ではなくお店に行く前の食事みたい。なら、私の昼食はどこ行ったの? そう思っていたらサキちゃんがこう言います。 「私たちはこれね」 これと言うのは居間の座卓に置かれた紙袋でした。中を見ると紙に包まれたものがいくつも入っています。何だろうと思ったけど、パンの匂いがするからきっとパンだ。買って来てくれたんだ。サキちゃんがその紙袋をひっくり返して座卓の上にパンを広げます。そしていくつか中を確認してから一つを差し出してきました。 「お腹減ってるでしょ? とりあえずこれ食べて」 そうしてそう言います。受け取って包みを開くと揚げパンでした。でも、カレーの匂いがする。カレーパンだ。台所に行ったサキちゃんがお水を入れたコップを持って戻ってきます。 「なにやってんの、さっさと食べて」 そしてそう言いながらお水を私の前に置きます。 「ありがとう」 そう言って一口食べてから聞きました。 「これ、買って来てくれたの?」 「そこのパン屋でね」 「ありがとう」 「今日はゆっくり食べてる時間ないから」 私は二口目を食べて、 「いくらだった?」 と聞きました。すると、 「それはいいからさっさとそれ食べちゃって。そしたらすぐにお風呂」 「わ、分かった」 私は急いでカレーパンを頬張り、次の包みに手を伸ばしました。するとサキちゃんがこう言います。 「あとあと、それ食べたらお風呂って言ったでしょ」 うそ~、もう一つくらい食べさせてよ。と思いながらも、私に合わせてサキちゃんも同じなんだからと従いました。  お風呂から出て汗が出なくなったらお化粧の特訓。塗り過ぎたり描き過ぎたりで何度も顔を洗うことに。その合間にサキちゃんが入れてくれたコーヒーを飲みながらパンをつまみました。クリームパンがとってもおいしかった。なのでもう一個あったクリームパンも食べようと思ったら、それはサキちゃんに食べられちゃいました。  結局、お化粧はほとんどしていないくらいの仕上がりになりました。ハッキリお化粧していると分かるのは口紅だけ。口紅は持ち歩いて、お店でも時々確認、落ちてたらお客さんに見えないところで塗るように言われました。そしてもう三時半、着替えとなりました。  着替え終わるとサキちゃんが近付いてきました。そして私の胸元を少し開きます。 「あんたねぇ、何のために慌てて下着買いに行ったと思ってるの」 そしてそう言われました。そうだった、買ってきた下着着けなきゃ。着替え直しました。でも、見られる前提の下着って、なんだか複雑でした。  私用のハンガーラックにあった黒の手持ちバッグに、ハンカチや口紅、お財布なんかを入れて持ちました。そしてサキちゃんとお店へ。鮮やかな緑のワンピース姿。外の人の視線が気になりました。でも、全くと言っていいほど周りは無関心です。そっか、この辺りでは珍しい格好ではないのかも。少し前を歩くサキちゃんは、もっと鮮やかな赤いワンピース姿だし。  お店には四時前に着きました。 「おはようございます」 カウンターの中にいた男性にサキちゃんがそう挨拶するので、同じように私も挨拶しました。それにしてもなんで、おはよう、なんだろうとまた思ってしまう。 「おはよ」 男性がそう返してきました。 「マネージャーってまだですか?」 店内に入って行きながらサキちゃんが尋ねます。 「ああ、まだだよ。ママもまだ来てない」 男性はそう答えながら私を見ています。 「あ、後藤さん、この子、マリちゃんです。寝てるとこは見ましたよね」 この人が後藤さんなんだ、って、寝てるところは見られてたんだ。 「あ、あの、マリです。よろしくお願いします」 「ああ、よろしく、頑張ってね」 人の年齢って見ただけではまだよくわからないけど、三十は過ぎてるよねって感じの人でした。 「はい」  先にお店の中案内する、と言ってサキちゃんが奥に行きます。奥には狭く短い通路がありました。通路に入ってすぐ右の扉を開けると洗面台があり、その左、通路が伸びている方向に男性用の便器が二つ並んでいました。一番奥には個室の扉が一つ、トイレでした。  通路に戻って奥に行くと、突き当りの左側にもう一つ扉があります。『従業員専用 立入禁止』と書いてあります。その扉の中は部屋でした。そんなに広くありません。真ん中と右の壁際に背もたれのない長椅子が一つずつ。正面の壁際には長机。鏡が四つあり、丸椅子も四つあります。並びに洗面台もありました。左側には棚です。変な棚。30センチくらいの幅で上下に仕切っただけの縦長の棚でした。それが十列ほど並んでいます。半分くらいの仕切りの中に洋服が掛かっています。各仕切りの上の方にはハンガーが掛けられるように棒が付いていました。その棚の横に、部屋にあるのと同じような靴の並んだ棚もありました。そして、ハンガーラックが四つ。どれにもお店のワンピースが掛かっています。 「ここが更衣室。ちょっと後で確認するけど、ハンガーラックに掛かってるやつは使っていいはず。合うので気に入ったのがあったら持って帰っていいよ。で、靴はねぇ、どれが使ってるやつか分からないから聞いてからだけど、ここにも履いていい靴があるから」 サキちゃんが説明してくれます。 「お店来てから着替えることもあるの?」 質問しました。 「通いの人はね。帰りは夜中だし、タクシーの人も多いからいいけど、来るときはまだ人がいっぱいいる時間だからこの格好じゃ嫌でしょ?」 「通いの人?」 「そう、ああ、お店の子が全員会社の部屋に住んでるわけじゃないから」 「そうなんだ」 「そうだよ。今は、し、マリちゃん入れて五人だね、会社の部屋にいるのは」 「ふーん、全部で何人いるの?」 「え~っと、確か十三人。マリちゃん足して十四人だ」 「そんなにいるんだ」 「まあね、ただ、毎日全員いないよ。昼間は普通の会社で働いてる人もいるし。大体十人くらいかな、出勤してくるのは」 普通の会社で働いている人もいるんだと少し驚きました。でも、また違う疑問が出て来て質問しちゃいました。 「そうなんだ。あっ、さっき会社の部屋に住んでるの五人って言ったよね、あの部屋、まだもう一人いるの?」 「ああ、その子は下の、愛、の子が住んでる部屋にいるの。その子がお店に入った時、あの部屋は私が入ってもういっぱいだったから、空いてた、愛、の子がいる部屋に行ったの」 「そうなんだ」 「愛、は、ここの倍くらいの大きさの店だから女の子もいっぱい、三十人以上いるんじゃないかな。だから部屋も沢山あるの」 「へ~」  そしてホールに戻ることに。その時入って来た扉に向かいながら、サキちゃんがその扉の左横の扉を指してこう言います。 「あっ、私たちが使うトイレはここね」 「わかった」 場所的にはさっきのお客さん用のトイレの個室の隣くらいかな、と思いながら何も書かれていない扉を見ました。  ホールに戻ってもまだマネージャーさんもママさんも来ていませんでした。もう四時を少し過ぎていたけれど。サキちゃんはカウンター前のボックスのソファーに座りました。なので私はテーブルを挟んだ向かいにあった、背もたれのない四角い小さなソファーのようなイスに座りました。 「私もね、二十歳になったらあの部屋出ようと思ってるんだ。何ならその時一緒に出て二人で住む?」 座るといきなりサキちゃんがそう言いました。 「そうなの? なんで二十歳? それまでにお金貯めるってこと?」 いっぱい質問しちゃいました。 「部屋借りるお金なんてすぐに貯まるよ。そうじゃなくて、二十歳になったら借りるときの保証人が親じゃなくてもいいでしょ? それに成人にさえなれば保証人いらないところもいっぱいあるし」 「そうなんだ」 「そうだよ。だから二十歳になったら出て行く人が多いみたい。逆に言うと、会社の部屋に住んでる子は親に頼れない子がほとんどなんだよ。だからいくらお金貯めても、二十歳になるまでは住むところ探せないからみんないるのよ」 「そっか」 世の中そんな子がいっぱいいるんだ。 「サユリさんみたいに、自分のお店出すお金貯めるまで節約ってことで住んでる人もいるけどね」 「そうなの?」 「うん。サユリさん一月が誕生日なのね。で、今年の一月で二十歳だったから出て行くんですかって聞いたらそう言ってた」 「ふ~ん、そうなんだ」 「あの部屋二千五百円だからね、私たちの負担は。それで電気とか使い放題だし」 「そうなの? あっ、私それ払わないといけないよね」 「ああ、大丈夫。お給料から引かれるから」 「そっか」  そんな話をもうしばらくしていたら、お店に男の人が入ってきました。多分五十歳くらいの人、もう少し若いかな? 「おはようございます」 座っていたサキちゃんが立ち上がりそう挨拶します。後藤さんも同じ。なので私も同じようにしました。 「ご苦労さん」 その人はそう言いながらカウンターに鞄を置き、私達を見回します。そして私で目を止めました。 「えーっと、お前が今日からの子か?」 「はい、よろしくお願いします」 多分この人がマネージャーって人だ。頭を下げて挨拶しました。 「そうか、えーっと、マリにしたんだったか?」 「はい、マリです」 「わかった。まあ、仕事はそこのジュンやママに教えてもらって早く覚えてくれ。俺からは一つだけ、絶対に客を怒らすな。楽しく飲ませて楽しいまま帰らせろ。そしたら毎回気分よく払ってくれるから。分かったな、それがお前たちの給料になるんだからな」 「はい」 「よし。じゃあジュン、今日はお前、この子とカウンター入って仕事教えてやれ。ホールに出なくていいから」 「分かりました。でもあの、マネージャー、私、サキです」 「ああ? あそっか、悪い、間違えた。頼むぞ、サキ」 「はい。それと、ママは?」 「ああ、なんか急に同伴頼まれたとかって電話掛かってきた。誰だったか一人連れて行くって言ってたから、ママとそいつは遅れて来るからそれまで頼むぞ」 「分かりました」 マネージャーはその後、後藤さんに鞄頼むと言ってカウンター奥に消えました。扉の音がしたのでもう一つ部屋があるみたい。後藤さんもマネージャーの鞄を持ってそっちに行きました。  二人が部屋に入るとサキちゃんが体を寄せて来て小声でこう言います。 「マネージャー、自分で付けといて、ほとんど女の子の名前覚えてないから」 「そうなの?」 私も小声で返しました。 「うん、大体今ここにはジュンって子いないし」 「そうなんだ。あっ、今言ってた、ドウハン、って何?」 小声のまま質問しました。するとサキちゃんはカウンターに向かいながら普通に返してきます。 「お客さんから食事に誘われたってこと。一緒に食事してからお店に来るのよ」 「そうなんだ」 私もカウンターに向かいました。カウンターの後ろはびっしりお酒の並んだ棚です。その数に圧倒されていたらサキちゃんがさっきの続きで話します。 「まあ当分必要ないと思うけど、マリちゃんも同伴するとき用の洋服買っとかないといけないね」 「そういうのがいるの?」 「だって、こんな服着た子、お客さんだって食事する店に連れて行きたくないでしょ」 「そうなんだ」 今一つ理解できませんでした。  私が棚のボトルを見上げていたので、サキちゃんはボトルのことから教えてくれました。札の付いているボトルはお客さんがボトルで買って入れているキープボトル。札の付いていないボトルはハウスボトルと呼んで、ショットのお客さん用。ショットと言うのはボトルを入れていないお客さんに出すお酒で、一杯いくらで売るんだと。だからその流れで伝票の付け方なども教えてもらいました。  続いたお酒の種類は覚えるのが大変そう。ビールは分かるけど、それ以外の茶色いお酒は全部ウィスキーだと思っていました。でも、ウィスキーでもスコッチとバーボンって区別があって、それ以外にもブランデーって言うのがあります。もうこれは瓶の形とかお酒の名前で覚えるしかありません。  そして今度はチャームの説明。チャームって何? ってところから始まりました。 「う~ん、一言で言えばお菓子だよ」 「お菓子?」 「そ、お酒のつまみで出すの」 「お酒とお菓子?」 そう言うとサキちゃんがカウンターの下の作業台の下から密閉式の瓶を取り出します。 「これがお客さんが来た時に、お通し、で出す奴」 サキちゃんはさらに、取り出した小皿にその瓶の中身を注ぐように少し出します。 「お通しはこのお皿にこのくらい入れて、お客さん一人に一皿ずつ出すの」 そしてそう言いました。小皿の上に出て来たのは、おかきなのかクッキーなのか、見ただけではよく分からないものとピーナツが混ざったものでした。サキちゃんは別の扉を開けます。そこには駄菓子屋さんなどでも見掛ける、まさにお菓子が入っていました。ビスコまである。これでお酒飲むの? 大人が。 「ほんとにお菓子だね」 思わずそう言ってました。 「まあね、お酒だけじゃなくてスナック菓子も出すから、スナック、って言うみたいよ」 「へ~、そうなんだ」 なんだか意外な理由で驚きました。 「まあ、ほんとかどうか知らないけど、私もそう聞いただけだから」 サキちゃんはそう言った後、そこのお菓子はお客さんが注文したら出すもの。なので伝票に書いてお金をもらうんだ、と言いました。駄菓子屋の十倍くらいの値段でね、と付け足して。そしてカウンターの中からだと見える扉の一つに案内されました。そこに来るとマネージャーたちが消えた奥の扉も見えました。 「ここが倉庫、狭いけどね」 サキちゃんが扉を開けてそう言います。左側の壁沿いの手前は全部ビールでした。作業台の下の一部が冷蔵庫になっていて、ある程度減ったら補充するように言われました。そして奥の方は棚にあったいろんなお酒の入った木箱が積んであります。右側の手前はお菓子の箱が積んであります。開いていた箱を覗くと、お通しのおかきのようなものが入った大きな袋が見えました。それを見ていたら、 「それとピーナツを混ぜて作ってるの」 と、サキちゃんが教えてくれます。  その後はカウンターで水割りの作り方なんかを教えてもらいました。その時サキちゃんが食べてもいいよと言って自分も口に入れるので、さっきのお通しを食べました。多分おかきです、なんだかお醤油の味がしたから。  そんなことをしているうちに一人、また一人と女性が出勤してきます。皆さんやっぱり、おはようございます、と言います。そして皆さん普通の服です。サキちゃんがその度に私を紹介してくれます。なので私もご挨拶。ミエ、カオリ、チエ、マサコ、ルミ、う~、もう顔と名前が一致しないかも。店のワンピース姿で出勤したユキさんは当然もう分るけど、同じく店の服で出勤してきたルミさんはもう危ういかも、青いワンピースだったっけ。  着替えなどの準備を終えた皆さんが、順番にカウンター前のボックスに集まってきます。そして新顔の私が珍しいのでしょう、入れ替わりで話し掛けて来てくれます。でも、皆さんどちら様? って感じです。だって、しっかりお店用の化粧をしちゃってるので、みんなさっきと顔が違うんだもん。  五時半になると後藤さんが奥の部屋から出てきました。サキちゃんに促されて、私もカウンターを出て皆さんのいるボックスの方へ。いつの間に来ていたのか、紘一さんともう一人知らない男性も入り口側に立っていました。 「おはようございます」 後藤さんがカウンターの前で全員に向かって挨拶しました。みんなも挨拶を返します。すると後藤さんが話し始めます。 「まず、今日から新人が一人入ったから」 そう全員に言うと、私に向かってこう言ってきます。 「もうみんなと挨拶済んだか?」 「はい」 そう答えました、男性一人とはまだだったけど。 「そうか、じゃあもう紹介はいいな、みんな仕事教えてやってくれな」 何人かが小さく頷いただけでした。後藤さんが続けて話します。 「俺が話してるんだからもう分ると思うけど、今日、ママは同伴が入ったから遅れて来る。ああ、サユリもついてってるから」 そっか、そう言えばサユリさんを見てないと思った。 「え~っと、今日はあと、七時出勤が二人、ヨウコとサヨな」 これが普通の会社でも働いてる人かな。 「それと、小倉商店さんが八時以降で十人くらいで来るらしい、だからいつも通り奥の左側、そこはテーブル二つは空けとくようにしてくれ。で、その時どのくらい客がいるかだけど、とりあえずカオリ、マサコ、ミエの三人がついてくれ。小倉社長にはカオリな」 「え~、もう嫌です。他の子にしてくださいよ」 後藤さんの話にすかさず拒否の声を上げた人がいました。 「なんでだよ」 「私この前、触られるだけじゃなくて脱がされかけたんですよ。あの社長スケベすぎますよ」 周りの女性も明らかに嫌な顔で頷いています。 「そう言うなよ、社長はカオリがお気に入りなんだから」 うん、今度こそ覚えよう、この人がカオリさんだ。 「え~」 「まあ我慢してくれよ、こっちも出来るだけ社長には気を付けとくから」 「いつもそう言うだけで全然止めに来ないじゃないですか」 カオリさんがそう言い返すと、カウンターの後ろから声が返ってきました。 「週一くらいのペースで毎回十人程度連れて来る客だぞ。お前そんな客、他から連れて来れるか? それなら好きなこと言っても許す、出来ないなら我慢してくれ。脱がされる前に止めてやるから」 マネージャーでした。みんななんとなくまじめな表情になり、姿勢を正したように見えました。怖い人なのかな。 「分かりました。すみませんでした」 カオリさんがすぐに謝りました。マネージャーはその姿を見て、また奥に消えました。 「じゃあもう少しで開店だから、みんな今日もよろしく」 後藤さんがそう言うとみんなが、 「よろしくお願いします」 と返します。私も当然そう言いました。  今のもやっぱり朝礼って言うのかな? なんて思っていたら、またサキちゃんに促されてカウンターの中に入りました。 「まだ食べる?」 サキちゃんがさっきのお通しを指してそう聞いてきます。 「ううん、いい」 そう返すと、サキちゃんがお皿の残りを瓶に戻しました。戻しちゃうんだ。  紘一さんがカウンターの中に入ってきました。もう一人の男性も入ってきます。 「あ、あの、ご挨拶がまだでした、マリです。よろしくお願いします」 「ああ、酒井です、よろしく」 そう返してくれた酒井さんは二十代に見えました。三十歳にはなっていないと思う。二人はカウンターの奥、倉庫側にある流しでお水を汲んで飲み始めます。よく見ると二人ともかなり汗をかいていました。 「ビラ配り行ってた?」 サキちゃんが紘一さんに寄ってそう聞きます。そんな仕事もあるんだ。 「ああ、錦側に行ってる二人はまだやってるよ」 まだ別に二人いるんだ。 「えっ? 錦側ってまた揉めるんじゃないの?」 「大丈夫、久屋より向こうには行かないから」 「そこまでならいいの?」 「多分ね」 揉める? 分からない話でした。二人はお水を飲んで一息入れるとすぐに出て行きました。二人がいなくなってからサキちゃんに尋ねます。 「揉めるって何かあるの?」 「私もよく分かんないんだけど、錦の方に近付くとダメみたい」 「ニシキ?」 「分かんない? う~んっと、ここから北西の方、錦通りの北側で大津通りより西側の繁華街。そっちの方でお店やってる会社とうちの会社、しょっちゅう喧嘩してるみたいなの。だからそっちに近付いてビラ撒いたりすると揉めるみたい」 「そうなんだ」 よく分かんないけど。 「縄張りって言うの? そう言うのがあるみたい、会社同士で」 「ふ~ん」 ま、よく分かんないし、知らなくてもいっか。  しばらくするとお店の中をうろうろしていた後藤さんが入り口の方へ行き、お店の中のほうへ振り返ってこう言います。 「よし、灯を入れるぞ、みんなよろしくな」 女の子たちは相変わらずカウンター前のソファーに座ったままですが、なんとなく姿勢を正して身だしなみを確認しています。 「ヒ、って?」 またサキちゃんに尋ねました。 「開店ってこと」 「ヒを入れるって言うんだ」 「看板に灯りを入れるってことみたいだけど」 「ああ、なるほど、そういう意味なんだ、なんかすごい」 「すごくないよ、ママは普通に、店開けるよ、って言うのに」 「そうなんだ」 「カッコつけてんのよ、後藤さん」 ふ~んって感じで聞いていたらサキちゃんが体を寄せてきました。 「言うの忘れてたけど、あんた、お酒飲んだらダメよ」 「えっ?」 「お客さんに勧められると思うけど、口付けて舐めるくらいにしときなさいよ」 「あっ、うん」 「ほんの一口、二口でも、閉店まで続けてると絶対に酔っぱらうからね」 「分かった」 「それと、ビールも飲んだことない?」 「うん」 「多分最初は舐めただけでも苦くて、ゲエってなるんだけど、絶対そんな顔しちゃだめよ」 「えっ……、分かった」 「私も最初は、こんなの人間の飲むものじゃないと思ったから。今じゃ平気だけど」 ビールを飲んだ後の叔父さんの臭い息を思い出して、ゲエってすでに思ってました。 「それともう一つ、大事なこと忘れてた」 サキちゃんがまたそう言います。まだあるんだ。 「あんたの生年月日は?」 「ええ? 昭和二十五年七月一日」 サキちゃんは知ってるはずだけど、と思いながら答えました。 「絶対それ言ったらだめだよ」 「えっ、なんで?」 「だって、あんたここでは二十歳なんだもん」 「あっ、そっか、じゃあ二十三年生まれってことにするの?」 「まあそうだね。私は去年二十歳になってるから二十二年生まれになってるけどね」 「そうなんだ。サキちゃん私より年上なんだ」 「まあここではね。で、じゃあ干支は?」 「トラじゃなくて……、ネズミ?」 「それ、考えないで答えられるようにね」 「わ、分かった」 難しいかも、私は二十三年子年生まれ、私は二十三年子年生まれ、頭に刻み込まないと。 「サキちゃんは何年生まれ?」 試しに聞いてみました。 「私はイノシシ女だよ」 すぐにそう返ってきました、さすが。
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