第一部 06

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第一部 06

 昭和四十三年 六  とある男性の腕を取って店の出口へ誘導していました。でもその男性がカウンターの前で立ち止まります。 「原さん、もうみんな出ちゃいましたよ」 立ち止まったその人にまた同じセリフを言いました。この人は高松組の現場所長の一人、原さんって方。会社の若い人や下請けさんを連れて週一以上の頻度で来て下さる方。今日も今の現場で部下に付いている滝沢さんと言う十九歳の方と下請けの方を一人連れて来ていました。十九歳に飲ませていいのか、と思うけどそうは言えない私。それにこの滝沢さん、二十歳だと偽っている私のことを、お姉さん、なんて呼んでいつも甘えてきます。甘えた振りして抱きついて来て胸を触ります。ギュッとつまんでその手をどけてやるけど、そうされることに喜んでるみたいなので始末が悪いです。今日なんて胸に顔を埋めて来た。なのでほっぺを思いっきりつまんでやったら笑顔でした。変態かも。 「いや、やっぱりまだ帰れない」 私の言葉に原さんがそう返してきます。 「十一時までに地下鉄乗らないと帰れないんですよね。もう十時半過ぎてますよ」 そう、この人は電車で帰ると言う人。どこまで帰るのか知らないけれど、十一時までに栄で地下鉄に乗らないと次の乗り換えの終電に間に合わないと言います。なのでこの時間で帰るんだけど、いつも店を出るまでに手間が掛かります。 「でも今日はサユリちゃんのおっぱいまだ触ってない」 カウンターに入っているサユリさんの方を向いてそう言います。するとサユリさんがこう返します。 「私のおっぱい、一回千円ですよ、払います?」 「触るだけでか」 原さんがそう言いながら一歩カウンターに近付きます。 「そっ、一回一秒、千円」 「い、一秒? 分かった、十秒揉ませろ、請求書に付けとけ」 また一歩近付きました。 「揉む? って、請求書で出したら私に入らないじゃないですか」 「じゃあどうすんだ」 「現金ですよ、現金。領収書も無しで」 「自腹で一万円は高いなあ」 それでも十秒触る気なんだ。そして請求書と言ったけど、今日の分は一緒に来た下請けさんが払うんじゃないのかな。  サユリさんがこう言います。 「マリちゃんなら五百円。ううん、大サービスで三百円でいいですよ」 ちょっとちょっとサユリさん、勝手に私の胸に値段付けないで。 「だ、ダメですよ。私は二千円ですからね」 そう言って、掴んでいた腕を離して胸の前をガードしました。するとその私の胸元を見て原さんがこう言います。 「いや、滝沢が散々触ったやつはいいや」 人のおっぱいを、やつ、とか言わないで。でもそう言うと戸口に向かって歩き始めてくれました。 「たまには俺の隣に来いよ」 と、サユリさんに一言言ってから。サユリさんは、ありがとうございました、と言いながら笑顔で手を振っています。  お送りするために原さんの腕を取って階段を下りていくと、下では酒井さんとルミさんが、滝沢さんともう一人の方とおしゃべり中でした。滝沢さんはルミさんにほとんど抱きついた状態で、ルミ姉さん、なんて言ってる。そんな滝沢さんに原さんを引き渡そうとしたら、 「滝沢、これ触ると二千円らしいぞ」 と言いながら、原さんが私のおっぱいを掴みます。ちょっと、そう言ったからには二千円下さいよ。  そしてルミさん達と声を合わせてこう言いました。 「ありがとうございました」 はあ、やっと帰ってくれた。  この街で暮らし始めて二か月経ちました。あっという間に今日はもう十一月です。お店の服は夏も冬も関係なく、同じノースリーブのワンピース。さすがにもう外でこの格好は寒いです。なのでルミさんと階段を駆け上がってお店に戻ります。ヒールの靴にもすっかり慣れました。  最初の一週間ほどはずっとカウンターでした。サユリさんかカオリさんがいつも一緒。この二人のどちらかがカウンターに入っていることが多いです。理由はこの二人を目当てに来る一人のお客さんが多いから、多分。パープルでは別格クラスの美人の二人、さすがって感じです。  前にサユリさんから聞いた通り、カオリさんも元々は集団で出稼ぎに来た人だそうです。でもすぐにその工場から逃げ出して、辿り着いたのが夜の街。当初は、話したくない、って本人が言うところに一年ほどいたそうです。その後、パープルと言う名前になる前のこのお店に来たそうです。パープルと言う名前になったのは五年くらい前ってことでした。なんで名前が変わったのか聞いたら、未成年が働いてるって警察が来たそうです。そしてそのお店は閉店。数か月後、パープルとして再開したそうです。警察が入った時、カオリさんも補導されたのか聞いたら、その時カオリさんはもう二十歳を過ぎていたそうです。そう、カオリさんは今、二十六歳でした。  一週間カウンターで仕事を覚えてからホールに出ました。ホールではチエさん、マサコさんに付くことが多かったです。多分この二人はお客さんのあしらいが上手だから。ホールに出ても基本はカウンターと同じ。ボックスのテーブル越しにお客さんと会話するだけです。お酒は同じように勧められるけれど、スローペースで上手に飲めるようになってきました。と言うか慣れました、いえ、強くなったと言うのかな。ビール数杯、水割り数杯程度なら、もう普通に歩いて帰れます。それ以上飲まされても、何とか自分で歩いて帰ってます。  ボックスに付くとやっぱり隣に座れと言うお客さんがいます、時間が遅くなると特に。遅い時間はお客さんが完全に酔っぱらってるからかな。隣に座らされると肩を抱いてくる人がほとんど。そして半分くらいの確率で胸を触られます。でも、ほんとにタッチって程度に触ってくるだけ。しっかり触ってくる人はそんなにいません、そんなにはね。  本気で触ってくる人は触ると言うより、揉む、です。でもそう言うお客さんにはボーイさんがすぐに声を掛けに来てくれます。それにチエさんとかが一緒だと、本格的に触られる前にタイミングを見て、 「マリちゃん、氷もらってきて」 とかって言って席を立たせてくれます。  二か月経った今では一人でボックスに付くことも増えました。でもなんとかこなしています。出来るだけ会話を弾ませて、お触りの方に気がいかないようにしたりして。まだあんまりうまくいかないですけどね。でもまあ何とか、これが仕事ってことでやって行けそうに思えてきています。  部屋に戻ってからの方も何とか。慣れたなんて言うのは変だしそうは言いたくないけれど、まあ、慣れたと言うしかないのかな。最初の十日間ほどはほんとに毎晩続いてうんざりしました。本来は私の住む部屋に泊りに来てはいけないはずの、愛、のボーイさんまで通ってきたから。  五、六日経った頃にはされるとあそこに痛みを感じたりしてほんとに嫌気がさしました。痛いと言ってもやめてくれないんだもん。こんなところでやっぱり暮らせない、本気でそう思いました。そう思った頃、生理が来ました。さすがにされませんでした、三日間ほど。そしてその後は週に三日か四日くらいの頻度になりました。一人でぐっすり眠れる日が出来ると、まあいっか、と思ってしまう。こんな思考になる私はもう異常なんだろうけど、そんな感じで慣れました。あっ、生理については失敗しました。私は生理中でもそんなに体調が悪くなったりしません。本調子ではないし、下腹部の気持ち悪さなんかはあるんだけれど普通に過ごせます。でもサキちゃんはほんとに体調が悪くなるようです。高校の時も生理で学校を休んでいた日があったぐらい。それは今も変わらず、酷いと一週間くらい辛いようです。なのでお店を休むこともあるとか。ここでお店を休むって言うのは別にどうでもいいんだけど、一週間辛いって言うのは先に聞いておくべきでした。なぜかと言うと、一週間辛い、とみんなに言ってるので、サキちゃんは生理が始まると一週間されないのです。ほんとに、そう言うことは先に教えておいてよ。  お店に戻るともう一組、お客さんが三人帰るところでした。ありがとうございました、と頭を下げて、見送りに出るエツコさん、サヨさんと入れ替わるように中に入りました。これで残るお客さんは二組。でも一組は小倉商店さんで十人の団体。そして今日は金曜日。金曜日の小倉商店さんは二時くらいまで帰ってくれません。はあ、まだまだ長い夜になりそう。  送り出したお客さんのいたボックスを片付けてカウンターにいたら、ママから小倉商店さんの所に付くように言われました。小倉社長から一番遠いところを、と思ったけれど座れるところがなく、中間ぐらいの所に座りました。目の前の三十過ぎくらいの人が、隣に来い、と言うけれど、座れる隙間がありませんでした。なので断っていたら膝の上に座れとか言い出します。それは絶対に嫌。どうしようかと内心困っていたら社長の方が騒がしくなりました。なのでそっちを見ると、社長の横に座るカオリさんが社長に頭を掴まれてキスされてました。カオリさんは手で社長を引き離そうとしているけど離れません。近くに立つ酒井さんもさすがに困った表情。でも黙って見ています。見てないでさっさと止めなよ、と思っていたら、いきなりサユリさんが小倉社長を突き飛ばすようにして、すごい勢いで立ち上がりました。 「舌入れるなんて信じらんない」 口を拭いながら小倉社長を睨んでそう言うカオリさん。そしてそのまま更衣室の方へ行ってしまいました。 「なんだあいつ、照れてんのか」 一瞬ムッとした顔に見えた社長は大きな声でそう言うと、同じくらい大きな声で笑いました。それでみんなも笑います。カオリさん大丈夫かな、泣きそうな顔だったけど。そう思いながら私も笑顔を作っていました。すると、社長と目が合っちゃいました。 「おお? お前初めて見るな、こっちこい」 呼ばれてしまいました。社長の方を見るんじゃなかった。  初めて小倉社長の隣に座りました。社長が水割りを作ってくれるけど、半分くらいウィスキーが入っています。一口飲むと喉に引っ掛かってむせちゃいます。こんなの飲めないよ。でもそんな私を見て機嫌よく笑う社長。  小倉社長が左腕を私の肩に回して抱き寄せるようにしてきます。なので私は両手でグラスを持って小さくなっていました。しばらくは社長と同じテーブルにいる人たちと会話していました。でもそのうち社長がグラスをテーブルに置きました。そしてグラスを持っていた右手を私の前に持ってきます。やっぱり触られるんだ。斜め前に座るチエさんと目が合いました。我慢して、って目で言ってます。と思っているうちに左胸を触られていました。 「別に嫌じゃないだろ?」 耳元で社長がそう言いました。 「いえ、うちはそう言う店じゃないんで困ります」 そう返しました。そう返しながら酒井さんを見るとこっちを見ていない。見てない振りをしてる。 「そう言うこと言うなよ」 「でもほんとにダメですよ」 そう言いながらグラスを持った両手で社長の手をのけようとするけどダメでした。 「分かった分かった」 社長はお構いなしにそう言って触り続けてきます。周りの人たちはそんな社長をチラチラ見ながらも普通に会話を続けています。もう誰か何とかして。  そしてそして気付いたら、社長の手が服の中に入ってきました。服の中どころかブラの中に。身体をよじったりしてやめてもらおうとしてもダメでした。ダメどころかさっきよりしっかり肩を抱かれて動けなくなりました。社長は私の胸元を覗き込むように触り始めます。多分、社長にはブラの中が見えちゃってる。ちょっと酒井さん、いい加減止めてよ。と思った瞬間立ち上がっていました、私が。だって、胸の先端をキュッて摘ままれたから。  立ち上がる時、無意識に社長の体を押しのけようとしたみたいで、グラスを社長の方に傾けていました。なので社長の胸に水割りを掛けたような格好でした。 「おお、何すんだお前」 大声でそう言いながら社長も立ち上がります。 「すみません」 そう言いながらグラスを置いて、おしぼりを取ると社長の服を拭きました。でも社長に突き飛ばされました。 「触るな、生娘じゃあるまいし、何考えとんだ」 床によろけた私を見降ろして社長が怒鳴ります。 「すみません、ほんとにすみません」 「すみませんじゃねえよ、びしょびしょじゃねえか、たわけ」 小倉社長は私をもう一度そう怒鳴りつけると、 「おう、帰るぞ」 と、一斉に立ち上がって呆然と見ていた全員にそう言って出口に向かいます。ママが社長に駆け寄って謝りますが社長は聞きません。マネージャーまで出て来て頭を下げますがダメです。 「カオリといいあの女といい、どうなってんだ、ばかやろ」 小倉社長はマネージャーにそう言い捨てて出て行きました。  小倉商店さん達が帰ると、もう一組残っていたお客さんもすぐに帰ってしまいました。故にそこで閉店となりました。看板の電気を消してからマネージャーがカウンター前に全員を集めます。 「おい、何があったのか話せ」 マネージャーが私に向かってそう言いました。 「その、胸を触られてたんですけど……」 「そのくらいで大騒ぎするか? 分かってるだろ」 マネージャーがほとんど怒鳴るようにそう言います。でも続けました。 「でも、直接触られて、その、乳首をギュってされたから驚いて……。すみませんでした」 「乳首をか、全く。で、カオリは?」 「舌入れられたんです。それでも我慢しろって言うんですか?」 カオリさんは明らかに怒った口調でした。でもマネージャーは怒鳴り返します。 「なんだぁその言い方は」 「いえ、すみません。でも、我慢できませんでした」 カオリさんがトーンダウンしました。 「それでも客突き飛ばして逃げることねえだろ、ええ? カオリ、お前何年やってんだ、こいつとは違うだろ」 マネージャーはまだ怒鳴り口調です。そして私のことは、こいつ、呼ばわり。私の名前は出て来ないみたいです。すると今度は私が怒鳴られました。 「おい、お前はお前で何考えてんだ、客に水ぶっかけた? 一回死ね」 目の前に来てそう言われて、恐さしかありませんでした。 「あのなあ、誰に食わしてもらってると思ってんだ。あいつらに食わしてもらってんだぞ。乳首捻られたぐらいで騒いでんじゃねえよ。平気な顔してありがとうございますくらい言って見ろ」 マネージャーはそう言うとカウンターの方に少し下がってこう言います。 「全員よく聞けよ。いつも言ってるだろ、客は機嫌よく帰らせろって。機嫌よく帰ったら機嫌よく払うんだよ」 みんな俯き加減で反応しません。マネージャーは続けます。 「最後の客だってしらけちまったから帰っただろ。あれは機嫌よく帰ったんじゃねえぞ。俺があの客だったら今日の分は払いたくねえぞ、分かってんのか」 みんな反応しません。するとマネージャーが更に声を荒げて言います。 「分かってんのか!」 「はい」 まばらに返事がありました。私は出来ませんでした。 「何だぁその返事は、分かってねえのかよ」 マネージャーが一人一人の顔を覗くように歩きます。 「分かってねえならお前ら全員クビだ」 そしてそう言いながらマネージャーはカウンターの前に戻ります。戻って全員の方に向き直ると普段の声でこう言いました。 「もう一回言う。何があっても客は機嫌よく帰らせろ。分かったな」 「はい」 今度は全員大き目の声で返事しました。 「よし、片付けろ、今日は仕舞だ」 マネージャーは返事を聞くとそう言いました。みんなはホールやカウンターの中に散っていきます。でもカオリさんはマネージャーの前に進み出ました。 「すみませんでした」 そしてそう言って頭を下げます。それを見て私も慌ててカオリさんの横に並んで謝りました。 「取り敢えずもういい、二度とやるなよ」 マネージャーはそう言うと、手で私達を追い払うような仕草をします。 「すみませんでした」 二人でもう一度そう言ってマネージャーの傍を離れました。  マネージャーの傍を離れるとママに呼ばれました。 「マリはホールの片付け手伝って。カオリはもう上がっていいわよ」 ママからも怒られるのかと思ったらそれだけでした。カオリさんが私の肩を叩いてこう言います。 「じゃあね。早く寝て忘れなさい。私もそうするから」 「はい」 カオリさんは更衣室に向かいました。お店の中を見回すと、残っているのは寮住まいの人ばかりでした。通いの人はママが帰らせたのでしょう。そう思っていたら、更衣室の方から私服に着替えたヨウコさん、サヨさんが出てきました。 「お先ね」 二人とも私にそう声を掛けて帰って行きました。その後も一人、また一人と帰って行きます。最後はカオリさんとチエさんでした。この二人は仲が良くて住んでいるアパートもすぐ近くのようです。なのでいつも一緒にタクシーで帰っています。ボックスのテーブルに残ったゴミなんかを集めていた時に二人が傍を通ったので、 「お疲れさまでした」 と、声を掛けました。するとチエさんは、お先、と返してくれましたが、カオリさんは小さく頷いただけ。なんだか俯いて泣いているように見えました。いえ、泣いていたのでしょう、ハンカチサイズのタオルを顔に当てて表情を見せなかったから。カオリさんのようなベテランでもショックだったんだ。  マネージャー、ママ、後藤さんを残してお店を出ました。お店と部屋との行き来にはコートを着ているので、今はまだそんなに寒くはありません。それに歩いて五分かからない距離だし。ちなみにコートも部屋にあった物。コートはお店の支給品ではないので、以前いた誰かの物みたいだけど。  帰り道、みんな口数が少なかったです。私に気を遣っているのかな。ルミさんが自分の部屋の方に別れたあと、サユリさんと話していた紘一さんも離れて行きました。どこ行くんだろう、と思っているうちに帰り着きました。  一番後ろから玄関を入って、台所のテーブルにへたり込みました。このテーブル、上に載っていたものを全部片づけて、テーブルセットとして使えるようにしました。と言うか、サユリさん達の部屋以外はこの二か月でかなり片付けました。この部屋の四人が使わないお店の服や靴は、全てお店の更衣室に持って行って減らしました。それ以外の以前の人が使っていた不用品なんかは全部捨てました。なので今ではかなり広くてすっきりした部屋になっています。  テーブルに突っ伏して、今日はもうこのまま寝たい、と思っていました。なので離れて行った紘一さんが早く一人で帰ってくることを願っていました。そう、一人でって言うのが重要。この部屋の五人が揃ったら、そのあと誰か来ることはまずありません。この部屋の五人以外は鍵を持っていないから。そして紘一さん一人だと静かに眠れます。紘一さん一人の時はまず何もしません。してもサキちゃんとだけ。はっきり確認したことはないけれど、この二人はどうやらそう言う仲のようです。酒井さんは先に帰ったみたいでいなかったけど、後藤さんはまだお店にいました。その後藤さんなんかを連れて帰って来られたら最悪。今日はほんとにしたくない。されそうになったら蹴飛ばしちゃうかも。  なんだか少し震えていました。寒いからではありません。小倉社長にしちゃったことででもありません。マネージャーに怒鳴られたことでです。だって、本当に怖かったから。殴られるかと思った。あんな怖い人に本気で殴られたら、私なんて一発で死んじゃうかも。そのくらいの怖さを感じていました。 「大丈夫? あんまり気にしない方がいいよ」 と、ユキさんが目の前に座ってそう言ってくれます。 「大丈夫です」 体を起こしてイスに座り直しながらそう答えました。 「そのうち誰かやるとは思ってたけど、マリになるとはね」 サユリさんがタバコを吸いながら灰皿を持ってユキさんの隣に座りました。そのサユリさんにこう返しました。 「何をですか?」 「小倉社長を怒らすの」 サユリさんが煙を吐きながらそう言います。 「カオリさんだと思ってたけどね」 そしてそう続けました。そう言うことか。 「私も今週危なかったんだよ。もうちょっとでマリちゃんみたいに水割りぶっかけるところだった」 ユキさんがそう言います。そう言えば今週は火曜日辺りにも小倉さんはお店に来ていました。忙しい日だったので気付かなかったけど、その時ユキさん隣に座ったんだ。 「マリちゃんみたいに直接触られたりしてたら間違いなくやってた」 そう言ったユキさんにサユリさんがこう言います。 「私、なぜかあの社長の隣に座ったことないんだけど、そんなに触ってくるの?」 「触ってくるんじゃなくて、触り続けてくるんですよ」 「うわ、そうなんだ」 「しかも服の上からでも乳首摘まんでずっとクネクネしてくるんですよ」 「クネクネ」 「ほんとに嫌ですよ。あの日もあと五分カオリさんが代わってくれるの遅かったら、私がやってたかもって感じですよ」 本当に嫌そうな顔でそう言うユキさん。そこに帰るなり部屋に行っていたサキちゃんがTシャツ姿で現れました。でもその格好、寒くない? 「時間早いですけど、お風呂入らないですよね」 そしてそう言います。 「うん、お風呂は明日でいいや」 サユリさんが答えます。 「ですよね」 そう言うとサキちゃんは流しの湯沸し器からお湯を出し、タオルを絞り始めました。そしてTシャツを脱ぎながら洗面所の方へ。 「私も今日、直接触られちゃったからなんだか気持ち悪くて」 サキちゃんはお湯で絞ったタオルで胸や首を拭きながらそう言います。 「誰に?」 ユキさんがそう聞きます。 「五十嵐さん」 「ああ、いたねぇ」 「え~、来てたんだ、金払い悪くて出入り禁止になったって聞いてたけど」 サユリさんに続いてユキさんがそう言います。 「なんかツケは全部払ったみたいよ。今日も現金で払って帰って行ったし」 サユリさんが席を立ちながらそう言いました。 「五十嵐さんも触り魔だからねぇ、出入り禁止で良かったのに」 ユキさんがそう言います。 「でもすぐに酒井さんが気付いてやめさせてくれましたけどね」 サキちゃんがTシャツを着ながらそう言います。酒井さんも五十嵐って人は止めるんだ。 「小倉社長もやめさせて欲しかった」 思わずそう言ってました。するとユキさんがこう言います。 「小倉さんは売上凄いからねえ」 「それでも限度がありますよね、そう言う店じゃないんですから」 サキちゃんがそう返します。 「うん、だからある程度の所でやめさせるように指示してたみたいだよ、マネージャー」 「ええ? 酒井さん、見て見ぬ振りでしたよ」 ユキさんのセリフにそう言ってました。 「ああ、指示されてたのは後藤さん。すぐ後ろにいたでしょ、何もしなかったけど」 いたっけ? でも後藤さんならダメだよ、揉めそうなことには絶対に関わらないんだから。マネージャーも言う人を間違ってるよ。  そんなことを話していたら、 「あんたたちも着替えたら?」 と、サユリさんがシミーズ姿で戻ってきました。そして台所の流しで湯沸し器からお湯を出し、顔を洗い始めます。それを見て私とユキさんも腰を上げました。  私が最後に顔を洗っていたら、 「戻りました」 と、玄関から紘一さんの声。 「遅い!」 と、サユリさんがその声に応えます。 「いや、結構まだ混んでたんですよ」 そう答える紘一さん。サユリさんの用事でどこか行ってたの? と思いながら玄関の方を見ていたら、紙袋を抱えて紘一さんが入ってきました。そしてソースのいい匂いがしてきます。何か買ってきたの? 「サキ、ビールお願い、とりあえず二本かな」 「はーい」 サユリさんの指示に軽い返事で答えるサキちゃん。今から飲むの? そう思っていたら私も呼ばれました。 「マリも早くこっちおいで。今日はパッと飲んで寝ちゃおう」 そう言われて居間の座卓に行くと、紘一さんが買って来たものを並べています。焼きそば、お好み焼き、餃子、そして私の好きなとんちゃん玉子。甘目のお味噌で炒めた豚肉と玉ねぎが入っているオムレツです。みんなでたまに行く鉄板焼き屋さんのお料理でした。 「えっ、なんで?」 なんだかそんな言葉が口から出てました。 「今言ったでしょ、パッと飲んで寝るよって」 サユリさんがまたそう言います。私に気を遣ってくれた?   あれよと言う間にサユリさんの隣に座らされて、ビールを注がれました。そして、乾杯、の声と共に五人の宴会が始まりました。 「これ全部マリが食べていいからね」 と、とんちゃん玉子を私の前に置いてサユリさんがそう言います。 「そんな一人でなんて」 「その代わり他のは食べたらダメよ」 「え~、餃子もお好み焼きも食べたいです」 「じゃあ私もこれもらうね」 と、ユキさんがとんちゃん玉子の一番真ん中を取ります。 「こら、一番おいしいとこから取るな」 サユリさんがそれを見てそう言います。そう、実はみんなこれが好きなんです。その間に焼きそばを半分ほど取った紘一さんにサキちゃんが怒り出す。そして紘一さんのお皿から焼きそばを食べている。こうやって食べているとビールもおいしいと思えてきます。思っちゃいけない年齢なんだけどそれは置いておいて。そして楽しくなってきます。怒られたことなんて頭のどこかに隠れちゃいました。そしてサユリさんが最初に言った通り、パッと飲んで寝ちゃいました、気持ちよく。  騒ぎの翌日の土曜日の朝礼の後、ママからカオリさんと私にお説教がありました。同情的な言葉もあったけれど、とにかくお客さんを不愉快にさせてはいけない、と言うことを念押しされました。そして私はまたカウンターに入るように言われました。正直、ボックスのフォローもしないといけないカウンターよりは、ボックスに付くホールの方が楽なんだけど。でも気分的にはカウンターの方が好きです。とにかくカウンターの中にいる限りは、隣にお客さんが来てベタベタされることはないから。マネージャーからは特に何も言われませんでした。そして後藤さんがお休みでした。  その日カウンターはカオリさんと一緒でした。 「昨日は災難だったね」 カオリさんがそう話し掛けてきます。 「カオリさんも」 「まあね。マリちゃんって小倉さんの隣座るの昨日が初めてだった?」 「はい」 「初めてで手を入れられたんだ」 「はい」 「ほんとに災難だったね」 そんな会話から仕事が始まりました、と言っても土曜日なのでお客さんはちらほらとしか入ってきません。三人組が入ったあと、二人組が二組続いた後は途切れました。なのでカウンターではボックスに入った三組のフォローだけ。お水、氷の補給をしたり、注文の入ったチャームを届けたり、そんなことだけでした。  九時過ぎに二人組の一組が帰って行って、今日はこのまま終わるかな、なんて思っていたら十時前から忙しくなりました。まず高松組の方が四人組で一組来て、その少し後に河合工務店の方が六人で見えました。その十人が落ち着いた頃、高松組の別の一組がまた三人。暇なまま終われるかなって思ったけど、まあ、お店としてはこのくらい入ってくれないと困るからいっか。  最後の三人組が入った後、カオリさんはホールに呼ばれてカウンターを離れました。そして一人でホールのフォローをこなしていた十一時半頃、桜井さんが来ました。 「遅い時間にご免。十二時には帰るからビール頂戴」 そう言いながら私の目の前のカウンターのイスに座ります。 「いえ、大歓迎ですよ。いらっしゃいませ」 そう言っておしぼりを渡してからビールを出しました。そしてお通しを用意しながら話し掛けました。 「土曜日なのにほんとに遅いですね」 「今日は東京行ってたんだよ、呼び出されちゃって」 「出張ですか?」 「日帰りだけどね」 そう言いながら桜井さんが自分で二杯目を注いでいます。手酌させてしまいました。 「すみません、気付かなくて」 そう言いながらお通しを出しました。 「いやいやいいよ、それよりマリちゃんも」 桜井さんはそう言ってビールの瓶を私の方に傾けます。 「あっ、頂きます」 ビールグラスを手に取ってそう返しながら注いでもらいました。 「一旦帰ったんだけどなんか飲みたくなってね」 「えっ、一度帰ったんですか?」 「そうだよ」 「日帰りで東京なんて、お疲れだったんじゃないですか?」 「まあ、でもうちはすぐ近くだから」 「そうなんですか?」 「うん、ここと会社のちょうど中間くらい。歩いて五分掛からないかな?」 そう話しながらビールは二本目になりました。 「そうなんですか。でも、一度帰ったのにまた出掛けるなんて、奥さんに何か言われませんでした?」 「言ってくれる奥さんがいたらいいんだけど、僕は独り者だからね」 「えっ? そうだったんですか」 「そうだよ、知らなかった?」 「はい」 「うちの会社だとペーペーの暇なうちに相手が見つからないとね」 「そうなんですか?」 「僕見てたら分かるでしょ? 毎晩遅いし休みもろくにないし。いい人見つけても口説く時間もないからね」 そう言えば桜井さんと同じ会社の文通相手のあの人も同じようなこと書いてたかも。その人は十歳上だから二十八歳。桜井さんはもう少し上かな? 「やっぱりそうなんですね」 思わずそう言ってました。 「えっ、やっぱり?」 「ああ、いえ、その、お忙しそうなんでやっぱりそうなんだと」 文通相手のことを一瞬話そうかと思いましたがやめました。 「そっか~、やっぱりそう言う風に見られてるのか」 「いえ、そんなことないですよ。そう言う話になったからそう思っただけです」 適当にそう返しました。 「と言うことは、そう言う風に見えてるってことだよね」 うう、どうしよう。 「いえ、そうじゃなくて、えっと、桜井さんの年だと奥さんがいると思ってたんですよ。だから最初にそう言いましたよね」 「僕の年って……、言った覚えないから見た目でってことだよね。おじさんに見えるってこと?」 ああ、なんか話方を間違えたかも。 「そんなこと言ってないじゃないですか」 「そうかなあ」 「そうですよ」 「まあ僕は昔から年より老けて見られるからね。マリちゃんは二十歳だったよね」 「はい」 と返事するのは少し心が痛むんだけどしょうがないです。 「いいよなあ、二十歳ってだけでも十分若いのに、実際の見た目は十七、八くらいに見えるもんな」 「そ、そうですか?」 まずいかも、話変えなきゃ。 「うん、高校生って言っても誰も疑わないよ、多分」 ハハ、だって本当ならまだ高校生だもん。って言えないけど。なんて思ってる余裕はなかったです。だって、桜井さんの目は全部見抜いてるって感じに見えたから。 「そんなことないですよ。それより桜井さんはおいくつなんですか?」 ああ、早く話題変えなきゃ。 「いくつに見える?」 「え~、三十二歳くらいですか?」 「ほら、やっぱりそのくらいに見られるんだ。なんでだろなあ、会社入った頃からずっと三十過ぎだって言われるんだよね」 「そうなんですか? で、ほんとはいくつなんですか?」 「マリちゃん、男に年を聞くもんじゃないよ」 「え~、それって、女性に、じゃないですか?」 「そうだっけ。まあ、三十二よりは若いってだけ言っとくよ」 じゃあ、あの人と一緒くらい? あの人も実際に会うとこんな感じなのかな。しゃべり方とかの雰囲気、手紙の文章に似てる気もするし。 「あ~、なんかずるい。でも逆に言うと、四十歳くらいになったら若く見られるんじゃないですか?」 「お、うまいこと言うねぇ。よし、ビールなくなったから帰ろうかと思ったけど、気分が良くなったから水割り一杯もらおうかな。付き合ってよ、それで帰るから」 「分かりました。ちょっと待ってくださいね」 年齢の話題は避けたいけれど、桜井さんとの会話は楽しいです。  週明けの月曜日、後藤さんはまたお休みでした。朝礼ではただお休みとだけ言われましたが、お休みの理由はなんとなく分かっていました。少なくとも、私と同じ部屋の人達は。  土曜日、仕事が終わって部屋に戻ると、紘一さんがみんなに話してくれました。紘一さんは酒井さんから聞いた話です。金曜日、先に帰ったと思っていた酒井さんはマネージャーの部屋にいたそうです。そして小倉商店さんの所で何があったのか詳しく聞かれたそうです。なので酒井さんは見た通り報告しました。カオリさんが頭を抱えられて無理矢理キスされていたこと。私の胸元にかなり長い間社長の手が入っていたこと、なんかを。そしてその時、後藤さんがどこにいたかを。  小倉商店さんはカウンターから続く左側奥のボックス三つに座っていました。小倉社長は一番奥のソファーに。そして後藤さんはその後ろ、トイレや更衣室に続く通路の入り口にいました。なぜなら小倉社長をマークして、羽目を外し始めたら止めるように言われていたから。でも何もしなかった。  良識ある他のお客さんから、一部のお客さんによる目に余る行為を指摘されていたようです。特にホステスに対する行為を。なので後藤さんに厳命したばかりの日だったようです。なのでマネージャーは怒りました。ホステスが押さえつけられてキスされている。そんな状況を他の客の立場で目にしたらどう思うかと。後藤さんは、相手が小倉社長なので声を掛ける方がお店にとってマイナスだと判断した、と言い訳。マネージャーは、そんな行為を許容する店だと思われる方がマイナスだと言ったはず、と激怒。そしてそこからはもう言葉ではなく、手や足によるお説教だったようです。そう、殴る、蹴る、です。  マネージャーが店仕舞いをママに頼んで帰った後、後藤さんの顔は腫れあがり、一人では立ち上がれないほどだったようです。血で汚れた床掃除などはやっておくからと、ママが酒井さんに後藤さんを連れ帰るように言ったそうです。後藤さんは病院に行かないと言ったので、酒井さんが自宅までタクシーで連れ帰ろうとしたらそれも拒否。一人でタクシーに乗ったようです。なので酒井さんもその後は分かりませんが、あの腫れあがった顔は一晩では治まりそうもなく、恐らくそれで今日は休んだのだろうと。  聞き終えて、私は怖さだけが残りました。サキちゃんから聞いた、店をやっているのは怖い人の会社、と言う話。そしてマネージャーは更にその上の会社の人だと言った紘一さんの言葉。それらが本当のことなんだと実感した感覚でした。パープルにはいませんが、愛、のボーイさんには背中に絵がある人が二人います。あの人たちも会社の人かも。いろんなエッチのやり方を要求してきますが、恥ずかし過ぎるものは拒否していました。それで不機嫌になることも。でもこれからはこの部屋で絶対に怒らせないようにしよう、そう思いました。  さらに翌日の火曜日の朝礼前、黒岩と言う男の人がパープルに来ました。後藤さんと同じくらいの三十歳過ぎくらいの太った人。そして、その人を見て明らかに嫌な顔をする後藤さん。その後藤さんの顔はまだ腫れているところがあるし、変色しているところもありました。三日ほど経ってもまだそんな状態だなんて、いったいどのくらい殴られたんだろう。鼻の形も前と違う感じがするし、足もまだ引きずっています。怖い、後藤さんが、ではなく、人をここまで痛めつけるほどの怒り方をするマネージャーが、そしてこの会社のことをそう感じました。  そのマネージャーは後藤さんを見て、 「客の前に立てる顔になるまで出て来るな」 と言って帰らせました。そして黒岩さんをみんなに紹介します。 「四、五年前からいる奴は知ってると思うが、前の店の時にいた黒岩だ。まあ、前の店がなくなってから違う仕事してたが、今日からここに入ってもらう。一応チーフ候補だ。みんなこいつの言うこと聞けよ」 そしてマネージャーに促されて黒岩さんが口を開きます。 「黒岩です。まず、ユキエママ、初めましてですね、よろしくお願いします」 にこやかな笑顔でそう言います。ママは控えめな笑顔で挨拶を返しました。 「マネージャーが言われた通り、ここがパープルになる前にいました。えーっと、その頃からいる子、二人、三人かな? またよろしく」 カウンター前に集まったホステスたちを一人一人見ながらそう言います。カオリさん、チエさんが無表情で小さく頷き返します。もう一人は誰か分かりませんでした。 「そして、初めましての子はこれからよろしく」 にこやかにそう言われてみんな小さく頷きます。よろしくお願いします、と、小さく返す人も。 「まあ、僕が来たからと言って何も変わりません。皆さんは今まで通りやってください。お客さんに機嫌よく飲んでもらって、機嫌よく帰ってもらう、それだけです」 ほんとに愛想の良い、にこやかな顔でそう言いました。その後はママがいつも通りの朝礼をやって開店に備えます。私はまたカウンターに入るように言われました。今日はエツコさんと一緒。  黒岩さんはお客さんにも私達にも愛想の良い人でした。終始ニコニコしています。ホステスを強引に隣に座らせようとするお客さんに声を掛けるときも笑顔のままです。そのお客さんが不機嫌顔になると、一層の笑顔で世間話に持ち込んでいたり。なんだか後藤さんとは全然違います。大声で盛り上がり始めたボックスにもすぐに寄って行って、しらけさせないタイミングで大声を抑えるように話し掛けています。なんだか頼りになりそうな人でした。  その日は一時半頃にお店を出ました。黒岩さんは、 「泊めてくれ」 と言って、私達と一緒に帰ります。そして部屋に戻ると、着替えたり化粧を落としたりしている私達をよそにビールを飲み始めます。最初に顔を洗ったサユリさんがビールに付き合わされました。そしてそこにサキちゃんが加わり、最後に私が顔を洗い終えると、 「よし、そろそろ寝るか」 と、ビールを飲み干します。そして立ち上がりながら、 「サユリだったか? まずはお前からだ」 と、サユリさんの肩を抱きながらサユリさんの寝床の方に向かいます。 「えっ、何ですか?」 と、サユリさんが返すと、 「おい、しらけたこと言うなよ、分かってんだろ」 今までと違う口調でそう言います。表情も今までのにこやかなものではありませんでした。 「こっちの布団は誰が寝るんだ?」 そしてサユリさんの布団の隣を指してそう言います。 「私です」 ユキさんがそう答えました。 「そうか、じゃあ次はお前だ。寝ててもいいけど全部脱いどけよ、脱がすの面倒だからな」 そう言われたユキさんは固まっていました。 「おい、紘一、サックよこせ」 「えっ?」 そう言われた紘一さんも固まっています。いえ、急に雰囲気の変わった黒岩さんに全員が固まっていました。 「えっ、じゃねえよ、あるだろ、一箱持って来い」 紘一さんがやっと動きました。そして電話台の下の扉を開けてコンドームの箱を取り出します。  コンドームは男の人たちがお金を出し合って買い溜めしています。これもお店のルールみたいです。ここで寝泊まりする女の子に男の人は手を出してもいいけど、コンドーム無しは厳禁。変な病気を広めないため、と言っているけど、避妊って目的が一番みたいです。なぜなら、妊娠した女の子はクビって決まりがあるから。そして妊娠した女の子に避妊具なしで手を出していたことがバレると、その男の人にも制裁があるとか。なのでそれだけはどの男の人も必ず守っています。  紘一さんが黒岩さんの所に箱を持って行くのを見ていたら、黒岩さんが服を脱いでいました。背中に絵がありました。でも変な絵。輪郭の線だけでほとんど色が入っていません。いえ、輪郭もまだ描きかけのような感じ。そしてその後は分かりません。黒岩さんと目が合わないように、サキちゃんと私たちの部屋に入ったから。  翌朝目覚めると、サキちゃんの横で黒岩さんが寝ていました。サキちゃんは素っ裸。サキちゃんもされたんだ。その日の夜、寝るときは全員裸で布団に入れ、と言った黒岩さん。そして私からでした。黒岩さんの大きなお腹がのしかかってくるようで嫌な時間でした。気持ち悪さ以外は何も感じない行為、最初の頃の叔父さんとの時と同じような。  黒岩さんは毎晩来ました。そして毎晩二人か三人を相手にします。でも最後はいつもサキちゃんになりました。そう、サキちゃんは毎晩相手させられていました。気に入られたようです、気の毒としか言えないけど。そして金曜日の夜、裸になった黒岩さんがサキちゃんを脱がせながら、 「お前はしないのか? 遠慮しないでいいぞ」 と、紘一さんに言いました。紘一さんは今週一度もしていません。だって、紘一さんがこの部屋で唯一手を出すサキちゃんを黒岩さんに占領されてるから。なんだかかわいそう、と思っていたら、紘一さんが私の所に来ました。 「いいかな?」 「えっ、私?」 そう言いながらサキちゃんの方を窺ったら、サキちゃんが黒岩さんに抱かれながらこっちを見ていました。いや、やっぱりできないよ。そう思っているのに紘一さんは服を脱いでいます。そして脱ぎ終わると私のパジャマを脱がし始めます。サキちゃんがずっとこっちを見ているけど拒否できない。そして全部脱がされたと思ったら、紘一さんと唇を重ねていました。そのまま体も重なります。サキちゃんに悪いと思い、出来るだけ無反応を装いました。でも抑えきれないほど感じてしまいました。黒岩さんで嫌な思いをした分が全部帳消しになるくらい。そして、紘一さんの腕にしがみついたような格好で眠りました。  黒岩さんはお店ではとてもいい人です。明るく愛想よく、いつもにこやかでちゃんと仕事もする人です。でもそれは作っている姿なんでしょう。その反動が夜のこの部屋での姿。愛想の良さなんて微塵もない、怖い人です。ちょっとでも拒否の態度をとると、私が叔父さんにされたような叩く格好をして脅します。もうほんとに最悪の人です。  日曜日の夜、五人揃ってこたつで晩御飯。今夜はお鍋、水炊きです。和気あいあいと食事は進みました。やがてお腹が膨れ酔いが回ってくると、避けていたわけではないと思いますがこの話題になりました。 「あいつ、来週も毎晩来る気かな」 サユリさんがビールのコップ片手にそう言います。 「来るでしょうね、サキちゃん、気に入っちゃったみたいだから」 ユキさんがそう答えてビールに口を付けます。 「なんで私なんですか、もうほんとに嫌です」 サキちゃんはそう言ってコップのビールを飲み干します。 「なんでだろね。でもさ、サキが目当てならサキだけにして欲しいわよね、サキには申し訳ないけど」 「ちょっと、それ勘弁してくださいよ。私の所に来ないように誰かの所で寝かせちゃってくださいよ」 サユリさんのセリフに噛みつくようにサキちゃんがそう返します。サユリさんはコップを口にしただけで何も言いません。しばらくの沈黙の後、ユキさんが紘一さんに、ポソっとこう言いました。 「コウちゃんも嫌だよね、サキちゃんずっと取られてて」 するとその言葉に、紘一さんではなくサキちゃんがすぐに反応します。 「コウちゃんはマリとやれてるからいいんじゃないの?」 そう言ったサキちゃんが私を睨んでいます。そう、サキちゃんは今朝から私に怒っているようです。一昨日に続いて昨夜も紘一さんが私の所に来たから。でもそれは私が呼んだわけじゃなくて、紘一さんが来てるって話なんだから私に怒らないで欲しいんだけど。それに紘一さんは私にしながら、サキ、なんて呟いて、サキちゃんの方ばかり見てるし。それがなんだか嫌で、一生懸命紘一さんに抱きついたりしたのがいけなかったかな。 「そう言うこと言うなよ」 紘一さんが少し不機嫌な声でサキちゃんに返します。 「でもそうじゃない。コウちゃんは黒岩さんが来た方がいいんじゃないの?」 「そんなことあるわけないだろ」 「嘘」 「嘘じゃねえよ、俺だってあいつに腹立ってるんだよ」 「じゃあ、あいつより先に私のとこ来たらいいじゃない」 「いや、それは」 「なに?」 「いや、……サキちゃんには手を出すなって言われたんだよ」 「はあ? なにそれ」 「だから、最後はサキちゃんのとこで寝るからサキちゃんの所には行くなってあいつに言われたんだよ」 そんなこと言ってるんだ、と思いましたが私はずっと黙っていました。サユリさんとユキさんもビールを注ぎ合って飲んでいるだけ。そしてサキちゃんも、 「そんな……」 と言って黙りました。年上で、しかも会社から来ている黒岩さんに紘一さんが逆らえるはずないのはサキちゃんも分かっている、なので何も言えないのでしょう。 「ほんとにあいつには腹立ってんだよ、俺は。と言うか、後藤さんも、酒井さんも」 しばらくして紘一さんがそう言いました。 「後藤さん? 何、あいつがいるからここに来れないから?」 サユリさんが紘一さんにそう聞きます。後藤さんは木曜日から復帰しましたが、先週は一度もここに泊まりに来ていません。もちろん酒井さんも。それは恐らくサユリさんの言う通り、黒岩さんがここに来ているから。 「それもですけど、あいつが金、払わないから」 「お金? なんの?」 「その、コンドームの」 「はあ? そうなの」 サユリさんが少し呆れた口調でそう返します。私も少し呆れました、怒ってる矛先がそれだと知って。紘一さんは続けます。 「あいつ、もう二箱くらい使ってるんですよ」 私は一箱に何個入っているかとか知らないけど、一晩に二、三個は必ず使ってるんだからそのくらいになるのかな。 「だから、買ってくるから金くれって言ったら殴られたんですよ、誰に向かって言ってんだ、って」 「ええっ、殴られたの? コウちゃん」 ユキさんがそう反応して紘一さんの顔を見ます。いえ、全員が紘一さんの顔を見ました。 「あっ、殴られたのは腹です」 そう言って左の脇腹辺りをさする紘一さん。 「で、そんなせこいこと言うな、って言われたんです」 「どっちがせこいのよ、自分が使った分くらい払えっての」 サユリさんがそう言ってまたビールを飲みます。 「後藤さんもそう言ってました」 「だろうね、で、後藤さんは?」 「いや、それだけです」 「俺が払わしてやる、とか言わないの?」 「あの人が言うわけないじゃないですか」 それは私もそう思う。するとサユリさんが電話台の下を指してこう言います。 「そこに今どれだけ残ってるか知らないけど、全部隠しちゃえ。で、もうありませんって言えば?」 「そんなこと言ったら俺、夜中に買いに行かされますよ。それにあいつだったら、なかったらなかったでそのまましちゃうんじゃないですか?」 その紘一さんのセリフにユキさんがこう言います。 「うん、それ有り得る。私この前、付けずにされそうになったから」 「そうなの?」 「うん、手元になくなったから取りに行くの面倒とかって。だから私取りに行ったんだよ、やられる私がなんでって思ったけど、なしでされるのは絶対に嫌だったから」 「はあ、もうほんとに最悪の奴」 下手に口を開いて、更にサキちゃんを怒らせるのが嫌だった私はずっと黙っていました。黙ってみんなのそんな話を聞きながら、鍋に残った半分溶けたような白菜を食べていました。  サユリさんが日曜日に口にした不安通り、翌週も毎晩部屋に黒岩さんが来ました。サキちゃんが第一の目当てなのは変わりませんが、ユキさんも毎晩相手させられるようになりました。まずユキさんの所に行き、その後がサキちゃんです。その二人の間に一度、サユリさんにも相手させたみたいだけど。そして私は、今週は黒岩さんにされていません。月曜日は一人で寝ました。隣で黒岩さんがサキちゃんに激しくしている気配を感じながら。そして火曜日からは黒岩さんがユキさんから離れたタイミングで、紘一さんが私の所に来るようになりました。これ以上サキちゃんと不仲になりたくないので歓迎はしないですが、おかげで黒岩さんにされずに済んでいます。ううん、本音は歓迎してるかも。先週初めて紘一さんとしたけど、嫌じゃなかったから。  その週の土曜日の朝、なんだか騒がしい雰囲気を感じて目が覚めました。ドタバタと、足音が聞こえたような感じでした。紘一さんを起こさないようにそっと布団を出ました。寒さに慌ててパジャマを着ます。朝起きてパジャマを着るなんて変だよね、と思いながら隣の布団を見ると、どうもサキちゃん一人で寝ているようです。いえ、絶対にサキちゃん一人です。あの太った黒岩さんがいたら絶対に分かるはずだから。でも、だったら黒岩さんはどうしたんだろ。あの人はここで朝ごはんまで食べて帰ります。なのでもう帰ったってことはないはず。まさか朝からユキさんの所に行った? そう思って隣の部屋の気配を窺うと、人が動いている気配はありました。  そっと部屋の襖を開けて居間を窺いました。すると居間の向こう、台所の流しにサユリさんとユキさんがいました。サユリさんはパジャマ姿。ユキさんは毛布を羽織った姿です。見た感じでは流しに立つユキさんにサユリさんが毛布を羽織らせたって感じ。そのユキさんは湯沸し器のお湯でしきりに顔を洗っているようです。何があったんだろう、と思いながらそっと部屋を出ました。そして台所へ。途中、二人の部屋を振り返ると黒岩さんが服を着ていました。やっぱりユキさんの所に行ってたんだ。  台所に入って小さめの声で、 「おはようございます」 と、二人に声を掛けました。 「おはよ」 と、サユリさんは挨拶を返してくれましたが、ユキさんは顔を洗い続けています。石鹸まで使っています。そして、毛布にくるまれた中は裸の様でした。 「どうしたんですか?」 サユリさんにそう聞いてました。するとサユリさんは初めて見る嫌そうな顔でこう言います。 「顔に掛けられたみたい」 でも何のことか分かりませんでした。 「えっ、……何をですか?」 サユリさんの怒っているような嫌そうな表情に、続けて聞くのを少し躊躇いましたが聞きました。 「あれよあれ、精子」 セイシ……、そう言われても何のことか分かりませんでした。でもやがて、精子、と、言葉の意味が分かると驚き、私も嫌な表情になりました。 「ええっ!」 そしてそう言ってました。 「信じられないでしょ、クズよ、あいつ」 サユリさんが小声でそう言います。 「大丈夫ですか?」 ユキさんにそう声を掛けました。するとユキさんは小さく頷いてから、 「ごめん、マリちゃん、タオルとって」 と言います。私は洗面所の物入れからタオルを持ってきました。それを受け取って顔を拭いているユキさんにサユリさんが声を掛けます。 「大丈夫?」 「うん。でもダメ、まだ顔に付いてる気がする、気持ち悪い」 ユキさんはそう返して顔をまた拭きます。すると、 「おい、みんな起きたんなら朝飯にしようぜ。早く着替えろよ」 と、言いながら黒岩さんがこたつに着き、タバコに火をつけます。しかもそれは紘一さんのタバコ。  部屋に戻って着替えていたら、サキちゃん達二人が起きました。ユキさんのことは言わずに、 「おはよ、ご飯にするよ」 とだけ言って部屋を出ました。そして台所で朝食の用意を始めるけれどユキさんはまだ出てきませんでした。  お湯が沸いたのでやかんからポットに移していたら、 「先にコーヒーくれ」 と、黒岩さんが言ってきます。ユキさんにあんなひどいことをして、このお湯ぶっかけてやろうか、と思いながら、 「はい」 とだけ答えました。  黒岩さんのコーヒーを出した頃、四人が同時くらいに部屋から出てきました。紘一さんはこたつの上の自分のタバコを回収すると、ベランダ傍の定位置に行って吸い始めます。サユリさんは黒岩さんを避けて台所のテーブルに着きました。サキちゃんはコップにお水を汲んで台所で飲み始めます。そしてユキさんは流しの私の横へ。 「今日はハムエッグにします?」 ユキさんにそう話し掛けました。でもユキさんは流しに手をついて立っているだけで何も言いませんでした。しばらく返事を待ちましたが動かないユキさん。なので、 「大丈夫ですか?」 と、また声を掛けました。すると、 「ごめん、ちょっと待って」 と言って、ユキさんは居間の方へ行きます。そして居間と台所の境から黒岩さんにこう言います。 「黒岩さん、出てってください」 「はあ? まだ怒ってんのか」 「当たり前です」 「なんでだ? 流行ってんだぞ」 「なにがですか」 「顔に掛けるの。喜べよ、流行の最先端だぞ」 話の分からないサキちゃんと紘一さんが顔を見合わせました。 「何言ってんですか、あれって、ああいうことが出来るって、着けてなかったってことですよね」 ユキさんが激しい口調でそう言います。そっか、そう言うことなんだ。 「いいじゃないか、中に出したわけじゃないんだから」 黒岩さんは涼しい顔でそう言うとタバコを消しました。ユキさんは俯いて、苦し気に呟くようにこう言いました。 「信じられない。直接触れたなんて、気持ち悪い、ほんとに気持ち悪い」 すると涼しい顔だった黒岩さんの表情が変わり、ユキさんを睨みつけてこう言います。 「おい、いい加減にしろよ、人のこと気持ち悪いとか、お前は何様なんだ。さっさと飯の用意しろ」 ユキさんは俯いたまま動きませんでした。 「おい、聞いてんのか」 黒岩さんが怒鳴ります。するとユキさんが同じ姿勢のまま口を開きました。 「ありません」 「はあ?」 「黒岩さんの食事はありません」 「何言ってんだ?」 「ここで食事出来るのはここに住んでる人だけです。なので泊まりに来た人の食事はありません」 ユキさんは顔を上げてはっきりそう言いました。 「いい加減にしろよ。昨日までは何だったんだ」 「昨日までは大目に見てたんです。でも昨日で終わりです、もう用意できません」 「分かった、お前はもう引っ込んでろ、出てくんな。おい、マリ、さっさと飯の用意しろ」 黒岩さんはそう言うとコーヒーを飲みます。その姿を見てユキさんが黒岩さんの傍に行きました、こう言いながら。 「もう、とにかく出てってください」 そして黒岩さんの服を掴もうとしますがその直後、私は信じられない光景を見ました。ユキさんがいきなり空中で横になったかと思ったら、そのまま畳の上に落ちたのです。  ユキさんが傍に行くと、黒岩さんは座ったまま上半身をユキさんの方に捻りました。そして右のこぶしでユキさんの左の太ももを横殴りにしました。殴られたユキさんの足は宙に浮き、そして、ドスンと落ちるように倒れました。 「痛い」 ひっくり返ったまま丸くなり、左の太もも辺りを触りながらユキさんが呻くようにそう言います。涙もこぼれています。その姿を見て駆け寄ろうとした私より先にサユリさんが動きました。ユキさんの横に跪いて、大丈夫? と、声を掛けて顔を覗いています。そんな二人に黒岩さんはこう言います。 「こいつが立場もわきまえずに生意気言うからだろ」 そう言われて、ユキさんはまた黒岩さんを睨みます、苦しげな表情で。普段のおっとりした雰囲気からは、今日のユキさんは想像できませんでした。でも黒岩さんはその視線を無視して、今度は私たちの方を向いてこう言います。 「お前らもよく聞けよ。ここに住んでるってのは会社に飼われてるってことだ。分かるか? お前らは家畜と一緒なんだよ。家畜の分際で一丁前のこと二度と言うなよ」 酷い、こんな酷いことを言える人がいるんだ、そう思いました。そして腹も立ったけれど、そうなんだとも思いました。普通ならどこにも住めず働くところもない、未成年の私なんかを住まわせて働かせてくれてる。飼われてると言われてもしょうがないかも。お給料がもらえている分、家畜よりましと思うべきかも。そんなことを思っているうちにユキさんが上半身を起こしました。そして、 「私は家畜じゃない」 と、黒岩さんに右手を上げました。そして、バチンッ、と大きな音。でもその音で畳に伏せたのはユキさん。ユキさんが黒岩さんを叩く前に、黒岩さんが強烈な平手をユキさんの左頬に叩き込みました。そう、叩いた、と言うより、殴った、って感じでした。  再び倒れ込んだユキさんを見てサユリさんは立ち上がると、 「顔殴るなんて」 と、黒岩さんに掴みかかります。黒岩さんはそんなサユリさんの首を掴むと、向かってきた方向にそのままサユリさんを放り投げるようにしました。サユリさんはつんのめるように倒れて、畳に手を付きました。そして起き上がろうとするサユリさんより先に立ち上がった黒岩さんが、まだ腰を浮かせただけのサユリさんのお尻を前に突き飛ばすように蹴ります。サユリさんは、今度は顔から畳に倒れ込みました。  顔を殴られてから伏せたままのユキさんの傍に私はしゃがみました。 「大丈夫ですか?」 そして声を掛けましたが答えません。ユキさんは小さく震えて泣いているようでした。手を左頬に当てていますが、隙間から見えるユキさんの頬は赤く腫れています。そしてユキさんの顔の下の畳に赤い染みが見えます。鼻血が出てる、そう気付いた時、 「血、血が出てる、サユリさん」 と、サキちゃんの声。その声にサユリさんを見ると、サユリさんは上半身を起こしていました。そしてその右頬は擦りむいたような怪我になっています。 「ユキさんも、サキちゃん、チリ紙」 サキちゃんを振り返ってそう言いました。言われたサキちゃんは驚いた顔でユキさんを見たあと、洗面所からチリ紙を取って来てくれました。それをユキさんに差し出すと、ユキさんは一枚抜いて顔に当てます。するとサキちゃんも一枚抜いて、それを持ってサユリさんの所へ行きました。 「おい、血ってなんだ、ユキは鼻血か?」 黒岩さんがそう聞くので、はい、と答えました。すると今度はサユリさんの方を向いて、 「サユリはどうしたんだ、擦りむいたのか?」 と言います。 「はい、そうみたいです」 サキちゃんが答えました。 「気を付けろよ、顔に怪我したら店に出れないだろ」 あんたがやったんでしょ、と言いたかったです。 「まあ、サユリは今日は休みだな、俺から言っといてやる」 黒岩さんがそう言うとサユリさんが口を開きました。 「いいです、自分で言いますから、黒岩さんにやられたって」 「何言ってんだ、お前。お前が自分で転んだんだろ? そうだろ? それ以上変なこと言うなよ」 サユリさんが黒岩さんを睨んでいます。 「ユキさんもこの腫れは夜までには引かないと思いますよ」 やっと上半身を起こしたユキさんを見てそう言いました。 「はあ? そうか、じゃあユキは熱だな、熱出したって言っといてやる」 ほんとにこの人は、何もかも自分がやったくせに勝手なこと言ってる。私も黒岩さんを睨んでしまいました。すると、 「家畜はあんたよ、この豚、ブクブクに太ったクズ豚」 と、ユキさんが信じられないほど怖い声でそう言いました。そしてまたその直後、ユキさんが後ろに倒れました。黒岩さんがユキさんの肩を足で突き飛ばしたのです。 「お前クビだ、俺がクビにしたって言っといてやる、今すぐ出て行け」 そしてそう言いながら、倒れて横向きに倒れたユキさんの背中を踏みつけるように蹴ります。嫌な音がしてユキさんが顔を歪めます。 「やめてください」 そう言ってました。 「ああ? お前もか」 そう言って黒岩さんが私の方を向きます。 「だって、も、もう蹴ることな、な、ないじゃないですか」 恐かったけど、なんだか強い口調でそう返していました。黒岩さんの手が上がります。殴られる、と思った瞬間、こたつの上の黒岩さんのコーヒーカップを掴んでいました。そして半分以上残っていたコーヒーを掛けるように投げていました。 「熱、熱っつ、お前、覚悟できてんだろな」 そう言う黒岩さんに襟を掴まれて立たされました。でも何だか足に力が入らず、うまく立てずに震えていました。うまく立てない私は黒岩さんに襟で吊上げられている格好。すると黒岩さんが掴んだ襟を床に叩きつけるように離します。私は前のめりに潰れるように倒れました。そしてそのまま床に丸まっていました。動けない、怖くて黒岩さんの方を見ることも出来ない。するとお腹にひどい痛みが来ました、腕にも、足にも。蹴られてました。 「俺にこんなことして、お前は出てくだけじゃ済まんぞ」 そして頭も蹴られました。 「もうやめてください、何でも言うこと聞きますから」 サユリさんがそう言って私の身体の上に被さってくれました。 「今更遅えんだよ」 そしてサユリさんも蹴り飛ばされたようです。サユリさんの身体が一瞬私から離れます。でも、すぐにまた被さってくれます。 「お願いです、やめてください」 そしてそう言いました。すると黒岩さんの暴力はそこで止まりました。 「くっそー、冷てえな、ビチョビチョじゃねえか」 そう言う黒岩さんの声にそっとそちらを見ると、黒岩さんがコーヒーの掛かったワイシャツを脱いでいました。 「紘一、お前のセーターかなんかよこせ」 そう言われた紘一さんは返事をすると、あたふたと自分のセーターを探して渡します。そしてそれを着た黒岩さん、大人が子供服を着たみたい。 「お前なんでこんな小っせえんだよ、ちょっとは鍛えろ」 と言う黒岩さん。あんたは鍛えたんじゃなくて太ってるだけだろ。 「くっそ、もう飯って気分じゃねえな」 そして、サユリさんが庇いきれていない私の右のふくらはぎに痛みが来ました。また蹴られました、いえ、踏みつけられたのかも。ものすごく痛かったです。 「全部お前の所為だぞ」 痛みと同時に聞こえたのは黒岩さんがそう言う声でした。そして黒岩さんは部屋の隅に置いていた自分のコートを着ると鞄を持ちます。これで帰ってくれる、そう思いました。 「お前らのことは今夜マネージャーに話してから結論を出す。だからそれまではここにいろ。ただし、ユキとマリ、お前らは間違いなくクビにしてやるから出て行く準備しておけよ」 そう言うと黒岩さんは玄関に向かいます。でも立ち止まってもう一度口を開きました。 「マリ、お前はクビだけじゃ済まんからな。死んだほうがましなくらいに後悔させてやるから覚悟しとけ。逃げるなよ、逃げても見つけ出すからな」 その言葉を聞きながら、私の震えはさらに大きくなりました。  黒岩さんが出て行って玄関が閉まる音が聞こえても、しばらく誰も動きませんでした。でもやがてサユリさんが私から体を離すと、 「マリ、大丈夫?」 と、背中をさすってくれます。その声にみんな動き出しました。サキちゃんはユキさんの傍に行き、ユキさんを気遣いながらユキさんの血の付いた畳を拭いています。紘一さんもサユリさんが蹴り飛ばされた辺りで、サユリさんの血の付いた畳を拭き始めます。でも、畳を一番汚したのは私かも。私は漏らしてしまっていました。  朝に黒岩から暴力を振るわれた土曜日の夕方、サキちゃんとカウンターの中でお通しを作っていました。そうその日、私は出勤していました、痛みはまだ残っていたけど。そして五時前、黒岩さんが出勤してきました。顔を見た瞬間怯えてしまいました。黒岩さんも一瞬驚いた顔をします。でもすぐに怖い顔でカウンターの目の前にやって来てこう言います、店でのにこやかな顔を忘れて。 「いい根性してるな、お前」 でも、奥のボックスで帳面を付けていたママが黒岩さんに気付いて声を掛けてきます。 「黒岩君、来てすぐで悪いけど、マネージャーのとこ行って」 「あっ、おはようございます」 黒岩さんは一瞬でいつものにこやかな顔になり、そう言いながらママの方へ。 「マネージャー、もう見えてるんですか? 早いですね」 「いいから、早く行って」 ママは帳面に目を戻して黒岩さんを見ずにそう言います。そう言われた黒岩さんは、マネージャーの部屋へ行くためにカウンターの中へ入って来ます。そして私の後ろで立ち止まると、 「お前らなんかしたんじゃないだろな」 と、恐い声で言います。でも、私もサキちゃんも何も返しませんでした。すると黒岩さんもそれ以上何も言わず、マネージャーの部屋へ向かいました。  その日、お昼を食べたあとサユリさんがママの自宅に電話しました。結果的にはそう言うことになるのですが、黒岩さんにされたことをママに言うためではありませんでした。サユリさんとユキさんは恐らく今夜はお店に出れないので、二人も休むと言うのは早くママに伝えないと、今夜のお店の人数が足らなくなるかもしれないと心配したためです。すると当然ママからはお店に出られない理由を聞かれ、経緯を簡単に説明することになりました。その電話はすぐに終わりましたが、全員四時にお店に来るように言われました。  四時にママが来て、そのすぐ後にマネージャーもお店に来ました。そして紘一さんを含めた私達五人に今朝のことを尋ねます。ユキさんは自分のことなので躊躇っていたようですが、サユリさんが事の初め、黒岩さんがユキさんにした行為から説明を始めました。  かなり詳細に報告しました。黒岩さんが言ったことも、私達が言ったことも、どちらも正確に伝えました。聞き終えたマネージャーとママはしばらく無言でした。でもやがてマネージャーが口を開きます。 「分かった」 と、一言だけ。そしてその後、ママがサユリさんとユキさんの顔を覗き込んでから、 「取り敢えずサユリとユキは今日休みでいいわ。マリは? どこかまだ痛い? 仕事出来そう?」 と言います。痛みはありましたが普通に動ける状態だったので、私は大丈夫ですと答えました。まあ、そのつもりで仕事する格好で来ていたし。  その後サユリさん達は帰って行き、マネージャーとママはマネージャーの部屋に行きました。残った私たち三人は、それから早目の開店準備を始めたのでした。  マネージャーの部屋に黒岩さんが入ってしばらくしてから、何かが倒れたり、壊れたり、割れたりする音が聞こえてきました。なんだか怖いその音はしばらく続きました。サキちゃんと顔を見合わせます。 「死んでないよね」 音がしなくなった時、サキちゃんがボソッとそう言います。黒岩さんが? 「まさか」 私も呟くように言ってました。  そのまま開店となり、土曜日なのでそんなに忙しくもなく十二時前にお客さんが途切れたので、そこで閉店となりました。 「サユリとユキは顔だから、痕がまだ残ってるようなら月曜日も休んでいいけど、お昼くらいに一度電話頂戴って言っといて」 三人でお店を出るときにママからそう言われました。  黒岩さんは土曜日、一度もお店に出てきませんでした。いえ、翌週の月曜日の朝礼で、 「黒岩君は異動になった」 と、マネージャーから一言。なので二度と会うことはありませんでした。 「マネージャーに殺されたんじゃないよね」 朝礼の後、サキちゃんが傍に来て小声で物騒なことを言います。 「まさか」 私はまたこう返していました。そしてそう、土曜日の朝の騒ぎの後、サキちゃんとの仲は元に戻りました。  ユキさんは月曜日には腫れも痕もなくなりお店に復帰。サユリさんは擦りむいた傷なので少し掛かって金曜日からの復帰でした。  その週の日曜日のお昼過ぎ、一人で部屋にいました。サユリさんとユキさんはお昼前に二人で出掛けました。サキちゃんと紘一さんはお店の掃除当番だったのでお店に行き、そのまま遊びに行くと言って出て行きました。なので一人でした。  昼食後テレビを見ていたら眠気が襲ってきました。そのままこたつで寝ちゃおうか、と思っていたら玄関から扉を叩く音がしてきます。二時過ぎでした。誰だろうと思いながら玄関を開けると男性がいました。まだ三十歳にはなってないよねってくらいの年の人。見覚えがあるような気もしますが思い出せませんでした。扉を開けて、はい、と言うと、 「紘一いるか?」 と、いきなり聞かれました。 「いえ、いないですけど」 「他には誰がいる?」 「今は私だけです」 「帰ってくるか?」 「え、ええ、多分みんな夕方には」 この人は元からなのだろうけど、恐い顔つきの人に次々質問されて緊張してしまいました。 「夕方か、くそ。お前、パープルの奴だよな」 「はい」 「店の鍵あるか?」 「はい」 お店の鍵はこの部屋に二本あります。一本はサキちゃん達が持って出ているけど、もう一本あるのでそう答えました。 「よし、扉、の方にまたパープルや愛の荷物が届いたんだ。お前すぐに動ける格好に着替えて、扉、に来てくれ。店の鍵忘れるなよ」 するとその人はそう言って玄関を離れようとします。扉、と言うのはパープルや愛をやっている会社がやっているもう一軒のお店です。でも私はそのお店の場所を知りませんでした。なので慌ててこう言います。 「すみません、私、扉の場所知りません」 「はあ? しょうがねえな、待ってるからすぐに用意しろ」 その人はそう言いながら玄関に戻ってきます。私は返事して部屋に入りました。  多分荷物を運ぶんだろうと思ってジーパンを履き、セーターの上から押入の中で見つけた汚しても良さそうなジャンパーを着ました。そして玄関に戻って自分の運動靴を履いていたら、 「おお、なんかやる気十分な格好だな」 と、上から声が来ます。  玄関を出てその人について歩きました。背が高く歩くのがとても速い人だったので、私は小走り状態でした。 「お前、名前は?」 「マリです」 「年は?」 「え~っと、ほんとの年ですか?」 「はあ? ああ、ほんとはいくつだ」 「十八です」 「そうか」 それだけ聞かれて終わりでした。なので今度は私から聞きました。 「あの、お名前聞いてもいいですか?」 「香取だ」 「香取さん」 「マサって呼んでくれていいぞ。みんなそう呼ぶから」 「分かりました。あの、マサさんは扉の方なんですか?」 マサさん、と言ってみて、ほんとに覚えがあるような気がしました。 「そうだ」 「そうなんですね」 「五月、六月の途中までか、それまではパープルにいたけどな」 「そうなんですね」 そこでまた無言になりました。でもしばらくするとマサさんがこう言ってきます。 「お前、マリって言ったな?」 「はい」 「お前か、黒岩にコーヒーぶっ掛けたってのは」 「あっ、はい」 これはどういう質問なのかと思いながら返事してました。ひょっとしたらマサさんは黒岩さんと親しい人で怒っているのかも、と少し心配になりました。 「やるじゃないか」 でも私を見てそう言う顔は少し笑っていました。 「えっ」 「どうせなら熱湯掛けてやればよかったのに」 「ええっ?」 「いいんだよ、あいつにはそのくらいやっても」  そんなことを話しているうちにとあるビルの前に着きました。パープルから西の方、久屋の辺りです。マサさんはビルの正面から入って行き、突き当りのエレベーターに乗ります。五階で降りました。降りた五階にはお店が通路の両側に二件ずつあります。エレベーターに近い右側の扉に、扉、と刻まれた真鍮のプレートが貼ってありました。マサさんはその扉を開けて入って行きます。ついて入るとパープルより広いお店でした。  右側がカウンターでイスが七脚、パープルと数は同じです。でも、パープルは背の高いイスでその高さのカウンターだけど、ここはカウンターの高さが低く、イスは一人掛けのソファーです。ホールには六人くらい並んで座れるL字型のソファーが五ケ所。その各々にテーブルと、ソファーとお揃いのスツールがあります。それらがパープルより広い店内に、十分間隔をあけて配置されていました。そしてパープルよりカウンターもソファーも、そして壁や天井、照明なんかもみんな高級そうです。  カウンター前のソファーに女性が三人座っていました。一人はルミさんであとの二人は、愛、の女性。 「おお、二人連れて来たのか、でかした」 マサさんがルミさんにそう言います。 「いるだけ連れて来いって言ったじゃないですか」 ルミさんがそう返します。マサさんはカウンターとボックスの間に積まれた段ボール箱の一つを開けながらこう言います。 「そっちのが七箱あるからな。おら、これ持って行け、今日の日当だ」 そして開けた段ボール箱からポッキーを四箱取り出して差し出してきます。 「やったー、今日はポッキー欲しいなって思ってたんです」 ルミさんがそう言いながら立ち上がって受け取ります。後の二人もお礼を言いながら受け取るので私も頂きました。そしてその箱をカウンターの上によけると、残りの段ボール箱から、これがパープル、これは愛、と、マサさんが指示してくれます。小さめの段ボール箱が二つあったので、その二つを私が抱えました。そして残りの箱を一つずつルミさん達女性が抱えて、マサさんが二つ抱えました。そしてみんなで移動、それで終了でした。  マサさんと出会って一か月ほど経った十二月の後半、年末って時期。台所でみんなの昼食を作っていたら、足元に冷たい空気が流れてきました。居間の方を窺うと、ベランダから紘一さんが部屋に入って来るところでした。よいしょっ、の掛け声と共にストーブを部屋の中に運び入れてます。ベランダで灯油を補給してくれていたのでした。私のいた瀬戸の家では叔父さんが部屋の中に灯油缶を持ち込んで、部屋の中で給油していました。でもそれだと部屋の中が灯油臭くなります。床に灯油をこぼしたりなんかしたら、しばらく灯油の匂いの中で生活しないといけません。なのでここではそれを嫌ってベランダで給油しています。 「ありがとうございます」 紘一さんに声を掛けました。 「いいよ。けど、もう少し冷ましてからが良かった。やっぱり熱いや」 そうだと思います、そのストーブはほんの十分くらい前まで火がついていたんだから。でも今日はチラチラ雪が舞うほど寒い日。給油のためにストーブの火を消して十分ほどで部屋の中が冷えて来たので、ストーブが冷めるのを待たずに給油してくれたのでした。  ベランダの掃き出し窓を閉めると、紘一さんはストーブを私とサキちゃんの部屋の前に運んでくれます。そして居間ではなく私たちの部屋の方に向けて置いて火をつけます。私はお水を入れたやかんを持ってそちらへ。そしてストーブの上にやかんを置きながら、ストーブの向いている部屋の中を見ました。その部屋の中ではサキちゃんが寝ています、三十九度の熱を出して。  今年も残すはあと七日となった昨日、早く帰って家族とクリスマスやったら? と思いながらカウンターの中に立っていました。私はほとんどカウンター担当となったので、カウンター席に腰を下ろす常連さん達とはすっかり顔馴染み。もう別々の三人くらいが目の前にいても、別々の三つの会話を楽しめるくらいになったし。昨日はプレゼントもいくつかもらえたからほんとに楽しかったんだけど、そんな店内でサキちゃんは体調を崩し、途中から更衣室で寝ていました。  何とか自分の足で歩いて帰ったサキちゃんですが、着替えさせて布団に入れてから熱を測ったら三十八度。部屋にあった市販の風邪薬を飲ませます。そしておでこを濡れタオルで冷やしながら明けた翌朝、熱は一度上がっていました。市販のお薬では効かなかったようです。  ユキさんがサキちゃん用の朝ごはんをおうどんにしました。うどんが一回り太くなるくらい柔らかく煮込んでありました。でもサキちゃんはほんの数本程度しか食べません。それでも物を食べたので、効かなかったけどもう一度同じお薬を飲ますことになります。そこで私はこう言いました。 「やっぱりお医者さんに連れて行って、ちゃんとしたお薬もらった方がいいですよ」 みんなの動きが止まりました。そんなことは分かってる、って顔で黙っています。するとサユリさんが私の方を見てこう言います。 「あのね、私達保険証ないでしょ、お医者さん行けないのよ」 「えっ?」 「うちの会社は健康保険やってないからね、保険証ないのよ」 「そうなんですか」 「私やユキは役所に行けば国民保険に入れるけど、あんたたちは未成年だからね」 「未成年はダメなんですか?」 「う~ん、詳しくは知らないけど、未成年は保護者がいるのが当たり前で、保護者の扶養家族になってるでしょ。だからあんたたちの親の方の保険証が必要なのよ」 そう言われてなんとなく理解しました。叔父さんの家にいるときに風邪をひいた時、お医者さんに持って行った叔父さんの保険証に私の名前がありました。そっか、未成年の間はあの保険証がないとお医者さんにも行けないんだ。でもサキちゃんを放っておけない。 「保険証ないと絶対にダメなんですか? 診てくれないんですか?」 そう聞くとまたサユリさんが答えてくれます。 「ううん、保険証なくても診てはくれるわよ、全額その場で払わないといけないけど」 「あっ、だったら私、払います。だからお医者さん、連れて行きましょう」 そう言って腰を浮かせ始めた私の肩に手を置いて、浮かせた腰を下ろさせながらユキさんがこう言います。 「お金のことだけなら私達だってそうするわよ」 「えっ?」 私は振り返ってユキさんを見上げました。 「お医者さん連れてって、未成年だってバレたらどうなると思う?」 そのユキさんがそう言いました。 「えっ? ああ、補導されるとかですか?」 そっか、そう言う可能性があるんだ、と思ってそう言いました。するとまたサユリさんが口を開きます。 「最終的には補導ってことになるのかも知れないけど、まずは、保護者は誰? どこにいる? ってことになるでしょ?」 「ああ」 「で、保護者に連絡取ろうとするわよ」 「……」 何も言えませんでした。すると私の横に座ったユキさんが話してくれます。 「私も聞いた話なんだけど、前にね、偽名で病院行った子がいるんだって、お金さえ払えばいいだろうって。でも明らかに未成年だろって、二十歳だって言ったの信用されなくて、ごまかしてるうちに警察呼ばれちゃったんだって。で、ごまかしきれなくなって正直に話したら、その子の親が捜索願い出してたみたいなの。だから親に連絡がいって連れて帰られたって」 「……そうなんですか」 としか言えませんでした。するとまたサユリさんが口を開きます。 「その子は私と一緒で地方から出て来て逃げ出した子だったんだけど、まあ、連れて帰ってもらえる親だったからそれで良かったのかも知れない。でもサキは親から逃げてるんでしょ? もし大事になって親に居場所が知られたら、困るのはサキじゃない?」 サユリさんがまっすぐ私を見ていました。なので、 「……そうですね」 と、俯くことしか出来ませんでした。でも、このままサキちゃんを放っとけない、何とかしなきゃ。そう思っていたら紘一さんが独り言のようにこう言いました。 「マサさんがいてくれたら何とかなるかも知れないのにな」 「どういうことですか?」 すぐに聞き返していました。 「いや、マサさんは会社と関係のある、もぐりの医者を知ってるんだよ。だからこう言う時、その医者から内緒で薬もらってきてくれるんだよ」 と言う紘一さんの返事。もぐりの医者って言うのが何なのか分からなかったけれど、それならマサさんに頼めば、扉、で待ってれば会えないかな、と思いました。そう思っていたらサユリさんが腰を上げながらこう言います。 「ご免、その手なら私もツテがあるの忘れてた」 サユリさんは自分の部屋に向かいました。その姿を目で追いながらユキさんが声を掛けます。 「ツテって何ですか?」 「扉、のワカバさん、お客の医者から内緒で薬もらってるのよ、眠れないとかって睡眠薬を。だからワカバさんに頼めば風邪薬もらえるかも」 サユリさんが手帳を持って戻ってきました。電話機をこたつの上に置いて、手帳を見ながらダイヤルを回します。そしてしばらくすると、 「もしもし、パープルのサユリです。すみません、朝から電話して」 と、話し始めます。 「いえ、こちらこそご無沙汰しちゃって申し訳ありません」 『……』 「いえ、今は全員入れ替わって、ここは私だけです」 『……』 「そうですね。あの、すみません、ちょっと急ぎでお願いしたいことがあるんですけど」 『……』 「その、前に言ってた薬をくれるお医者さん、まだお付き合いがあります?」 『……』 「良かった。今一緒の部屋の子が熱出して寝込んでて、その、熱さましとか風邪薬とか、そのお医者さんからもらえないですか? 部屋にあった薬飲ませたんですけど効かないみたいなので」 『……』 「えっ、えーっと、さっきは三十九度でした」 『……』 「はいた? ああ、ちょっと待ってくださいね」 サユリさんが私を見ます。 「サキって吐いた? 吐いてないよね」 「あっ、はい、吐いてないです」 慌ててそう答えると、サユリさんもすぐに受話器に向かってこう言います。 「吐いてません」 『……』 「吐き気、はないと思います。そんな様子なかったので」 『……』 「食欲は、ないですね。朝はほとんど食べなかったです」 『……』 「あっ、いえ、少しは食べました、ほんの一口、二口くらいですけど」 『……』 「すみません、それ以上は分からないです。本人も今は寝ちゃってるんで」 『……』 「あっ、分かりました、そうします」 『……』 「すみません、よろしくお願いします」 サユリさんはそう言いながら頭を下げます。そして受話器を戻しました。全員がサユリさんを見ています。 「お医者さんに電話してくれるって。だからその結果待ち」 「良かった」 なんだかそれで解決したように、そんな言葉が三人から洩れました。 「でも、もう診療時間始まってるから、話が出来るのはお昼からになるかもしれないって。だからそれまではとりあえずここにある薬飲ませとけって」 「分かりました」 と答えたけど、サキちゃんが起きないと飲ませることも出来ません。なので出来ることは何もありませんでした。  お昼は栄養満点のお粥にしよう、と言うことで、ユキさんと買い出しに出ました。そしてお肉屋さんで鶏肉と怪獣を買いました。怪獣と言ったのは鶏ガラのことです。これはもう思いっきり鶏の背骨そのもの。その骨に取り切れていないお肉なんかがついていて生々しく、ほんとに怪獣にしか見えませんでした。 「こ、これ、どうするんですか?」 思わず嫌そうな顔でユキさんに聞いちゃいました。 「あれ? 鶏ガラスープって知らない?」 ユキさんは私の表情なんて気にせずそう聞いてきます。 「聞いたことあるような……」 「そっか。それでお出汁取るのよ。栄養満点でおいしいスープが作れるんだよ」 「そうなんですか」 「ちょっと下処理を念入りにやらないと、生臭いスープになっちゃうからそれが面倒なんだけどね」 「下処理……」 「うん、教えてあげるから手伝ってね」 「はい」  買い物から戻ると、紘一さんがサキちゃんに付きっきりで面倒を見ていました。と言っても、おでこのタオルを替えて、顔の汗を拭くくらいだけど。そしてサユリさんがいませんでした。 「サユリさんは?」 ユキさんが紘一さんに尋ねます。 「薬もらいに行きました」 「連絡来たんだ?」 「はい、二人が出掛けてちょっとしてから」 「そっか、良かった」 うん、ほんとに何だか安心です。  私とユキさんは昼食作り。でもユキさんがお店の掃除当番になっているのを思い出して、かなり急いでの作業となりました。なのでさっきの下処理と言う奴は見ているだけ。  この内臓の膜の残りは全部取るの、この筋みたいなやつも全部ね、なんて説明してくれながらやってくれますが、ユキさんの手が早すぎて追いきれません。それに包丁の先とか根元でチョコマカ削るように切っているので、私にそんなことが出来るかな、なんて思ってしまいます。  それが終わると鶏ガラを鍋に入れて茹で始めました。下処理終了、と思っていたら、数分茹でただけでユキさんが鶏ガラをまな板の上に取り出します。もうひと手間ありました。茹でて白くなった身の所々にある赤黒い部分、それも全部取るんだそうです。そしてそこまでが下処理だそうです。  それが終わると今度はほんとに出汁を取るために煮始めます。ユキさんはそれの灰汁取りと火加減調節で付きっ切り。付きっ切りでこまめに灰汁取りをしないとおいしくならないのだそうです。なので私が他の物の用意をしました。ユキさんの指示でニンジンや玉ねぎ、鶏肉なんかを切っていきます。嚙まなくても食べれるように、と言うことでかなり細かめに切っていきました。  出汁を取った後のスープをこして味付け。そこでユキさんは時間切れでした。 「ごめん、私もう出るからあとお願いね」 そう言われても困ります。 「えっ、あとって、あとどうすればいいですか?」 「え~っと、お鍋でご飯炊いたことある?」 「無いです」 「そっか」 そう言ってユキさんは思案顔。そして説明してくれます。 「まずお米三カップくらい洗って、多分そのくらいだと思うから」 「そんなにですか?」 「ああ、サキちゃんだけじゃなくて、今日はもう全員お昼はお粥。いいでしょ?」 「はい」 「そしたら水を切ってスープの中に入れていって。ただ、一気に全部入れないでね、お米が多いといけないから」 「はい」 「え~っと、人差し指ここに立ててみて」 「はい」 そう言われたので流しを指さすように立てました。ユキさんはそれを横から見てこう言います。 「うん、その指一本くらいお米の上にスープがあるようにして」 「わ、分かりました」 「そしたら具も全部入れて、あとは火に掛けるだけ。最初は強めにして、沸いたらすこしグツグツしてるくらいの火にするの」 「はい」 「で、そのまま、……五分くらいでいいかな。そのあとは弱火にして十五分くらい……、ううん、二十分くらいにしようか」 「分かりました」 「まあ、まだやらなくていいわよ、スープも冷めてないし」 「えっ、いつ始めたらいいですか?」 「十二時過ぎくらいに出来てればいいから、十一時半になってからでいいんじゃない?」 「分かりました」 「じゃあお願いね」 そう言うと、料理しながら出掛ける準備を終えていたユキさんは玄関に行こうとします。でもその背にこう言いました。 「あの、フタ取ったらダメですよね、グツグツしてるとかどうやって見たらいいですか?」 「ああ、フタ取って、見ていいわよ、ご飯炊くわけじゃないから」 「そうなんですか」 「お粥よ、お米の煮物だと思ったらいいから。じゃね」 それでユキさんは出て行きました。  ストーブの上にやかんを置いてから、紘一さんがサキちゃんのおでこのタオルを替えるのを見ていました。お粥の鍋は弱火にしたところなので、しばらくは放っておいても構いません。 「サキちゃん、朝から寝たまんまですよね」 なんとなくそんなことを言ってました。その言葉に紘一さんが応えてくれます。 「だね、一度も起きてない」 それからはまた無言でした。  お鍋の火を消した頃、サユリさんが帰って来ました。 「おかえりなさい、もらえました?」 と、出迎えました。 「うん、もらえたわよ」 サユリさんはそう言いながら台所を抜けて居間へ。そしてこたつの上に紙袋を置くと自分の部屋へ行きます。  オーバーを脱いで戻ってきたサユリさんが、こたつに着いて紙袋をひっくり返します。中からはお医者さんでもらう紙の薬袋が二つ出てきました。 「舘医院」 薬袋に書いてある文字を読んだらサユリさんがこう言います。 「それ忘れてね、内緒だから」 「えっ、あっ、はい」 私がそう答えるとサユリさんは紘一さんの方を向いて、 「コウちゃんも、いい?」 と、紘一さんにも念を押します。 「分かりました。でも、サユリさんって本名だったんですね」 紘一さんの返事はこうでした。そして、それは私も思ったこと。だって、薬袋に書かれた名前が、磯谷小百合、だったから。 「ええ? ああ、それも忘れて、内緒だから」 「分かりました」 そう答える紘一さんと私は顔を見合わせました。その姿を見てサユリさんが言います。 「ちなみに、私の名前じゃないから」 無言でサユリさんを見ました。 「ワカバさんの本名よ。誰にも言ったらダメだからね」 「はい」 そうだったんだ、ワカバさんって人には会ったことないけど。 「睡眠薬と違って風邪薬は普通に出せる薬だから、普通に受診したことになったんだって」 睡眠薬って薬は普通に出せないんだ。と思っていたら、サユリさんがお薬の説明を始めます。 「で、この解熱って書いてある方は熱が下がるまでだけ。こっちは風邪薬で、熱が下がってもなくなるまで飲ませるようにってことみたい」 「分かりました」 と言って差し出されたお薬の袋を受け取るけど、サキちゃんが起きてくれないと飲ますことも出来ない。  サキちゃんが起きないまま一時を過ぎて、ユキさんが帰って来ました。台所を覗いてから居間に顔を出してこう言います。 「まだお昼食べてないの?」 「だって、サキが起きないから」 こたつでテレビを見ていたサユリさんがそう返します。 「サキちゃんは起きてからにして食べましょうよ。私もう限界」 「そうね、そうしよっか」 サユリさんがそう言ったところで、サキちゃんの傍にいた私は腰を上げました。するとユキさんがこう言います。 「マリちゃん手伝って」 返事をして台所に行くと、ユキさんからしょうがを渡されました。 「それ、半分くらいおろして」 「えっ? 何か作るんですか?」 「元気な人はお粥だけじゃ物足らないでしょ」 ユキさんはそう言うと、脱いだジャンパーを置きに自分の部屋に行きます。私は言われた通りおろし金でおろししょうが作り。戻ってきたユキさんは小鉢にお醤油とみりんを入れてお砂糖も少し足します。そこに片栗粉も少し入れてます。そして私のおろしたしょうがもそこへ。その後冷蔵庫を開けて、 「これが痛むころだから使っちゃおう」 と言って、豚のスライス肉の包みを取り出します。それを適当な大きさに切るとボールの中へ。手早く玉ねぎもスライスしてそこに足します。そしてさっき作った醬油ダレを掛けて混ぜてます。 「マリちゃんはキャベツ切って、千切りで」 そう言われてキャベツの千切り作りを始めました。  コンロの奥側に移して先に火を入れていたお粥の鍋から湯気が出始めると、ユキさんがフライパンでお肉を焼き始めます。私の千切りはユキさんが用意したお皿に十分盛ったところで終了。そのキャベツの上にユキさんが、焼けたお肉を次々に載せていきます。そして豚肉の生姜焼きの出来上がり。四人で生姜焼きをおかずにお粥を食べました。鶏ガラスープのお粥、お粥ってイメージではなかったけど、とってもおいしかったです。サキちゃんが食べる分は卵とじにする、とユキさんは言います。そっちも食べてみたい。  ビールが欲しくなる、なんて言いながら食べていたサユリさんと違って、紘一さんはサキちゃんを気にしながら食べていました。そしてさすがです、サキちゃんが起きたことに気付きました。 「あっ、サキ、起きましたよ」 と言いながら、すでに腰を上げています。そしてまっすぐサキちゃんの所へ。大丈夫か? なんて声を掛けているけど、私にはまだサキちゃんが起きているように見えませんでした。でも紘一さんの声に反応してサキちゃんが動いています。紘一さん、本当にすごい。何を見て気付いたんだろう。  起きたサキちゃんを布団に座らせたままお粥を食べさせました。お粥を用意している間に計ったサキちゃんの体温は、八度をちょっと超えたぐらい、下がったとは言えません。それでも、お代わりはしませんでしたが、軽目によそったお茶碗一杯を食べてくれました。食べてくれたのでその後はお薬。お薬はどちらも粉薬だったので、ゴクゴクとお水の飲めないサキちゃんはムセながら飲んでいました。苦い、とも言いながら。苦いと言ったので、ユキさんと探し回って買って来たバナナを食べるかと聞いたら嬉しそう。あっという間に二本食べちゃいました。そしてそのまま寝かせます。ちゃんと食べてくれてお薬も飲んだので少し安心しました。バナナを食べているときはそれまでと違って顔に少し色が戻っていたし。  一時を過ぎてから昼食を食べた私たちは、まだ食べたばっかりって感じの五時前に夕食。さすがにサキちゃんは起きません。そして、鍋にお粥が残っていることを書いたメモとお薬、そしてバナナをこたつの上に置いて出勤しました。  今日こそほんとのクリスマス。なのにお客さんはいつもと変わらないくらい来ました。ほんとに皆さん、クリスマスくらい家族で過ごしたら? って言いたいです。でもまあ、今日もプレゼントをくれる方が何人かいたので、それは嬉しかったんだけど。  閉店の十二時にはお客さんが途切れず、お店を出たのは一時過ぎになりました。出勤前に、明日サキの熱が下がってたら食べよう、と、サユリさんが買ったケーキを持って帰ります。  帰り着いて玄関を開けたら居間の電気がついています。サキちゃんがこたつで寝ていました。こたつの上にはお粥、バナナを食べたあとがあります。サユリさんがこたつの近くのゴミ箱を覗いて、薬も飲んでる、と確認。サキちゃんをこたつから引っ張り出して布団まで連れて行きます。当然サキちゃんはその時目を覚ましましたが、布団に寝かせるとそのまま寝ちゃいました。サキちゃんを布団まで連れてくるとき、サキちゃんの身体がとても熱かったのが心配。なので寝ちゃったサキちゃんの熱を計ろうとしたら、 「今はダメだよ、こたつで寝てたんだから」 と、サユリさんが言います。そっか、こたつで寝てたから熱かったんだ。  翌朝のサキちゃん、みんなが寝ている間に起き出していました。そして朝ごはん代わりに冷蔵庫からサユリさんの買ったケーキを取り出して、一人で食べていました。みんなが起き出した頃にはこたつでテレビを見ています。 「おはよ、気分は?」 そう声を掛けると、 「うん、もう大丈夫。ごめんね、心配かけて」 と、明るい顔で返してきます。その姿にみんな安心顔。でもこう聞きました。 「熱は? 起きてから計った?」 「ううん、もう大丈夫だよ」 「ダメ、念のため計って」 そう言って体温計を渡します。大丈夫だよ、などと言いながら、それでもサキちゃんは受け取って脇の下に挟んでくれます。  しばらくすると、体温計の角度を変えながら水銀のメモリを見て、サキちゃんが体温を読み上げます。 「三十七度……、までいってない。六度八分くらいかな?」 「まだちょっとあるね」 私がそう返した直後、顔を洗い終えて朝食の用意を始めていたユキさんが、冷蔵庫を覗きながらこう言います。 「あれ? ケーキの箱、開けたあとがある。誰かケーキ開けた?」 私とサユリさんと紘一さんの三人が顔を見合わせます。そしてお互いに首を横に振ります。すると、 「あっ、朝ごはん代わりに食べました」 と、サキちゃんがサラッとそう言います。 「食べた? あんたねえ、何一人で食べてんのよ」 と、サユリさん、顔は笑っているけど。 「ええ? だってみんなお店で沢山食べたでしょ? 私食べてないですもん」 確かにクリスマスケーキを持ち込んで振舞ってくれたお客さんは何人かいるけど、カウンターにはそんな人は来なかった。なので私は食べていません。昨夜はサユリさんもカウンターだったので同じく。 「だとしても、みんな揃うまで待ってなよ」 サユリさんがそう返します。 「えっ、すみません、……でした」 「まあ、食後にみんなで食べるとき、サキちゃんはなしってことでいいんじゃない?」 サキちゃんの謝罪の言葉の後、ユキさんがそう言います。 「当然そうだね」 サユリさんが同意。紘一さんは笑顔で聞いているだけでした。 「マリはどう?」 サユリさんが私に聞いてきました。 「まあ、当然ですね」 「ええっ、嘘、私も一緒に食べたい」 そう言ってくるサキちゃんにこう返します。 「サキちゃんがクリスマスケーキ食べれずに寝てると思って、食べずに我慢してたんだよ」 するとサユリさん、ユキさんも、 「そうよ」 と、声を揃えます。と言っても、ボックスでユキさんがケーキを食べてる姿は見たけど。でもまあそれは言いません、私達も食べれなかっただけで我慢したわけじゃないし。だって、カウンターにケーキが回って来ないかなって待ってたから。代わりにこう言いました。 「だからサキちゃんの熱が下がったらみんなで食べようって、サユリさんが買ってくれたんだよ」 ちょっと意地悪かな。 「そうだったんだ」 ああ、サキちゃんの顔がまた曇ちゃった、ごめん。 「サユリさん、すみませんでした、勝手に食べちゃって」 サキちゃんが頭を下げます。 「まあいいわよ、どうせみんなで食べるつもりだったんだから」 「すみません」 「もういいってば、朝ごはん終わったら改めてみんなで食べましょ、サキも」 「いいんですか?」 「みんなで食べる、って買って来たんだから当たり前でしょ」 「ありがとうございます」 サキちゃんの顔に元気が戻りました。  そして朝食後、コーヒーを入れ直してからこたつの上にケーキの箱が。全員が見守る中、ユキさんが箱のふたを取りました。現れたケーキを見て全員が固まりました。だって、丸かったケーキが三日月になっていたから。 「あ、あんたこれどうやったの?」 サユリさんがサキちゃんに尋ねます。 「フォークで端から食べてたらこうなって……」 「フォークって、切らなかったの?」 「端の方、少しだけ食べるつもりだったから」 「少しって、半分以上ないじゃない」 「すみません、お腹空いてたし、おいしかったから夢中で食べちゃって……」 サユリさんが言葉を失くしていました。するとユキさんがこう言います。 「これ、もうこの人数に切り分けるの無理ね」 「いや、大体でいいから四つに分けて」 サユリさんがそう言います。 「四つ?」 ユキさんが聞き返します。 「そっ、やっぱりサキはなし」 「ええっ、そんな、もう一口、……二口だけ下さい」 「何言ってんの、もう一人分以上食べてるじゃない」 「そんなあ」 「絶対ダメだからね」  なんて言いながらも、結局は五人で直接フォークでつつき合って食べました。瀬戸の家では脂っこいバタークリームのケーキばかりでした。それはそれでおいしかったんだけど、やっぱり生クリームのケーキは絶品。ほんとにおいしかったです。五人で競うように食べたので、味わえなかったのが残念だけど。そして、もう少し食べたかったな。  ケーキを食べ終わって私とユキさんが片付けていたら、サユリさんがサキちゃんに尋ねました。 「あんた、朝もちゃんと薬飲んだ?」 「えっ? いえ、もう治ったみたいだから」 「ダメよ、熱さましの方はもういいかもしれないけど、風邪薬の方はなくなるまで飲ませるように言われてるから」 「え~、もう大丈夫ですよ」 「ダメ」 「そんなぁ、あの薬苦いのに、ケーキ食べる前に言ってくださいよ」 「自主的に先に飲まなかったあんたが悪いんでしょ」 「そんなぁ」 「ほら、さっさと飲む」 抵抗空しくサキちゃんは、お薬を飲まされていました。  そんなクリスマスから三日後の十二月二十八日土曜日、年内最後の営業日。朝礼でお給料を頂きました。それをみんなと同じように更衣室に持って行こうとしたら、私とカオリさんはママに呼ばれました。二人でママの前に立つと、ママの隣のマネージャーがこう言います。 「気付いてると思うが、小倉商店、あれ以来二か月来てない」 カオリさんと顔を見合わせました。マネージャーが続けます。 「あの日の分も請求してるが結局払ってくれそうにない。クリーニング代は払ったんだけどな」 「……」 「まあ、そんなことはいいんだ。だけど、お前たちの所為で大口が一件減ったのはいいとは言えない。分かるな?」 カオリさんが少しの間のあと頷いたので、私も頷きました。 「よし、そう言うわけでお前たちには罰金だ。積立金から引いたから見とけ」 そう言うとマネージャーはさっさと自分の部屋に行ってしまいます。ママも開店準備で離れました。カウンター前のボックスのイスにカオリさんが座り、お給料袋の中から明細書を取り出します。私もカオリさんの近くのイスに座って、同じように明細書を確認しました。  今月の社内積立金、二万千円ほど。そして、社内積立金総額の所には十九万円ほどの金額が入っています。先月は四万円弱でした。おかしいですよね、そう、おかしいのです。今月の総額の十九万円ほどの金額の前には横棒が入っています。つまり、マイナスってことです。そして、今月の積立金額と総額の間にいつもはない一行があります。弁償額と書かれた一行。そこに二十五万円と入っていました。つまり、十九万円なんて大金をお店から借金していることになったってこと。毎月二万円ほど積立額があるとしても、これから十か月は現金でもらえる分しかないってことだ。まあ、それでも十分生活できるから、困らないと言えば困らないんだけど。でも、十九万円なんて途方もない金額を借金しているって言うのはなんだか怖くなってきます。 「いくら引かれてる?」 カオリさんがそう聞いてきました。 「二十五万です」 「一緒か。と言うことは二人で五十万? ぼったくりだよねぇ。そこらの若いサラリーマンの年収くらいだよ」 「そうですか」 「そうよ。私だって今年一年分の貯金がなくなったみたいなもんなんだから。こっちだって被害者なのに、踏んだり蹴ったりの大損よね。って、マリちゃん、あんたそんなに積立貯まってないでしょ、どうなってんの?」 私は明細書をカオリさんに見せて言いました。 「マイナスってなってます」 「へ~、こうなるんだ。まあ、足らない分すぐ払えって言われなかっただけましか」 そっか、そうなってた可能性もあるんだ。 「でも、それがゼロになるまでは辞めれなくなったね」 カオリさんがそう言いながら腰を上げて更衣室に向かいます。 「そうですね」 そう返しながら続きました。すると歩きながらカオリさんがこう言います。 「それにしても腹立つ。二十五万ってどうすんのよ、ほんとに。予定がいろいろ狂っちゃうじゃない」 なんの予定だろ? と思ったけれど聞けませんでした、もうカオリさんが更衣室の扉前だったから。年内最後の仕事前、私も重い気分で更衣室に入りました。
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