第一部 07

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第一部 07

 昭和四十四年 一 「明けましておめでとうございます」  この挨拶で始まった一月六日月曜日の朝礼。お店に新しい人が入りました。それは男性、マサさんでした。以前パープルにいたので特に紹介はなし。ただ、 「年齢的には後藤や酒井の方が上だけど、香取はチーフ候補として戻したからお前たちの上だぞ、いいな、こいつの言うこと聞けよ」 と、マネージャーが後藤さん、酒井さんに一言付け足しました。  マサさんは正直言って顔が怖いです。雰囲気も怖い人です。なので、お店での接客なんて出来るのかな? と思っていましたが、男性の誰よりもお客さんと話をする人でした。前にいたからなのか、マサさんに話し掛けるお客さんもいます。なんだか意外でした。  新年初日だと言うのに開店直後から忙しい日でした。しかも、すでに酔っぱらった状態で来るお客さんが多かったです。だからなのかも知れませんが、遅い時間にはガラガラになりました。十一時になるともう、二人のお客さん二組だけ。この二組はどちらも常連さんで、そしてどちらも十一時半にはいつも帰っていきます。なので、あと三十分くらいで閉店かな、と思ったところに一人入って来ました。そして私の前に。 「明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」 「おめでとう。こちらこそよろしくね」 と言って座るのは桜井さん。 「新年早々遅いですね」 「まあね、初日から会議だったから。ビール頂戴」 「こんな時間までですか? 晩御飯食べました?」 おしぼりを渡してビールを用意しながら聞きました。 「ああ、今日は途中で出前取ったから」 「へ~、会議しながら食べるんですか?」 そう言いながらビールをお注ぎします。横から黙ってサユリさんがお通しも出してくれます。すると桜井さんが私からビール瓶を取ります。そして私たち二人にこう言います。 「二人もグラス。明けましての乾杯しよう」 そして三人で乾杯。  桜井さんはビール一本で水割りになりました。その水割りも二杯目がなくなりかけたので、 「お作りしますね」 と、桜井さんのグラスに手を伸ばしました。すると、 「いや、今日はもう帰るよ、明日も朝から会議だから」 と、桜井さんが言います。 「明日もなんですか」 手を引っ込めながらそう言いました。 「そっ、明日は朝から大森組で会議」 大森組って言うのは大きなゼネコンです。ゼネコンって言うのは工務店と同じ建築会社のことみたいですが、桜井さんはゼネコンと言います。 「そうなんですか。また高速道路ですか?」 「うん? まあね」 桜井さんが目を逸らしました。言えない話の時に見せる仕草。なのでもう聞きません。 「じゃあ、会議中居眠りしないように早く寝ないといけませんね」 「居眠りか、そうだね、居眠りなんかしたらクビになっちゃうからね」 笑顔でそう返してくれる桜井さん。そしてグラスに残った水割りを飲み干すと席を立ちます。 「じゃあ、居眠りしないように帰って寝るよ。ごちそうさん」 「ありがとうございました」 それで桜井さんは帰っていきました。この人はお店の外まで見送ってくれなくていいと言うので、いつもカウンターから見送ります。  サキちゃんが高熱を出した去年のクリスマス。その数日前から私達の部屋には男の人が来ていません。もちろん紘一さんはいますよ。彼はあの部屋の住人で、泊まりに来ているわけではないから。  男の人が来なくなった理由、それは、愛に新しい女の子が続けて六人も入ったから。まあ、その少し前に五人ほど辞めたらしいのでその補充だけど。そしてその子たちは全員寮住まい。男の人は新しい女の子が好きなようで、それからはそっちに行ってばかり。ルミさんの住む部屋にも新しい子が二人入った様子。なのでパープルの後藤さんと酒井さんもそっちにばかり行ってます。パープルの男性は、基本的にパープルの女性がいる部屋にしか泊まれません。なのでルミさんがいる部屋には出入り自由。それ以外の愛の部屋には、その部屋の女性を送って行った、なんて理由がないと泊まれません。それは愛の男性も同じ。なので愛の方が早く閉店した時なんかにパープルの私達が出てくるのを待っていたりします。そして、送ってやる、と勝手なことを言ってついてきます。送ってもらう必要なんてないので迷惑なだけなんだけど、疲れるし、睡眠時間だって減るし。それでもまあ、後藤さん達も同じことやってるので文句言えないかもだけど。  と言うわけで、私達の部屋はこの年末年始、とても平和でした。サキちゃんと紘一さんはそんな中でもくっつきたかったようで、私は寝た振りするのが大変だったけど。  新年初日のその夜の帰り道、そんな私達の部屋に一緒に帰る男性がいました。まあ、言わなくても分かると思うけどマサさんです。お店の入る建物を出て道を歩き始めると、 「泊めてくれよ」 と、マサさんが言います。はい、と答える紘一さんに続いてサユリさんがこう言います。 「私は今夜勘弁してくださいよ、生理始まったんで」 すると続けてユキさんがこう言います。 「と言うことは、私も今夜あたりから始まるかも」 そう、この二人、大体毎月同じ頃に来ます。 「はあ? 何言ってんだお前ら」 マサさんはそう返します。そしてこう続けました。 「それよりサユリ、桜井さん、こっちにはよく来るのか?」 「えっ? ああ、そうですね、週一以上は来てるかな? 前よりはよく見るかもです」 「そうか」 「なんでですか?」 「扉にはあんまり来なくなったからな」 「そうですか」 「お前、桜井さんと親しいのか?」 「いえ、そんなに。今はマリちゃんが一番親しいんじゃないかな?」 サユリさんがそう言うとマサさんが私の方を向きます。 「そうなのか?」 そしてそう聞いてきます。 「えっ、まあ、そうですかねぇ」 と答えましたが、それは私がカウンター担当みたいになっているからだけ。桜井さんはボックスががら空きの暇な日でもカウンターにしか来ないから。 「そうか」 マサさんが私を見たままそう言いました。  部屋に戻って着替えや洗顔を終え、みんな寝ようかってなった時、 「俺、布団ねえからお前のとこで寝かせてくれ」 と、マサさんから言われました。え~、私なの? と思いながらも、 「は、はあ、はい」 と答えるしかありませんでした。  サキちゃんはまだ紘一さんと話していたので一人で部屋に入りました。襖を閉めて薄暗い部屋の中でパジャマも下着も全部脱ぎました。どうせ脱がされるんだと思って。そして布団に入った頃、マサさんが部屋に入って来ました。暗がりの中、マサさんが服を脱いでいるのが分かりました。ワイシャツやスラックスをハンガーに掛けています。脱ぎ捨てる人ばっかりなのに珍しいな、と思っていたらマサさんが布団に入って来ました。布団に入って来たマサさんの身体が私の身体に触れると、 「ん? お前、裸で寝るのか?」 と、マサさんが言います。 「えっ、いえ、その……」 「なんだ?」 「いえ、その、え~っと、……するのかと思って」 なんだかすんごく恥ずかしくなりました。 「はあ? その気だったのか」 うそ、マサさんはそのつもりなかったの? でも、マサさんだって裸じゃない。と思ったら、マサさんはパンツを履いていました。いやだ、これじゃ私がその気で誘ったみたいじゃない。 「じゃあするか」 ああ、ほんとに私が誘った格好だ。と思っているうちに胸を掴まれ、唇が重なっていました。  こと、が終わって落ち着いた頃、マサさんが話し掛けてきました。 「桜井さんとどんな話してる?」 「えっ?」 「何でもいい、どんな話してるか教えてくれ」 なんで桜井さんの話? とは思ったけれど答えます。 「え~、別に普通の話ですよ」 「例えば?」 「例えば、今日はテレビの話してました」 「テレビ?」 「はい、お正月のテレビの話」 「テレビ好きなのか、桜井さん」 「う~ん、それはどうなんでしょ。今年は忙しくてお正月の間も会社で仕事してたらしいんです。で、私はどこも行かずにずっとテレビ見てたって言ったら、どんなテレビやってた? って聞くからその話でした」 「そうか、忙しいのか」 「みたいですね、ずっと高速道路の仕事してるみたいですよ」 そう言うと、天井を見上げていたマサさんが私の方に体を向けます。 「高速?」 そしてそう言いました。高速道路と言う言葉に反応したみたい。でも私はこう返していました。 「あっ、桜井さん、やっぱりテレビ好きかもです。吉長百合のことが好きみたいで、カラーで見たいからテレビ買い替えたいけど、カラーテレビは高いから無理だ、って嘆いてましたから」 「そうか、吉長百合か」 「ええ、去年も忙しい中時間作って映画観に行ったって言ってました」 「まあ、今、一番人気の女優だからな」 「ですよね、きれいだし」 そう返しながら、怖い顔してるけどマサさんも女優に興味あるんだ、なんて思っていました。するとしばらくしてマサさんがまたこう聞いてきました。 「さっきの高速の話、教えてくれ」 「ええ? 教えてって言われてもそんなに知らないですよ」 「いいから、知ってること教えてくれ」 「え~っと、100メートル道路の所、すっと工事してるじゃないですか」 「……」 マサさんは私の顔を見たまま黙って聞いています。 「ダンプカーとか黒い煙吐いていっぱい走ってるし、埃もすごいし。で、桜井さんの所、大丈夫ですか? って聞いたんです。桜井さんの会社、100メートル道路の所だから」 「……」 「そしたら、やっぱり排気ガスの匂いとかすごいって言ううんですよ。で、何作ってるんですかね? って聞いたら、高速道路になる予定だって」 「それほんとか? 地下鉄じゃないのか?」 「いえ、私も地下鉄だと思ってそう聞いたら、久屋で掘ってるのは地下鉄だけど、100メートル道路の方は高速道路用の準備だって言ってましたよ」 「そうか、高速道路か」 マサさんはそう言った後、身体も顔も私の方に向けたまま、視線は上を向きました。 「ええ。あっ、知ってます? その道路、100メートル道路の上に出来るんですよ。道路の上に道路が出来るんですよ」 「ああ、東京とか大阪にはあるよな」 「そう、それと一緒みたいです。あっ、でもマサさん知ってます? その道路って、ビルの五階とか七階くらいの所なんですって」 「そうなのか」 「ええ、そう言ってましたよ。なんかすごいですよね、そんな高いところを車が走るなんて」 「そうだな」 私はなんだか得意になって話していましたが、マサさんはまじめな顔でした。 「どんな景色なんだろ。っと言うか、車、落っこちたりしないんですかね、恐そうですね」 でも私はそんなことを言っていました。するとマサさんがまたこう聞いてきます。 「そんな話までしてるなら間違いないんだろうけど、ほんとに高速道路を作ってるんだな? 地下鉄じゃなくて」 「そう聞きましたよ」 マサさんが仰向けになり、天井を見上げてこう言います。 「そうか、まだ計画だけで動いてないと思ってた」 独り言のような口調でしたが、それに私は返していました。 「ええ、まだ計画中なんで準備の工事みたいですよ」 「そうか、そうだよな。でも工事は始まってるのか」 「みたいですね。明日も大森組で会議って言ってましたから、多分その工事のことですよ」 そう言うと、マサさんがまた私の方を向きました。 「大森組? 有楽とか渥美じゃないのか」 そしてそう聞いてきます。マサさんが言う、有楽と言うのは有楽建設のことで、渥美は渥美建設。どちらもゼネコン、大森組と同じくらいの大きな会社です。 「あっ、そっちは別の所で、桜井さんはやってないみたいです。そっちの方が進んでるって悔しがってますけど」 「別のところ?」 なんだかマサさんの目が真剣過ぎてちょっと怖くなってきました。でも、気にせず続けます。 「はい、そっちはえっと、南北の方? あっ、41号線の方だって言ってたと思います」 「あっちも高速なのか、そうか。で、そっちの方が進んでるってか」 「みたいですね」 「でも、高速の工事やってるなんてどこにも出てなかったと思うけどな」 マサさんがまた独り言のようにそう言います。 「ああ、まだ計画中だから内緒みたいですよ」 「やっぱりそうか」 「来年、じゃなくてもう今年か、今年中には公になるみたいですけど」 「ああ? どう言うことだ?」 「え~っと、よく分かんないんですけど、お役所がその工事用の会社作るんですって、コウシャだったかな? その会社が出来たら発表するんですって」 「公社? 公団じゃないのか?」 「コウダン? すみません、分かんないです」 「まあいい、で、それが今年出来るってか?」 「ええ、そう言ってましたよ」 「そうか」 そう言うとマサさんはまた仰向けになり天井を見上げます。私は少し前の自分のセリフを思い出してこう言いました。 「あの、マサさん、内緒って言ってたんで他の人に言わないでくださいね」 「なんで?」 「だって、内緒って言ってたから、その、桜井さんが困るかも知れないから」 するとマサさんがまた私の方を向きます。 「だったら俺に話したのはまずかったんじゃないのか?」 「えっ、いえ、そうなんですけど、その、だから内緒で、お願いします」 「う~ん、どうするかな」 「そんな、お願いしますよ」 するとマサさんの手が伸びて来て私の胸を掴みます。 「分かってるよ。俺も変なところには知られたくない話だからな」 マサさんの顔が近付いてきます。 「えっ、どう言うことですか?」 「うん? 内緒のうちじゃないと仕事にならないんだよ」 仕事? と思ったけれど聞けませんでした。その後すぐにまた唇を塞がれ、二回目が始まったから。  翌朝、七時過ぎに起きると部屋の中には私だけでした。隣のサキちゃんの布団にも誰もいない。と言うか、布団を使った感じがしない。そして、ハンガーに掛けていたマサさんの服はありませんでした。  冷たい空気に身を竦めながら部屋着を着て、居間に入りストーブをつけます。火を付けながらベランダ側の紘一さんの布団を見ると大きく膨らんでいる。多分サキちゃんはあの中だ。サユリさん達の部屋の襖は閉まっていて中は見えないけれど、誰か起きている気配は感じられません。みんなまだ寝ています。でも、マサさんはもうどこにもいませんでした。  その日の夜もマサさんは私の布団でした。サキちゃんは部屋にも入って来ない。また紘一さんの所で寝るつもりなんだ。それならマサさん、サキちゃんの布団で寝てよ、と思いながら抱かれていました。 「今朝早かったですね。何時に帰ったんですか?」 また、こと、が終わってから隣のマサさんに寄り添いながら尋ねました。 「うん? 六時半くらいかな?」 「そんなに早かったんですか」 「まあな、着替えたかったからな」 「着替えですか」 「ああ、皺の入った服で事務所行けないだろ」 「そんなに早くお店行ったんですか?」 「店? ああ、ちがう、会社の方だ。九時にはみんな揃うからハ時半に行ってたんだ」 「そうなんですか」 マサさんは会社の仕事もやってるんだ。って、会社がお店以外に何をやっているのか知らないけど。でも、昨夜寝付いたのは多分二時過ぎくらい。そんな時間から仕事してたなんて。 「眠くならないですか?」 思わずそう聞いてました。 「ああ? ああ、昼間少し寝たからな」 「そうですか。でも大変ですね、朝から会社行って、夜もお店に出てるなんて」 「いつもは昼ぐらいだけどな、事務所行くのは」 「そうなんですか」 「ただ、昨日高速の話聞いただろ、今日は朝一番でその報告しとかないといけないと思ったからな」 「えっ?」 「角紅と大森組ってのはまだ誰も知らなかった。お手柄だぞ、マリ」 「えっ?」 私、何かしたの? と言う思いでまたそう言ってました。でも返事はなし。 「どういうことですか?」 なんだか気になって聞きました。でもマサさんは寝返りを打ちながら、 「悪い、今日はもう寝かせてくれ。まだしたかったんなら隣の後藤さんのとこ行ってくれ」 と言って背中を向けます。そう、今夜は後藤さんも来ていて、隣のサユリさん達の部屋にいます。だからって行くわけないです。したいわけじゃない。なんだか酷いこと言われた気分です。そう思いながら、そっとマサさんの背中に触れました。マサさんは反応しません。そのままマサさんの背中におでこを付けて眠りました。その背中には鮮やかな絵があります。でも、暗い部屋の布団の中では見えません。  マサさんは三夜続けて私の所へ来ました。三夜目の昨夜は一緒に寝ただけ。なので今朝の私はパジャマを着たまま目覚めました。そして、今朝もマサさんはもういませんでした。  台所でお湯を沸かしていたら、紘一さんの布団からサキちゃんが抜け出してきました。少し前にストーブはつけていたけど、部屋の中はまだ暖まっていません。裸のサキちゃんは身体を縮こませて、 「おはよ」 とだけ言って、私達の部屋に向かいます。そしてすぐに部屋着を着こむとトイレへ。トイレに行きたくて目が覚めたみたい。そしてトイレから出てくるとそのまま部屋に戻り、部屋着のまま自分の布団に潜り込みます。起きるつもりはないみたい。  お湯が沸いて台所のテーブルでコーヒーを飲み始めた頃、サユリさん達の部屋の襖が開きました。服を着た後藤さんが出て来て、ベルトを締めながら酒井さんが続きます。 「おはようございます」 そう声を掛けますが、 「おう、じゃあな」 と、後藤さんがそれだけ言って二人は私の横を通り過ぎます。そして玄関から出て行きました。これはいつものこと。顔も洗わずあの人たちは帰っていきます。  しばらくするとサユリさん、ユキさんが部屋着姿で現れました。 「もう、起きたらこたつのスイッチも入れといてっていつも言ってるでしょ」 と、テレビをつけながらサユリさん。 「すみません、忘れてました」 そう返すと、 「私もコーヒー頂戴」 と、テレビのチャンネルつまみに手をやりながら、画面が映るのを待っているサユリさんが言ってきます。  こたつについたサユリさんにコーヒーを出して台所に戻ると、湯沸し器で顔を洗い終えたユキさんが、 「マサさんに気に入られたみたいね」 と、私の方を向きます。 「そうなんですかねぇ」 朝食を作るため台所のユキさんに並びながらそう返します。 「そうだと思うよ、三日続けてマリちゃんのとこ行くんだもん」 なんだか、自分の所に来て欲しかったように聞こえるユキさんの言葉。私は冷蔵庫からベーコンを取り出していました。そしてユキさんの横に戻り何か返そうと思っていたら、流しの前の小さな鏡を覗きながらユキさんが続けます。 「でも、今夜あたりはもう来ないでしょうね」 「そうですか」 なぜだか残念がってるような口調になっちゃいました。するとそれを聞いてユキさんが私の方を向きます。 「なに、来て欲しいの?」 やっぱり残念がってるように聞こえたみたい。 「いえいえ、そんなことないですよ」 ほんの少しの間私の顔を見たユキさんが、鏡に顔を戻してこう言います。 「そう、ならいいけど」 「……」 なんて返したらいいか分かりませんでした。 「マサさん、女がいるから期待しない方がいいよ」 期待なんて、そんな気は全然なかったけれど少し驚きました。 「えっ?」 「扉の子と一緒に暮らしてるのよ、マサさん」 そう言うユキさんの口調は暗く感じました。そして私はそのユキさんに何も返せませんでした。甘い香りの乳液の匂いを残してユキさんが離れて行ったから。  ユキさんが言った通り、その日の夜マサさんは一緒に帰りませんでした、翌日の金曜日も。そして土曜日、お昼から雨でした。ただでさえお客さんの少ないことが多い土曜日、雨なんて降っていたらほんとに暇な日になりそう。なんて思ったからなのか、二人組のお客さんを三人で接客するような日になってしまいました。 「え~、今日はいいですよ」 「なんで、食べたいって言ったやないか」 「言ったけど今日はダメですってば」 「だからなんで」 「明日は朝からレポート仕上げないといけないんですよ。だから今日は早く帰りたいんです」 「いいよ、パッと食べて帰るだけだから」 「え~、……」 カウンターに並んで立つナナさんを閉店後の食事に誘う蔦谷さん。ナナさんは断るのに必死です。蔦谷さんが誘っているのは伏見の方にあるとあるバー。そこにはメニューにはないハンバーグのサンドイッチがあって、とてもおいしいと言う評判です。でも、蔦谷さんにそのお店に連れていかれた女性はみんな朝帰りになる、と言うのもうちでは評判です。なぜだかそこに行くと立てなくなるくらい酔っぱらってしまい、記憶も曖昧になる。そしてすぐ近くのホテルでお泊りになってしまうと。飲み物に変な薬でも入っているんじゃないかとみんな言っています。そう、蔦谷さんのそこへの誘いは危険なのです。学校の先生がこんなことしていいのか、って言いたいです。  いつも一緒にカウンターに入るサユリさん、カオリさんの二人は今夜はお休みでした。カオリさんが休みの理由は知りませんが、サユリさんは今朝早くから旅行に行ってます。サユリさんを贔屓にしているお客さんに、富士山を見たことない、と言ったサユリさん。そのお客さんが誕生日の近いサユリさんをプレゼント代わりの富士山旅行に誘ったのでした。泊りの旅行について行くなんて、サユリさんもその人に気があるのかな? なんて思いながらグラスを洗っていました。 「分かった分かった、もういい、またにしよう」 「すみません」 どうやらナナさん、断りきれたようです。ちなみに、私は散々蔦谷さんの誘いを断り続けたので、もう誘われなくなりました。残念、なんて思ってませんよ。 「はぁ、今日はもう帰るか」 蔦谷さんがそう言います。するとそれを聞いたママが目の前のボックスから腰を上げてカウンターにやってきます。 「もう帰っちゃうんですか、蔦谷さん」 なんて言いながら。そして精算を始めます。私とナナさんはカーディガンを羽織ります、お見送りのために。  お勘定を終えた蔦谷さんを下まで送り出しました。雨が止んでいる、と思ったら、チラチラした雪に変わっていました。ネオンの光を受けて様々な色に輝く雪がすごくきれい。見上げていたけれどカーディガンの下はノースリーブのワンピース、とっても寒いです。数分も我慢できません。なので急いでお店に戻ろうとした時、知った顔を見つけました。 「おお、迎えに出てくれたの?」 目が合うとその人がそう言います。ほんの数歩だけど駆け寄って、その人の腕に腕を絡めて体を寄せました。あっ、寒かったからですよ。 「そうですよ、そろそろ桜井さん来るかなって思って」 「またまたうまいこと言うなぁ」 と、桜井さんは笑うけれど、少し体を離します。  腕を組んだまま階段を上がると、お店の前にいたマサさんが私達を見ています。一瞬マサさんの目を怖いと感じました。でも、 「いらっしゃいませ、今日も遅いですね」 と、桜井さんに愛想よく声を掛けます。強面の笑顔、意外と接客向きかも、と、こう言うマサさんを見た時は思ってしまいます。 「すみませんね、いつも遅がけで」 桜井さんがそう返すのを聞きながらお店に入りました。  その日はマサさんがまた部屋に来ました。そして私の所へ。求められ、ことが済んで眠りかけた頃、うつ伏せになってタバコを吸っていたマサさんが話し掛けてきました。 「今日は桜井さんとどんな話した?」 「えっ? 別に、普通の話ですよ」 「……」 マサさんは何も言わず煙を吐き出します。眠気の飛んだ私は熱の冷めた体に寒さを感じました。温もりを求めてマサさんにくっつきます。そして続けます。 「網走の映画観に行きたいとか」 「網走? ああ、高蔵ケンのか」 「はい」 「そうか。うん? お前がか?」 「えっ? ああ、違いますよ、桜井さんがです。去年のも観に行ったって言ってましたよ」 「そうか、桜井さん好きなのか」 「みたいですね。明日も仕事するみたいですけど、早く片付いたら見に行きたいって」 「お前とか」 「まさか、私は行かないですよ」 「なんでだ、連れてってもらえばいいじゃないか」 「ええ? ヤクザの映画ですよね、私はいいですよ」 「ヤクザ映画は嫌いか」 「怖そうですもん」 「ヤクザは嫌か」 「はい」 「そうか」 そう言った後、マサさんが小さく笑いました。なんで? と思いながらマサさんの背中に手を置いているのに気付いて、別のことに気付きました。マサさんの背中にも絵がある。マサさんもヤクザなんだ。  怒ったかな? と、少し怖さを感じていたら、新しいタバコに火をつけてマサさんが口を開きます。 「今日は高速の話はなかったか?」 「はい」 また無言で煙を吐くマサさん。でもしばらくしてこう言われます。 「高速の話聞いてくれよ」 「えっ?」 「桜井さんが来たら」 「なんでですか?」 「いや、俺も興味あるからさ」 「そうですか、でも、内緒だって言うから、桜井さんが話した時しか聞けないですよ」 「聞くと嫌がるのか?」 「う~ん、分かんないです。私から聞いたことないから」 「そうか」 そしてまた無言となりました。  温もりの中、また眠気が湧いてきました。でも何だか気になってこう聞いてました。 「聞いたほうがいいですか?」 マサさんはまた煙を吐き出します。そして、 「いや、いい。桜井さんが話した時だけ聞いといてくれ。で、何でもいい、なんて言ったか教えてくれ」 と言いました。 「分かりました」 私はそう答えながら眠りの縁へ。でも、タバコを消したマサさんからまた求められ、縁から落ちるのはもう少し後になりました。  その後マサさんは週に二、三日のペースで私の所に来るようになります。桜井さんがお店に来た日は必ず。でも私はそんなことにいつまでも気付きませんでした。  翌週の水曜日、成人の日でお店はお休み。そして、サユリさんの誕生日でした。夕食後、お祝いのケーキも食べ終えた頃、サユリさんから重大な発表がありました。 「私、来月でお店辞めるから」 みんな驚き顔でした。台所で洗い物をしていたユキさんは聞こえなかったのか無反応だったけど。  驚きで声も出なかった三人。その中から最初に口を開いたのはサキちゃんでした。 「ど、どうしてですか?」 「自分のお店やることにしたの」 「ええーっ」 これは三人から同時に出た声。 「どこでですか?」 私が聞きました。 「尾頭橋」 「おとおばし?」 「中日スタヂアムの近くよ」 そうなんですか、と私が頷いていたら紘一さんが尋ねます。 「何のお店やるんですか?」 「一応スナックだけど、料理屋みたいなお店にしようと思ってるの」 「料理屋?」 「うん、まあ注文聞いて何か作るとかってことは考えてないんだけど、あらかじめ作っておいた料理を食べてもらうみたいな感じで。例えば今の季節だとおでんとか」 「なるほど、良さそうですね、そういうお店あるし」 紘一さんがそう返すと続いてサキちゃんがこう言います。 「でもサユリさん、料理できるんですか?」 私もそう思いました。だって、サユリさんが料理作るところなんて見たことなかったから。 「今から覚えるの」 「ええっ? そんなんで出来るんですか?」 「料理ぐらいすぐでしょ」 と、あっさり返すサユリさん。あっさり返され過ぎて三人は何も言えませんでした。すると台所からユキさんが居間に入って来ます。 「そんな簡単に出来るわけないでしょ」 そしてそう言います。 「ですよねぇ」 と、サキちゃん。するとユキさんはこう続けます。 「だから料理は私。私も一緒にやるの」 「ええーっ」 また三人の声が揃いました。  二人がお店を始めようとしているのは尾頭橋の商店街にある四戸一の建物。ラーメン店、理容店、うどん屋、喫茶店と並ぶ、うどん屋さんが年内でお店を閉める、とサユリさんがとあるお客さんから聞いたのは去年の秋。その時からサユリさんは考えていたようです。家賃はそれなりだけど何とかなりそう。そう算段してから現地を見に行くと、駅の近くにはすでにスナックが数件ある。そこに新たに普通のスナックを出しても面白くない。と、どんなお店にするかもその時に考え始めていたそうです。そこで先に聞いた、食べる方もある程度充実したお店にする、と言うのを思いついたとか。でもサユリさんは料理が出来ない。そこでユキさんに相談。ただ、一緒にやろうではなく、料理を教えて欲しいと。  ユキさんは身の上を一切話さないのでなぜなのかは分かりませんが、ほんとに沢山の料理を知っています。なのでそんなユキさんに相談したのは当然の流れ。ユキさんは教えて欲しいと言われ、なぜなのかと聞きました。それまで全く料理をしようとしなかったサユリさんがそう言ってくるんだから、これも当然のこと。そしてサユリさんからお店を出す考えを聞いたユキさん、サユリさんがユキさんに教えを乞うために用意した大福もちを一つ食べている間に考え、こう答えたそうです。料理は私に任せて、と。そこから二人での計画となりました。日中やお休みの日に二人で出歩くことが多かったのはこのためだったようです。  その時はまだ営業中のうどん屋さんに二人は何度かお客さんとして通い、お客さんが少ないからお店を閉めるのではなく、店主夫婦が高齢のため閉めるのだと確認。そしてどんなお店に出来るかも店内を見て思案。同時にどのくらいのお客さんが見込めそうかも調べたそうです。中日ドラゴンズの球場がすぐ近くなので、試合があった日はお客さんが多い、勝った日は特に。なんてことも並びのラーメン店から聞き出していました。そして、周りには会社や工場もあり、お昼のお客さんも多い。なのでお昼も定食屋をやろうか、なんてことも考えているようです。なんだかすごい。  お金の算段もしっかりしていました。二人の現状の貯金額と、お店にある積立金。二人の積立金はかなりの金額になるはず。でも二人はそれを半分の額で計算したそうです。なぜなら、今まで満額もらった人の話を聞いたことがないからと。辞めるとなったらなんだかんだと言ってかなり減額されるそうです。そうなの? と、サキちゃんと顔を見合わせたら、うちの店やってる会社がどういうところか知ってるでしょ、とサユリさん。それでも一年はお客さんがほとんど来なくても何とかなる。一年以内に採算が取れるお店にすればいい。そう言う結論になったそうです。  そこからは具体的にそのお店の賃貸契約の話になります。すると、最初に聞いていた家賃より高くなっている。いい場所の店舗だからと上がったそうです。そして、他にも引き合いがあるから、と、いい顔をしなくなった不動産屋。その不動産屋の人こそ、最初にサユリさんの耳にこの話を入れたお客さんでした。契約できる前提で十二月に入った頃から退店の話をママにしていた二人。慌ててその人を口説きます。そして最後の一手が先日の温泉旅行。私達に、誕生日プレゼントで旅行に連れてってもらう、と言っていたのは嘘で、サユリさんが修善寺への温泉旅行に誘ったのだそうです。一夜を共にして約束させた、と、すごいことをサラッと言います。そして今日、その約束通り契約をしてきた、と、話しを締めくくりました。 「じゃ、じゃあ、いつまでここに?」 サキちゃんがそう聞きます。 「だから来月まで。ママからはほんとに辞める一か月は前に言って来てって言われてるから」 「そうですか」 「お給料の締めが二十五日でしょ? だからそれまでね」 「その後は?」 私が続きました。 「えっ?」 「いえ、その、住むところとか……」 「ああ、それは当然出て行くわよ。ここにはそれまでしかいれないだろうから」 「どうするんですか?」 と、サキちゃん。 「借りるお店ね、二階にも一部屋あるのよ。そこに住むつもり」 「住めるんですか?」 「さあ、今は物置になってるらしいけど、空いてからしか見れないから何とも言えない。でも、寝るくらいは出来るでしょ」 「いつ空くんですか?」 また私が聞きました。 「今月末。だから二月になったらすぐに鍵をもらいに行って中を見るつもり」 「そうですか」 なんだかほんとにもう決定事項。あと一か月とちょっとでこの二人とお別れなんだ、と、少し沈んでしまいました。隣のサキちゃんもおんなじような顔をしています。 「引っ越しは手伝いますから任せてくださいね」 そんな二人に反して紘一さんが明るい声でそう言います。 「ありがと、でも、そんなに荷物ないの知ってるでしょ」 と、サユリさんの笑顔。それにユキさんが続けてこう言います。 「それよりお掃除手伝ってよ。下のお店は少し模様替えするつもりだからいいんだけど、上の住むところは荷物置く前に一度ピカピカにしたいから」 「分かりました。ピカピカにしますよ」 「私も手伝います」 「私も」 紘一さんに私とサキちゃんも続いてそう言いました。 「ありがと」 サユリさん、ユキさんの二人がそう返してくる。  その後はビールを出して、二人の前途に乾杯、となりました。私にもこうやってここを出て行く時が来るのかな、なんて思いながら飲んだビールは苦かったです。  二月三日の月曜日。お店の掃除当番になっていたサキちゃん以外の四人で尾頭橋に来ました。昨日の日曜日で前の方が荷物を全部出して明け渡す、と言うことで今日引き渡してもらうとサユリさん達が言っていたのを聞いて、私と紘一さんはついてきました。来なくていいと言われたけれど見たかったから。  尾頭橋の駅から商店街を歩き、外れに差し掛かったところで、 「あれよ」 と、サユリさんが少し先の喫茶店を指します。喫茶店? と一瞬思ったけれど、隣は喫茶店って言ってたっけ、と納得しました。古そうには見えなかったけどなんだか簡単な、と言うか、粗末な建物。以前に両親と住んでいた借家に似ている。  十時に約束してる、と、その少し前にお店に着いたけれど、ガラスの入ったお店の引き戸が少し開いていました。覗くとカウンターのイスに座って不動産屋さんがもういました。 「おはようございます」 と、引き戸を開けて入ったサユリさんに続いて入ったユキさん。私と紘一さんも続きます。  引き戸から右側はカウンターで中は調理スペース。左側は向かい合って座る二人用の小さなテーブル席が三つ並んでいます。一番奥の席は天井が斜めになっている、上は階段かな。そこから奥は扉の付いた壁になっていて分かりませんでした。  サユリさんとユキさんはカウンターで不動産屋さんと話しながら、書類に何か書き込んだりしています。でもそれもすぐに終わり、 「じゃあ、開店したら飲みに来るからね」 と、不動産屋さんは帰っていきました。戸口まで不動産屋さんを見送ったサユリさん達。二人並んで店の中に向き直ると店内を見回しています。なぜか無言。やがて二人の視線が合うと、 「これでもうやるしかないですね」 と、ユキさん。 「う、うん、これからだね。頑張ろうね」 サユリさんがそう返します。なんだか二人の声が震えていたように感じました。表情もなんとなく硬いです。簡単なことのようにこれまで二人は話していたけど、やっぱり一大決心だったんだ。 「これでもうここはサユリさん達のものなんですか?」 紘一さんが明るく声を掛けます。 「私達のって、賃貸よ」 サユリさんがそう言って笑顔に戻ります。 「い、いや、分かってますけど」 紘一さんが頭を掻きます。みんな笑顔になりました。  お店はいいから奥を見ようと言うサユリさん達。なんでお店はいいのか聞くと、 「高松組の野村さんに相談したら、今やってる現場の下請けさん使って安く改装してくれるって言うから」 と、サユリさん。お客さんにそんな相談してたんだ。  奥への扉を開くと通路で、左右は押し入れのような物入れ。左側の物入れは天井が斜めになっていて狭いです。やっぱり階段の下なんだ。その奥は突き当りに扉。左右も扉です。右側の扉には、便所、と書かれた札が貼ってあり、トイレでした。突き当りの扉の向こうはもう外です。自転車が置けるくらいの狭い裏庭? の向こうに簡単な門扉と柵があって、その向こうは裏の路地です。 「洗濯機はここかな」 ユキさんが独り言のようにそこで呟きます。  左側の扉を開けるといきなり一段上がって狭い板の間、そして階段でした。キレイ、って感じではないけれど、掃除はしてある様子。なのでそこからは靴を脱いで階段を上がりました。  階段を上がりきったところの襖を開くと六畳間でした。入って左を向いた建物の裏側は二畳くらいの広さの板の間で、正面には床から一尺ほど上がって木の掃き出し窓。ガラス越しに木のベランダが見えます。右側は小さな流しの台所。七輪型のガスコンロが一つ置いてあります。 「思ってたよりひどくない。ちゃんと住めそうね」 サユリさんが一回りしてからそう言います。 「そうですね。でも、この畳の上で寝たくないなぁ」 ユキさんは足元の焦げ茶色の畳を見てそう言います。確かに色だけじゃなく、いたるところに物が置いてあった痕が付いていて、擦り切れているところもありました。 「替える?」 「替えましょうよ」 「う~ん、でも、最初はあんまりお金使いたくないなぁ」 「でも、いろいろ物を置いてからだと替えるの大変ですよ」 「う~ん、そうね。でも畳替えるとなったらすぐにやらないといけないし、……分かった、野村さんに相談してみる」 二人が現実的な話をしている時、紘一さんが苦労しながらガタガタと表の窓を開けていました。そしてこう言います。 「これ、開けてなかったみたいですね。多分、戸車回ってないですよ」 「どう言うこと? 壊れてるの?」 「いえ、錆びついてるんじゃないですかね。油さして回るようにしたらいいと思いますけど」 「やってくれるよねぇ」 「ええっ? 分かりました、やりますよ、そのくらい」 「なに、嫌なの?」 「いえいえそんなことないですよ。喜んで」 サユリさんと紘一さんのやり取りをおかしく聞いていたら、 「カーテンも買わないといけないね」 と、ユキさん。するとそれを受けてサユリさんが窓枠を眺め、 「その前にカーテンレールも付けなきゃ」 と言います。まだまだこれから大変そうです。  翌日は雑巾等を持ち込んで、お店の用事があった紘一さんを除いた女四人で朝から掃除。私は二階の板の間から雑巾がけを始めたけど、一度目、二度目は雑巾が真っ黒に。まあ、昨日の靴下の汚れ具合で予想はしていたけど。三度目、四度目でも雑巾が茶色に。五度目くらいでやっと雑巾がほとんど汚れなくなりました。六畳間の押入の中を拭いていたサキちゃんは少しましだったみたい。でも押入の後、階段に手を付けると同じ状態の様でした。  真冬なのに半袖になりたいくらい暑く、汗をかいていました。そして腕もだるくなってきて二人で一休み。そんなところにサユリさん達が帰ってきました。今日は来てすぐに畳を一枚上げました。ひどい状況でした。畳もだけど、下の板の上も埃なのか砂なのか、木目が見えないくらい。さすがのサユリさんもそれを見て、 「はあ、畳はほんとにちょっと考えよう」 と、げんなりしてました。そして、買い物ついでに野村さんに電話してくる、と、ユキさんと出掛けていたのでした。 「ごめんね、遅くなって」 と、サユリさんが入って来ました。そして驚いたことに、続いて高松組の野村所長が入って来ました。 「おかえりなさい。えっ、野村さん? こんにちは」 「おお、サキちゃん、こんにちは。マリちゃんも」 そう返してくれる野村さんに私も挨拶を返すと、 「現場に電話したら今から来てくれるって言うから来てもらっちゃった」 と、サユリさんが私達に説明してくれます。 「昼から本社で会議やで、元から現場離れる予定やったんや」 野村さんはそう言いながら畳を剥がした辺りを覗きます。 「うわ、ひどいわ、ここで寝るんやろ? 全部替えて掃除した方がええな」 「そんなにですか?」 と、サユリさんが近付きます。並んでユキさんも。 「この畳のヘリのとこ見てみい、黒い粒粒があるやろ。ネズミの糞や」 「ネズミ?」 野村さんの言葉にユキさんが反応、身を竦めます。ユキさんはネズミが大の苦手。私もダメだけどユキさんは私の何倍もダメです。 「ネズミの糞が潰れて粉になったやつや」 「そうなんですか」 そう答えるサユリさんも少し引き気味。 「まあ、畳は一旦引き上げて掃除させるわ。で、おんなじサイズで新しいの持って来させたらええやろ」 「ありがとうございます。でも、新しい畳っていくらくらいします?」 「はっ? ああ、金はええよ」 「そんな、ダメですよ」 「ええって、今の現場、余裕あるで、このくらいなんでもない」 「そんな」 「ええって、施主の縁者の家の修繕、サービスでやったってことにするから」 「そんな、大丈夫なんですか?」 「ええ、ええ。下の店の方も心配せんでええぞ。全部面倒見たる」 「いやいやいや、それはダメですよ」 「大丈夫やって、そんなでかい店やないんやから任せとけ」 「そんな……」 とてもありがたい話なんだけど、さすがにサユリさんは戸惑っています。そんなサユリさんに構わず野村さんがこう続けます。 「あっ、ただ、業務用の冷蔵庫やナンヤはあかんぞ。普通の家にないようなもんはさすがにまずいからな」 「ああ、はい、それは」 「よし、じゃあどうしよ、ここは急ぐんやろ? いつ引っ越してくるんや」 「えっ、ああ、二十五日からはここに住む予定です」 「分かった、畳屋に話してまた連絡するわ。あっ、こっちからどうやって連絡したらええ? 毎日ここに来てるか?」 「えっ、いえ、えーっと、じゃあ……」 サユリさんは、午前中なら毎日来てもいいですけど、と言いながら、パープルの部屋の電話番号を教えていました。  それからサユリさん達の住む場所の方は順調に準備が進んでいきました。お店の方はまだまだ。何か問題があるとかではなくて、資格を取ったり、許可を取ったり、お店を辞めてから始めることが沢山あるからだそうです。  二人が辞めることは正式にマネージャー、ママも了承済みでした。でも、お店で公表するまで口外するな、とのことで、私たち以外は知りませんでした。まあ、私はマサさんに話しちゃったけど。  そんな風に日が過ぎていった二月十七日の月曜日、朝礼の最後にママがみんなにこう言いました。 「サユリとユキが来週二十五日でお店を辞めます」 急な発表の様でした。サユリさん、ユキさんの二人も驚いていたから。でもそれはお店の都合だと分かりました。なぜなら、更衣室に貼り出される出勤表や当番表は二十六日から翌月二十五日までのもの。そしていつも十六日に翌月分の新しいものが貼り出されます。つまり今月は今日貼り出されるということ。貼り出すと当然二人の名前はないはずだから、おかしいって騒ぎになる。なのでもう公表するしかなかったのでしょう。  ええーっ! と、みんなざわつき二人を見ます。でも、ママは構わず続けます。 「今のところ新しい子が入る予定はないけど、忙しい時は愛から応援に来てもらえるように頼んである。みんなそのつもりでよろしくね」  朝礼が終わると、なんで? とかってみんなに囲まれる二人。私はカウンターの中に入って準備をしながらそれを見ていました。やがてその中からカオリさんが抜けてカウンターの中に入って来ました。 「知ってたの?」 カオリさんが私の横に並んでそう聞いてきます。 「はい」 「言うなって言われてたんだ?」 「はい」 「そっか」 機嫌が悪そうには思えなかったけれど笑顔でもない。 「……すみませんでした」 なんでか謝ってました。 「ううん、いいよ別に」 カオリさんはそう言いながら、ペールを流し寄りの作業台の上に並べていきます。私はそのペールにトングとマドラーをさしていく。 「ああ、なんか先越されちゃったって感じでちょっと悔しいけど」 カオリさんが独り言のようにそう言います。 「えっ?」 カオリさんの顔を見上げると、カオリさんは周りを見てから小声でこう言います。 「私達も夏くらいで辞める予定なのよ」 私達って、カオリさんとチエさん? ってことよりも、やっぱり辞めるってセリフの方に驚き、そんな顔を返しました、声は出さずに。 「内緒よ」 カオリさんはそう返してきます。私は頷きました。  しばらくするとカオリさんがまた聞いてきます。 「あの二人、どこでお店やるか知ってる?」 「ああ、はい、尾頭橋です」 「おとおばし?」 「あっ、えっと、なんてったっけ、ドラゴンズの球場の近くです」 「ああ。えっ? そこって繁華街なの?」 「繁華街って言うか、商店街?」 「スナックやるのよね」 「はい」 「お客さん来そうなところなの?」 「え~っと、それは私には……。でも、お料理も出すスナックにするみたいですよ」 「へえ~、そうなんだ」 カオリさんも辞めてお店やるつもりなのかな? と思って聞いちゃいました。 「カオリさんもお店やるんですか?」 「うん、私達は白川公園の方だけどね」 「えっ、……もう決まってるんですか?」 声が大きくなりそうで慌てて押さえました。 「ううん、まだ。新しく出来るビルのテナントに応募するつもりなの」 「そうなんですか」 「そ、だからこの前の二十五万は痛いのよね、チエに怒られちゃった」 やっぱりチエさんとやるんだ。そんな話をしているうちに最初のお客さんが入って来て、話はそこで終わりました。  変な話ですが、その月曜日の夜からサユリさん達は大忙し。でもそれはかわいそうな忙しさ。だって、お店ではなく、部屋に帰ってからの忙しさだったから。後藤さんや酒井さんだけでなく、愛のボーイさん達まで日替わりで押しかけて来て、サユリさん達の部屋に泊っていきます。年の近い愛のボーイさんにサキちゃんが、 「いい加減にしなよ」 と言うと、 「なんで? 別れを惜しんでるんだろ」 と返って来ました。惜しみ方が違うでしょ。ほんとにもう、男の人ってこれしかないの?  その一週間ほどの間、あぶれた男の人はサキちゃんへ。紘一さんが可哀そう。だからと言って紘一さんは私の所へ来ません。と言うか、なぜか私の所へは誰も来ませんでした。来るのはマサさんだけ。他の人が来なくて寂しかったとか、不満があったとかではないですよ。ただ、不思議に思っただけ。そう、不思議です。マサさんが私の所に来るようになってから、他の人は私の所に来ない。なんでだろ、って、だからそれが不満って言ってるわけじゃないですよ。不思議に思うだけです。  サユリさん達の最後の日、紘一さん以外の男の人の入室を断りました。部屋の住人だけで送別会をするからと。そして本当に送別会をしました、ささやかなものだったけど。  サユリさん達がいなくなっても私とサキちゃんは同じ部屋にいました。まあ、私の所へマサさんが来たり、サキちゃん目当ての人が来た時はサユリさん達のいた部屋を使ったけれど。  三月になり十日ほど過ぎた月曜日の夜、後藤さんが部屋に来ました。その日マサさんは一緒に帰ってきませんでした。後藤さんはサキちゃんと隣の部屋。なので私は一人で寝ていました。でも、パジャマを脱がされているところで目が覚めました。脱がしていたのは後藤さん。 「いいだろ」 私が目覚めたのに気付いてそう言います。私はしょうがないのでされるがまま。  翌朝、後藤さんが服を着ながらこう言います。 「マサには言うなよ」 小さい声でした。 「えっ?」 「だから、俺としたってのはあいつに言うなよ。知れたらお前もどうなるか知らんぞ」 「どういうことですか?」 尋ねましたが後藤さんはそれ以上何も言わずに帰っていきました。  その日の夜、マサさんが来ました。ことが終わった後、その日お店に来た桜井さんの話をしていました。これはいつものこと。そして今日は高速道路の話をしていたので、その話をするとマサさんは機嫌が良かったです。なのでいろいろ聞いてきますが私は眠気が。なのでこう言ってました。 「ごめんなさい、昨日遅くに後藤さんが来たから眠たいの。また話すから寝かせてください」 すると、 「なに?」 と言って、マサさんは体を起こすと布団の上に座って私を見降ろします。掛け布団が剥がされて、寒い、と感じている余裕はありませんでした、マサさんの顔が本当に怖かったから。 「後藤とやったのか」 怖い顔のままマサさんがそう聞いてきます。私の眠気は吹っ飛んでいました。私も体を起こして、 「ご、ごめんなさい。でも、い、嫌って言えないから……」 咄嗟に謝ってました。途端にマサさんが右手を振り上げます、握りこぶしで。なんで殴られるのか全く分からないけれど、私は身を竦めて両腕を顔の前に。でもマサさんの腕はゆっくり降りました。 「分かった。でも、これからは断れ」 「えっ?」 「俺にそう言われたって言え、いいな」 「分かりました」 「後藤だけじゃねえぞ、誰が来てもだぞ」 「は、はい」 マサさんが勢いよく立ち上がります。 「ご、ごめんなさい」 また謝ってました。マサさんは何も言わず服を着ていきます。そして何も言わず部屋を出て行きました。  部屋の襖が閉まると声が聞こえました。 「紘一、俺帰るから、あと鍵閉めとけ」 「りょ、了解っす」 そして帰って行ったようでした。私はそのあと布団を被って震えていました、本当に怖かったから。  翌朝、朝食の用意をしていたら紘一さんが起きてきました。そして遠慮がちに話し掛けてきます。 「後藤さんと寝たことバレた?」 「えっ、うん」 なんで、バレた、なのか分からなかったけど。 「そっか。どっか殴られた?」 「ううん、殴られそうになったけど」 「そっか。まあ、後藤さんは殴られるだろうけどな」 意味が分かんない。 「どういうこと?」 「えっ? マリちゃんは他の奴と寝るなとかって言われてない?」 紘一さんが怪訝な顔をしてそう聞いてきます。 「うん」 「そっか。俺たちはマリちゃんに手を出すなって言われてたんだ」 私は何も返せませんでした。マサさんがそんなことを言っていたなんて。だから私の所には誰も来なくなったんだ。  その日、後藤さんは休みでした。そして、マサさんの右手には包帯が。私には包帯の意味が分かりませんでしたが、部屋に帰ってから紘一さんに教えられて、怖くなりました。  それから数日後、後藤さんはお店に顔を出さないまま辞めたと聞かされました。
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