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01 出会い
車窓から吹き込んだ風がふわりとうなじの毛を持ち上げて、靖羽はふと顔を上げた。
窓の外には敷き詰めたような青田が広がっている。
初夏の色だ、と思った。
すん、と鼻を鳴らして空気を小さく肺に取り込めば、青臭くからりと乾いた初夏の気配が全身に染み渡っていく。
早朝に都内を出て新幹線に乗り、長野駅で地元路線に乗り換えた。三両編成の古い電車は、がたがたと大きく揺れながらゆっくり走る。小ぢんまりとした車内には、靖羽の他には地元民らしき中高年の人々や観光客らしき若者が数名。古びた臙脂色の座席は、空席が目立っていた。
改めて窓の外に目を向ける。先程まで青田ばかりだった窓の外は、今は葡萄畑に変わっていた。それでもひたすらに一面の緑であることには変わらない。光をきらきらと照り返す緑の絨毯が眩しくて、靖羽は直視できずについと視線を窓から逸らした。
今まで自分の日常にはなかったものだ。
この眩しさも、自然に満ちた空気の匂いも。
終着駅への到着を告げるアナウンスが響いて、靖羽はふと思い出したように傍らのリュックを探り、一通の封筒を取り出した。ゆっくり開くと、中には絵葉書が一枚封入されている。
絵葉書の表面には、大きな古めかしい屋敷を背に温泉街の写真がプリントされている。その右下に大ぶりな毛筆で大きく書かれた「桜佳苑」という文字。靖羽は、その厳かに書かれた文字を人差し指でそっとなぞった。
ざわざわと、心が落ち着かない感じがする。
朝日を浴びて淑やかに美しく佇む「桜佳苑」。素朴な温泉街の小径の風景も相まって、それは確かに美しかった。しかし、靖羽は言いようのない不安に駆られる。
ここに、自分の居場所などあるのだろうか。
ざわざわと胸の奥に寄せてくる黒い波のような不安は、そう簡単には消えてくれない。
ふっと息をついて、靖羽はゆっくりと絵葉書を裏返す。そこには、細く流麗な筆致で都内から旅館までの交通案内が書かれていた。余白が多く淡々としたそれはどことなく素っ気ない印象を与える。案内によれば、今乗っている電車を終点で降り、そこからしばらく歩くようだ。
電車が減速して、やがて揺れながら止まる。開いたドアから見えた駅は駅ともいえないような簡素なもので、小さな木造の屋根のついたベンチと古びた駅名標があることでかろうじてそれが駅だとわかる。ぱらぱらと、地元民らしき人々がまばらに電車を降りていく。乗る人は一人もいなかった。やがて再び発車した車内には、観光客と見られる人々ばかりが残っている。
言いようのない漠然とした不安を再び感じて、靖羽は再びぼんやりと窓の外へ視線を戻した。
終着駅で電車を降り、木造の年季の入った駅を出るとすぐに居並ぶ旅館や宿屋が視界に入った。遠くに連なった山々が霞んで見える。緑ばかりだった道中とは違い、ここは比較的整備されているようだった。からりとした風がアスファルトを吹き抜けていく。
思いのほか活気があり、荷物を持った人々が行き来している。年配のグループやカップルがほとんどで、靖羽のように一人でいる人は見渡す限りでは見当たらなかった。路傍には名前の書かれたプレートを手に立っている着物の人々がちらほらといる。宿泊客を迎えに来ているのだろう。一組また一組と、プレートに引き寄せられていく。
靖羽はリュックのポケットからくだんの絵葉書を取り出す。目的地はメインの大きな温泉街からは少し外れたところにあるようだが、距離からすればここからさして遠いわけではない。数十分も歩けば着くだろう。リュックを背負いなおし、靖羽は歩き出した。
一ヶ月前、母親の美穂子が亡くなった。十七年間、シングルマザーとして靖羽を育てた母だった。
明け方、勤務先のナイトクラブで倒れたとの連絡を受けた靖羽が搬送先に向かったときはすでに遅かった。過労による心不全だったという。
あまりにも突然に、靖羽は一人残された。現実をまだ受け止めきれないまま、それでも動くしかなかった。これからのことを考えるために靖羽がまず足を運んだのは、母が働いていたクラブだった。母には兄弟はおらず、靖羽には親戚と呼べるようなものに会ったことがなかったからだ。大通りに面してきらきらと輝くビルは靖羽を一瞬躊躇わせたが、美穂子の同僚だったホステスたちは皆親身になって世話を焼いてくれた。言われたとおりに役所に行って、いろいろな手続きをした。美穂子が残した財産は靖羽が思っているよりもずっと多かった。美穂子名義で借りていたアパートにそのまま住み続けることも考えたが、未成年との契約ができないことを理由に大家がいい顔をしなかった。施設の類に行くことも頭をよぎり始めた頃、実の父親が生きていることが判明した。
母は決して父の話をしなかった。聞いてもすぐにはぐらかされるか嫌な顔をされるから、触れてはいけないこととして靖羽は認識していたし、きっとどうしようもないろくでなしで今頃はどこかで野垂れ死んでいるだろうと思っていた。けれど、父は生きていた。生きていたどころか、温泉街で高級旅館を経営している資産家であるということがわかったとき、靖羽はどこか憎悪にも似た、激しい戸惑いの感情を抱いた。
母のこれまでの苦労は、自分たちの困窮した暮らしは何だったのだろう。
父と母の間に何があったのかはわからない。けれど、かつて子を成すほどの仲であった美穂子を、そして血を分けた子である靖羽を、父は助けようと思ったことは一度もなかったのだろうか。
靖羽が旅館の電話番号に連絡をしても、父が直接電話に出ることはなかった。折り返してきた従業員と思しき声が「お部屋をご用意するので、こちらに越してきていただいて構わないとのことです」と告げ、住所と交通手段の書かれた絵葉書が素っ気なく送られてきたばかりだった。
その絵葉書一枚を頼りに、靖羽はここまでやってきた。
「……ここか」
靖羽は息をついて視線をあげた。そこそこの距離を荷物を背負って歩いてきて、全身じっとりと汗をかいていた。
林の中の未舗装の道の先、ぽっかりと木々が開けた先に姿を現した重厚な日本家屋。手前の門柱には赤い提灯が掲げられている。まだ明るい時間なのに林に囲まれたそこは鬱蒼としており、ひんやりと湿気を含んだ風が足元を抜けていった。正面からは母屋と思しきその建物が見えるばかりだったが、背後に大きく開けた林からはその屋敷の奥行きの深さが感じ取れる。
門柱前の木製の看板には、豪勢な毛筆でしたためられた「桜佳苑」の三文字と立派な桜の紋章。
靖羽は門柱を通り過ぎ、舗装されたアプローチをゆっくりと進んだ。あたりはかすかな硫黄の匂いに満ちていて、そういえばここは温泉街だったなと靖羽はぼんやり考える。
旅館の前には紺色に白で旅館名が染め抜かれた暖簾がかかっていた。一瞬ためらってから、靖羽は暖簾を押して中に入った。
広々とした玄関ホールだった。土間を上がった廊下は板張りで、年季は入っているもののちり一つ落ちておらず手入れがよく行き届いている。左手に受付、右手には応接スペースだろうか、丸い絨毯が敷かれ赤い布張りのソファや木製のテーブルがいくつか置かれた空間がある。いずれもきれいに整えられていたものの、人影は見当たらなかった。
「すいませーん」
奥の方に向かって呼びかけてみるが返事はない。靖羽はスニーカーを脱ぎ、そろそろと廊下に足を踏み入れた。歩くたびに床材の板がきしきしと音を立てる。
フロントを通り過ぎると、右手一面に張られた大きな窓から中庭が見えてきた。小綺麗に手入れされた、趣のある日本庭園だ。青々とした木々に囲まれた池に、赤や白が鮮やかな鯉が泳いでいる。奥の方には朱色に塗られた小さな橋が架かっているのがうっすらと見えた。どこまで広いのだろう、と靖羽は軽く目を細めた。
水面に口をぱくぱくさせる鯉をぼんやり眺めていると、「お客様」と後ろから声をかけられた。振り返ると、紺の和服を着た中年男性が驚いた顔で立っていた。
「これはこれは大変失礼しました、すっかり留守にしておりまして! ずいぶんとお早いお着きで、お客様」
「いや……あの、俺は」
「すぐにお部屋を用意させますからね。お名前を頂戴しても?」
「俺は客じゃなくて、桜井利道という人にここに来るように言われて来たんだけど」
「大旦那様に……?」
靖羽の言葉に男は困ったように首をかしげた。利道は今留守にしていてしばらく戻らないのだという。
今日からここに住むことになっていると話すと、男は心底驚いた様子だった。来る旅館を間違えたかと思い慌てて絵葉書を取り出す。男はそれを覗き込んで「うちのですね」と不思議そうに首をかしげた。
靖羽としても当然他に知った顔はない。途方に暮れていたそのときだった。
「ただいま戻りましたー」
玄関の方から声がして、靖羽は振り返る。和服の若い男が、大きな黒いケースに入った何かを抱えて入ってくるところだった。
紺色の和服に生成り色の帯。従業員だろうか。それにしては少し若すぎるようにも感じる。20代前半といったところだろう。
「おお、暖くんおかえり。ずいぶん遅かったね」
「すみません、松本を出てからずっと道が混んでいて……あと少し、買い出しに行ったりしてました」
暖と呼ばれた若い男は、手に提げていた買い物袋を掲げて見せる。蚊取り線香の箱が透けて見えていた。
靴を脱いで土間から上がってきた男は、靖羽のところまで来るとにこっと愛想よく微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
「その、俺は客じゃなくて」
「靖羽さんですよね」
突然名前を呼ばれて拍子抜けしつつも、靖羽はこくりとうなずいた。若い男は人懐っこく笑みを深めた。白くぽってりした一重まぶた。眠たそうな印象の目だ、と靖羽は思った。
「そろそろ到着される頃じゃないかと伺ってました。無事到着されてよかったです。長旅、お疲れさまでした」
目の前の男はすっと軽く頭を下げる。それだけの動作なのに、なぜか流れるようになめらかで美しいと靖羽は思った。
「後藤さん、靖羽さんですよ。大旦那さまのご子息の」
「えっ」
後藤と呼ばれた中年の男が心底驚いたように声をあげる。
「今日から離れにお住まいになられます」
「そ、そうだったのか……大旦那様から何も聞いていなくて。大変失礼しました」
後藤が深々と頭を下げる。靖羽は「いえ、別に」とゆるゆる首を振った。
「番頭に伝え忘れるなんて、大旦那様もわりあいうっかりさんですね」
若い男はおっとりとした様子で笑いながら、持っていた買い物袋と大きな黒いケースを応接スペースの赤絨毯の上に置いた。
「靖羽さん、桜佳苑にようこそいらっしゃいました。お部屋までご案内させていただきますね」
和服の若い男に先導されて、靖羽は玄関ホールから中庭に出た。年季が入っているが小綺麗に整えられた屋根付きの外廊下が細く続く。この先に離れがあるのだろう。
外廊下の両脇に広がる日本庭園は、玄関ホールからガラス窓越しに見たときよりもずっと広く感じた。綺麗に刈り込まれた植栽が庭全体を入り組んで見せている。
「迷路みたいだ」
「外観のわりに庭園が広くて、みなさん驚かれるんですよ」
靖羽のつぶやきに、目の前を歩く男が靖羽のほうを振り返る。
「さっきの建物が母屋で、宿泊のお客様の客室や外風呂、厨房があちらにあります。靖羽さんのお部屋はこれから向かう離れの1階にあるんですが、この外廊下をずっと進んでいけば着くので、迷うことはないと思います」
男の言う通り、外廊下をしばらく進んでいくと二階建ての建物が見えてきた。土塀で囲まれた瓦葺きのその建物は母屋の建物よりも年季が入っているように見えるが、建物のまわりに生い茂る植栽も含めて綺麗に手入れされており、みすぼらしい印象は感じられなかった。
男に続いて、外廊下につながる横開きの扉から中に入る。床は板張りになっていて、歩くたびにぎしぎしと軋んだ音を立てた。
「右奥を進んだ先に内風呂と、洗面とトイレがあります。靖羽さんの部屋はまっすぐ行った先、つきあたりのお部屋です」
ひとつひとつの箇所を指し示しながら、男は丁寧に説明してくれる。
前を行くその紺色の着流しの背中に、靖羽はふと視線を留めた。男性にしては肩幅が華奢で線が細いが、すっと背筋が伸びていて美しい。
「こちらの階段をあがった二階の手前には、大旦那の利道様の書斎があります。お茶の間も兼ねているので、みなさんで集まることもたまにあります。あとは……」
「ハーフかなんかなんですか」
「は?」
唐突な靖羽の問いかけに、男は驚いた様子で靖羽の方を振り返った。
「ダンさんっていうんでしょ、名前。ハーフなのかなって」
ああ、と男は合点がいったように声をあげて、そして笑った。
「あはは、よく言われます。ちょっと珍しい音だけど、純日本人です。ーーすみません、すっかり申し遅れてしまいました。森島です。森島暖と申します」
「だん、ってどんな字書くの」
「暖かい、と書いて暖」
森島暖。靖羽は脳裏で素早く漢字を組み立てた。不思議な響きの音は、漢字に変換してやっと名前らしい感じがしてくる。
「いい名前ですね」
思ったままを言葉にした靖羽に、暖は素直に「うれしい。ありがとうございます」と笑顔を見せた。笑うと、切れ長で重たい一重まぶたがさらに降りてきてほとんど目がなくなる。一気に幼い印象になるな、一体いくつなのだろう、と靖羽は妙に冷静に目の前の男を観察していた。
暖に続いて廊下の中ほどまで進むと右手に縁側が現れた。強い日差しが硝子越しに廊下に照り入っている。縁側から続く庭は緑に満ちており、家庭菜園らしき人為的に整えられた区画がいくつもあった。母屋との間にある中庭よりも、人が暮らしている気配が感じられる。
「ここで野菜を育てているんですよ」
靖羽の視線に気づいた暖が言った。
「食べられるの」
「もちろん。お客様にもお出ししていて、天ぷらが特に好評なんですよ」
日当たりのいいその庭には、多くの葉物が競うように緑の葉を広げていた。植物に疎い靖羽の目には雑草と大差ないように見える区画もあったが、きっとそういう種類の山菜なのだろう。
縁側に面して並んだ部屋のうちの一つの前で暖が立ち止まった。深い臙脂色をした扉をゆっくりと開ける。靖羽を中へと促して、男は言った。
「こちらが靖羽さんのお部屋です」
促されるままに靖羽は中へと足を踏み入れる。途端、ふわりと鼻腔をくすぐる藺草の香り。入ってすぐ、狭いながらも踏込と前室が広がる。障子を開けると、そこは開放感のある畳張りの和室だった。面積でいえば八畳もなさそうだが、それでもそれほど手狭に見えないのはひとえに物の少なさと、広縁の先の大きな窓のためだろう。靖羽はぐるりと室内を見回す。部屋の隅に靖羽が事前に発送した段ボール箱が三つ置いてあった。家具らしい家具は小さな座卓、二組の座布団、ポットといくつかの茶器、小さなテレビの他には何もない。質素を体現したような部屋だった。
「相部屋かなんかですか」
「いえ、靖羽さんお一人で使っていただくお部屋ですよ」
「もっと狭い部屋でよかったのに。こんな広い部屋に住んだことがないから、持て余しそう」
つい本心が出た。東京のアパートでは畳の小さな部屋を自室として使っていた。ベッドを置いたらいっぱいになってしまって机など置くスペースがないので、いつも居間で勉強していた。それでも、物に執着がなく持ち物が少ない靖羽にとって、必要なものにすぐ手が届く小さな部屋での生活は性に合っていた。
「お床を延べるとちょうどよくなりますよ。お布団は一式、こちらの押し入れに入ってます」
暖は内履きを脱いで上がってきて、押し入れを開けた。下段の収納スペースに布団が二組、行儀よく畳まれて中に入っている。上段のスペースにはハンガーレールが取り付けられていて、ハンガーがまばらにかかっていた。
「それとも、僕の部屋と交換しますか?」
「は?」
「この隣、僕の部屋なんですけど。ここよりちょっとコンパクトなんです。靖羽さんが望むなら、交換してもいいですよ」
「いや……それはさすがに悪いんで。というか、ここに住んでるの」
「はい。住み込みで、旅館のもろもろの業務をお手伝いしています。ーーあっ、でも、僕は生まれたときからこの屋敷なので、実家というか職場というか……って感じです。代々ここに住んでいるので、その名残で」
「いいとこのお坊っちゃま的なあれ?」
暖はくすっと笑ってふるふると首を横に振った。
「いえ、全然普通の家だけど、楽器をやっていて。昔から、この屋敷の当主の方に代々お抱えでひいきにしていただいていて、親もここの生まれで。だから、僕もなんとなくここに住んでいるってだけです」
さきほど玄関ホールで暖が黒い大きなケースを抱えていたのを思い出す。おそらくあの中に楽器が入っていたのだろう。
「当主とかお抱え音楽家とか、俺からしたらすでに異次元だけど。というか、俺もこれからここに住むんですか。こんな広い、迷路みたいなところに」
つい、ぽろりと本音がこぼれた。こちらを見つめる暖の視線から逃れるように、目線を逸らす。
母が亡くなってからこの一ヶ月間、いろいろなことが目まぐるしいスピードで変わっていて、そのスピードに靖羽は目が回るような気持ちだった。狭い木造アパートからいきなりこんな豪奢な屋敷に自分が移り住むなんて、正直まだ状況をうまく飲み込めていなかった。
ついさっき会ったばかりの男に、自分の本心をこんな無防備に吐露してしまうなんて。普段の自分らしくないと思いつつ、きっと目の前の男の纏う穏やかな雰囲気のせいだ、と靖羽は内心勝手に考えた。
「……不安ですよね」
少しの間をおいて、暖がゆっくりと言った。切れ長のぽってりした目がこちらをまっすぐに見つめていた。下駄を脱ぐと、彼の目線は靖羽よりわずかに低かった。
「お母さまが亡くなったばかりで、知らない土地に引っ越すことになって。僕が靖羽さんの立場だったら、きっと不安で仕方ないと思う」
「不安というか、正直あんまり状況についていけてない」
「うん。そうですよね」
暖はまっすぐ靖羽のほうを見つめたまま、ゆっくりとうなずいて、「でも」と言った。
「でも、靖羽さんが早く落ち着いて生活できるようになるよう、僕もがんばります。だから、なんでも頼ってください」
「なんであなたが頑張るんですか」
思ったままを口にしたあとで、もしかしたら冷たく響いたかもしれない、と靖羽は少し心配になった。が、暖は気にする風でもなく答えた。
「僕は屋敷の中では一番靖羽さんと年が近いし、部屋も隣だし、きっと一番話しやすいかなって。すぐには無理かもしれないけど、そのうち、その……家族のように思って気軽に頼ってもらえたら、って。そう思ってます」
暖は少し照れくさそうに微笑んだ。視線がついと逸らされる。伏せられた暖のまつげが頬に縦に長く影をつくっていて、男でもまつげで影ができるのか、と靖羽はやけに冷静にそれを観察していた。
「いい人なんですね」
「え?」
「森島さん、いい人なんですね。そんなにいい人で、大丈夫なの」
「大丈夫とは……?」
「なんか、騙されたりとか。簡単に騙されそう」
靖羽の言葉に、暖は目をぱちくりさせた。
「……それ、妹にもたまに言われます。僕、そんなにちょろそうかな」
「妹がいるんだ」
「はい。いま高三で、靖羽さんの一個上かな。寮に入ってるからこっちには基本いないんですが、週末にたまに帰ってくるのでそのうち会えると思います」
暖は押し入れを元通りに閉めながら言った。
靖羽は窓の外をぼんやり眺めながらふうん、と相槌を打った。庭に面した広縁の先の窓からは、青々とした葉を茂らせた庭の木々が見える。靖羽には植物の名前まではさっぱりわからないが、どれも几帳面なまでに綺麗に刈り込まれて手入れされていることが遠目でもわかった。
「というか、なんで妹より若い子にそんなガチガチに敬語なの。俺、客でもなんでもないし、普通に年下に接するようにしてくれていいのに」
振り返った暖は、どこか不思議そうな、困ったような表情をしていた。
「靖羽さんは、大旦那さまである利道様のご子息ですから。そういうわけにもいかないですよ」
暖のその言葉に、靖羽はどこか怒りにも似た、強烈な違和感が腹の底から湧いてくるのを感じた。
「その『大旦那さま』の子どもだっていう自覚は、今のところ俺にはないけどね。『大旦那さま』のことを俺は何も知らないし、つい先週まで名前も普通に生きていたことも知らなかった」
「あ……」
「普通にしてもらえますか。俺、偉くもなんともないんで」
この屋敷に来たのも他に頼れる肉親がいなかったからで、成人して高校を卒業したらすぐ出ていくつもりでいる。この屋敷の当主一家の一員としてどうこうするつもりは一切ない。
自分の人生に急に出てきた「父親」の息子であるというだけで、目の前のこの人のよさそうな男に必要以上にうやうやしく扱われるのは、なんだかとても嫌だった。
靖羽のはっきりとした物言いに暖はしばらくあっけにとられている様子だったが、ややあって「ごめんなさい」と視線を落とした。
「そうですよね。これから初めてお父様に会われるというのに、いきなりこんなことを言われても、その、戸惑ってしまうよね」
「……まあ」
「靖羽くんでいい?」
「え?」
「呼び方。周りからなんて呼ばれてる?」
東京にいたときの数少ない、友人とも言えないような同級生数人のことを靖羽は思い出す。
「特に。そのまま、靖羽とか、普通に名字とか」
「じゃあ靖羽」
暖は切れ長のぽってりした目を細めて微笑んだ。控えめに、ややはにかんだ声で名前を呼ばれた瞬間に、靖羽は胸と喉の間のあたりがきゅっ、と狭くなるような、熱くなるような感覚が走ったような気がした。
うす、とよくわからない返答をして軽くうなずいた靖羽に、暖は「あと」と続けた。
「僕のことも、よかったら名前で呼んで。森島さんって呼ばれたことなくて」
「自分の名字なのに?」
「あはは、本当にね。でもみんな名前で呼ぶんだ、そのほうがかぶらないからかな」
からっと笑った暖は、「そうだ。お茶をいれてくるね。暑い中歩いてきて疲れたでしょう」とぱたぱたと部屋を出ていった。靖羽が慌てて「別にいい、自分でやる」と返したときにはすでにぱたんと扉が閉まったあとだった。
広い空間に急に一人になって、体の力が一気に抜ける。靖羽はふうっと長い息をついた。背負っていたリュックを無造作に床に放り投げて、まっさらな畳の上に仰向けに転がる。
この短い期間にいろいろなことがありすぎて、少し疲れていた。
一ヶ月前の自分に伝えても、きっと信じないだろう。こんなあっけなく母が亡くなり、死んだと思っていた父の豪奢な屋敷に移り住むことになるなんて。
父は、どんな人なのだろうか。
今はまだ、桜井利道という名前と、この大きな旅館を経営しているということしか知らない。顔も性格も人となりも知らないし、母との間に何があったのかも靖羽には知るすべがないけれど。
それでも、過労で倒れるまで働き詰めていた母に、手を差し伸べようと思ったことはないのだろうか。自分の血を引いた実の息子に会いたいと思ったことは一度たりともないのだろうか。
母の葬式にすら来なかったのに、今さら自分を受け入れようと思ったのはなぜなのだろうか。
父に期待しているわけではないけれど。でも今はただ、父がどんな顔をして、どんな言葉を投げかけてくるのか。靖羽はそのことが気になって仕方がなかった。
靖羽は乾いた畳に手をつきゆっくりと立ち上がり、部屋を出た。先程暖が、この離れの二階に利道の書斎があると言っていたような気がする。
縁側に面した明るい廊下を抜けて、玄関まで戻る。二階へ続く階段を上がっていくと、二階の廊下の様子が見えてくる。
質素な板張りの一階の様子とはまた雰囲気が異なり、二階の廊下には赤い絨毯が敷き込まれ、あちこちに高級そうな置物や調度品のようなものが飾られていた。ぐるりとあたりを見回す。暖は確か、茶の間を兼ねた大旦那の書斎が一番手前にあると言っていた気がする。二手に分かれた廊下のうち、片方の突き当たりに扉が一つあった。が、奥まっているのでこちらではないだろう。引き返して反対側の廊下を進み、一番手前の部屋の前で靖羽は立ち止まった。
扉の横に鈴が備えてあった。手に取って、軽く数回鳴らす。すぐに内側から「はい」と応えがあった。やや嗄れた中年の男の声。初めて聞く父であろう人の声に、靖羽の胸がざわざわと波立つ。
靖羽はゆっくりと扉を開け、中へと足を踏み入れた。
入ってすぐに、踏込と板張りの前室があった。いずれも階下の靖羽の部屋よりゆったりしており、高級そうな調度品や花器、掛け軸が几帳面に飾られている。靖羽は居心地の悪さを感じながら内履きを脱いだ。
本室に続いているであろう襖は金箔と装飾がふんだんにあしらわれた飾り襖だった。高級そうなそれに靖羽は恐る恐る手をかけ、そしてゆっくりと開けた。
広く、日当たりの良い和室だった。壁沿いに本棚と箪笥がいくつか置かれているが、それ以外に大きな調度品は置かれておらず、すっきりと洗練された印象を受ける。板張りの広縁はゆったりと広く、絨毯が敷かれて椅子やテーブルなどの家具がいくつか置かれている。茶の間も兼ねることがあると暖が言っていたのを靖羽は思い出した。
そして、部屋の主であろう茶色の着流しを着た背中。部屋の中央に置かれた文机に向かっていたそれは、靖羽の気配にゆっくりと振り返った。
「……きみは……」
至って普通の、初老の男だった。丸く細い眼鏡をかけており、短髪の髪は大部分が白髪となっている。驚いたように目を見開いているその顔の造形、そのどこかに自分と通じる部分がないかと靖羽はじっと観察する。
靖羽は、母親の美穂子に容姿がよく似通っていた。しっかりとした骨格に筋肉質の長身、トーンが暗めの肌に真っ黒な髪、立体的な目鼻立ち。片親が外国人である美穂子のエキゾチックな容姿を色濃く受け継いだ靖羽は、一般的な日本人の中では良くも悪くも目立ってしまう。片親であり、そしてその親が水商売をやっているということも少なからず影響していたのだろう、幼いころから好奇心の的になることも多かった。
そして、目の前の男――血を分けた父親には、そんな靖羽の容姿と似通った要素をかけらも見ることができなかった。中肉中背、どちらかといえば小柄な肩に、青白い肌。眼鏡の奥の目は小さく切れ長で、各パーツにあまり強い特徴のない面長の顔。どの部分を見ても似通った要素はなく、むしろ対局にあると感じられるほどだった。
立ったまま見下ろす靖羽の視線に耐えかねるように、男が身じろいで立ち上がる。その目線は、身長の高い靖羽より幾分下にあった。体格まで全く似通った部分がない。――本当に、この男は自分の父親なのだろうか。
「靖羽くん、だったか」
「自分の息子の名前も覚えてないのか」
靖羽が呆れて言うと、男は居心地悪そうに視線をうつむかせた。
「……すまない。君のお母さんとは長い間連絡を取っていなくて。いろいろな事情があったんだ」
事情も何も、面倒ごとに巻き込まれたくなかっただけなのではないか。口に出して反論する気力もなく靖羽はついと視線を逃れさせる。その視線を追うように、目の前の男はためらいがちにこちらに視線をよこす。
「東京からここまで遠かったろう。まだ気持ちが整理できていないだろう中で、こんな山奥まで越してきてもらうことになって悪かったね」
黙ったままの靖羽の様子を伺うように男は続けた。
「改めてにはなってしまうけれど……桜井利道といいます。これまで父親として君のそばにいてあげられなくて、すまなかった。書類上も正式に君の父親になった今、これから私が君の保護者として、家族として、この桜佳苑で君と一緒にいられたらと思う。これからはここが、桜佳苑が君の家だ」
「……そんな、急に言われても」
「そうだね、お母さん――美穂子さんのことは本当に突然で、すぐには新しい環境を受け入れられないかもしれない。でも、みんな君を家族のように扱ってくれるはずだよ」
家族。その言葉の意味するところが、あるべき姿が、正直靖羽にはあまりぴんとこない。
亡くなった母は、確かに靖羽にとって「家族」だった。血が繋がっていて、身を粉にして働いて靖羽を育ててくれた。けれど、母と過ごした時間、交わした会話があまりにも少なくて、母との関係が本当に世間の言うところの「家族」といえるものだったのか、靖羽はわからなかった。
母は、自分を「家族」と思ってくれていたのだろうか。愛情というよりは、義務感や責任感のようなものに駆られて自分を育てることに必死になっていたのではないか。今はもう確かめるすべがないけれど、考えれば考えるほど、「家族」の正しいあり方が靖羽はわからなくなっていた。
「――そうだ、暖にはもう会ったかい? 住み込みの、若い子なんだけどね。よく気がきく子で、屋敷のこともいろいろと任せているんだけど、本職が別にあってね……お箏ができる子なんだ」
靖羽は先ほど会ったばかりの若い男の、人懐っこい笑みを思い出した。楽器をやっていると言っていたのは箏のことだったのか、と合点がいく。
「さっき部屋を案内してもらった。あの紺色の着流しの、一階の手前の部屋に住んでる……」
「そうそう。まだ若いけど、暖の箏の腕は一流だよ、今度聴かせてもらうといい。彼と、彼の妹の春がここでは一番君と年が近いはずだから、きっと仲良くできるはずだよ」
家族のように思って気軽に頼ってもらえたら、という暖の言葉を靖羽は思い出す。家族のように、というのはまだぴんとこないけれど、あの人の良さそうな青年になら頼りやすいかもしれない、と靖羽は思った。
「長旅で疲れているだろう、まずはゆっくり休みなさい。屋敷の人間には少しずつ顔を合わせていけばいい。屋敷こそ大きいけれど、人間の数はそれほど多くないからね」
従業員は、先程会った番頭の後藤の他に板前、仲居、女中がひとりずついるだけで、敷地内に住んでいるのは桜井の一家と暖だけなのだと利道は言った。
「大丈夫なんですか」
「え?」
「あなたの配偶者は、俺みたいなのを引き取って大丈夫なんですか。ここに住んでるんでしょ」
ここに来るにあたって靖羽が気になっていたことだった。普通に考えて、配偶者の婚外子が突然やってきて一緒に暮らすなんて状況が嬉しいわけがない。
「……女房とは離婚しているんだ。だから心配する必要はないよ」
利道の声や表情はどこか淡々としていた。
「それより……利羽が、君をぜひ迎え入れたいと言ったんだ」
「としは?」
「私の息子、つまり君の兄だよ。腹違いではあるけどね。つい昨年、私からこの旅館を引き継いで当主をやっているんだ。母屋で会わなかったかい?」
「いや……」
靖羽の胸が、どくん、と鳴る。
腹違いとはいえ、自分に血の繋がった兄がいたなんて。母からは一言も聞いたことがなかった。父のことも一切話さない母だったから、当然といえば当然ではあるが。
「もしかしたらちょうど外に出てしまっていたかもしれないね。まあ、これから同じ離れに住むことになるんだし、すぐ会えるよ」
「ーーどうして、兄は俺を迎え入れたかったの」
「さあ……利羽も兄弟がいないから、血が繋がった弟と聞いて他人事ではいられなかったんじゃないかな」
利道は「利羽に聞いてみたらいいんじゃないかな」と、相変わらずあまり感情の感じられない声で言った。
「屋敷のことでもなんでも、わからないことがあったら暖あたりに聞きなさい。夏休み明けから通う学校のことなんかは、全部暖に任せているからね」
そう言って利道はゆるゆるとした動きで膝を折り、再び文机の前の座布団に腰を下ろした。
この男は、いつもこんな調子なのだろうか。
なんだか、拍子抜けしてしまうような心地がしていた。
別に熱烈な歓迎を期待していたわけではない。婚外子である自分を受け入れてくれただけでも有難いと思っている。ここ以外に、母を亡くした自分には文字通り行き場がなかった。
けれど、婚外子であったとしても、血を分けた実子に初めて会ってこんなに平然としているものなのだろうか。
それとも金持ちはみんなこうなのだろうか。だとしたら、父とは相容れない部分が多そうだ、と靖羽は思った。彼の思考回路は、質素な暮らしをしてきた自分には理解できないところにある。そう考えると、ここまでのもやもやがすとんと腑に落ちるような心地がした。父と自分は、きっと何かが違うのだ。
それでも、父に会ったら聞きたいことがあった。
「今まで、探そうとはしなかったんですか。俺や母がどこにいて何をしているか、気になったことはないの」
「……すまなかった」
「謝ってほしいわけじゃない。質問に答えてもらえますか」
靖羽が低い声で言うと、利道は小さく息をついた。
「……気にかけてはいたさ、もちろん。でも、美穂子さんの言葉に甘えてしまっていたんだ」
「どういう意味ですか」
「君が生まれたときから、援助は一切しなくていい、必要ないと彼女は頑なに支援を拒んでいて。そこから自然に疎遠になってしまったんだ。これまで彼女の方から連絡してきたこともなかったし、実のところ、上手く幸せにやっていると思っていたんだ」
言いにくそうに、ためらいがちに利道はつぶやいた。
母が、そんなことを言っていたなんて。驚くと同時に、母らしいなとも靖羽は思った。勝ち気で、努力家で、一度決めたことは貫き通す頑固さがあった。昼も夜も問わず、生活のために毎日休まず働きに出ていた母の背中が脳裏に鮮やかに浮かぶ。身よりのないひとり親の身ながら、母は身を粉にして懸命に働いて自分を育ててくれた。無理が祟ってその命の灯が吹き消えてしまうまで。
利道がこれだけの資産家であることが明らかになって、なぜ母が父に援助を求めなかったのかを靖羽はひたすらに考えていた。母が亡き今、その真意はわからないままだ。
けれど、もしかしたらそれは母なりの「意地」だったのかもしれないと思った。
「……靖羽くん。その、すまなかった。お母さんのこと……私がきちんと彼女に連絡して、援助をしていればこんなことにはならなかったかもしれない」
「いや……母が言ったことなので。それに、家族がいる手前あなたもそれができなかったんでしょ。俺は、不倫でうっかりできた子だから。おおかた、頑固な母が産むと言って聞かなかったんですよね、きっと」
靖羽は、言葉を濁さずに疑問を突きつけた。利道は驚いたように目を丸くしたあと、ぐっと黙り込んでしまった。どう答えるのが正解なのかわからないといった様子だった。うなだれた白髪頭を冷たく見下ろして、靖羽は静かに繰り返した。
「ねえ、そうなんでしょ」
「……弁解はしない。でも、美穂子さんのことは、確かに愛していたんだ」
愛していたなんて、白々しい、ありふれた言葉。呆れを通り越して笑いそうになる。
そして、直接母から自分の出自について聞くことはなかったけれど、やはり自分は望まれない形で宿り生まれたのだという事実がはっきりしたことに、思いの外激しく動揺する靖羽自身がいた。
婚外子で、ともすれば利道の家族の関係を壊してしまいかねない命。血のつながった実子であるその命を利道が気にかけていたのならともかく、なかったことのようにしたがっているときたのなら。あの気の強い母のことだ、意地でも自分一人の力で我が子を育てようと考えるのは十分にありえることだと思った。
目の前の男は、父は、そのことをわかっていたのだろうか。
今さら考えても仕方がないことだ、と靖羽は頭を振った。
「ーー本当に、すまなかった。せめて、近いうちに彼女のお墓参りには行こうと思っているよ」
「別に行かなくていいんじゃないですか。母としてはもう縁を切ったつもりでいるんだと思うんで」
冷たく言い放った靖羽に、利道は今度こそ返す言葉がないようだった。
「行き場のない俺を迎え入れてくれて、ありがとうございました。高校を卒業したらすぐ出ていきます。卒業まであと1年半くらい、あなたの「家族」に迷惑にならないようにするので。そのあとは、もう頼らないんで安心してください」
「そんな……君はもう桜佳苑の一員で、家族だよ」
利道の言葉が靖羽にはどうしても白々しく聞こえてしまう。もし目の前の男が血を分けた自分を本当に気にかけていたなら、もっと早く会えていたのではないか、と靖羽は思う。たとえ母の拒否があったとしても。
今さら認知をしてもらって書類上の父親になったとしても、靖羽は目の前の男を父親とは認めたくなかった。
軽く会釈をして背を向ける。利道は何も言わなかった。靖羽は小綺麗な書斎を足早に後にした。
「靖羽!」
名前を呼ばれて、靖羽ははっと我に返った。振り返ると、そこには中庭の植木の間の小道をこちらに向かって歩いてくる暖の姿があった。からんからん、と下駄の音が軽やかに鳴る。
「暖さん、」
「お茶をいれて戻ったらいないんだもの、びっくりしたよ。どこ行ってたの?」
「ごめん」
「別に責めてないよ」
責めていないと言いつつ、暖の表情はどこか不満げだ。
利道の書斎を後にして、なお胸のざわめきが落ち着かなかった靖羽は、自室に戻らずに中庭を彷徨っていた。中庭の中心部にある大きな池のほとりに木のベンチがあるのを見つけて、そこに腰掛けて池を泳ぐ鯉をぼんやりと眺めていた。
「はい、これ」
靖羽の隣にすとんと腰掛けた暖が差し出したのは、ペットボトルの水だった。そういれば屋敷に着いてからずっと水分を口にしていない。急に猛烈な喉の乾きを感じた靖羽は、ペットボトルを受け取ると一気に中身を喉に流し込んだ。半分ほどを一気に飲むと人心地ついて、胸のざわめきが少しましになった気がした。
「……ありがとう」
「どういたしまして。それで?」
「父に会ってきた。思ったより普通っぽい、穏やかそうな人だった。……けど」
「けど?」
「なんというか、無責任な人だと思った」
暖は靖羽の言葉の真意を探るようにしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「利道さんは、いい人だよ。でも何を考えているかよくわからないときもあるから、僕も知らない面のほうが多いのかもしれない」
「他人なんて、何考えてるかわからないことのほうが多いと思うけど」
ぽちゃん、と音がして、池に小さな波紋が広がった。鯉の鮮やかな朱色の尾がひらりと水面で揺れるのが見えた。
「でも、僕は靖羽が少し羨ましいかも」
「羨ましい?」
「ずっと離れ離れだったお父さんに思いがけず会えて、一緒に暮らすことになるなんて。ーーごめんね、無神経なことを言ってるかもしれないけど」
「……無神経もいいところだよ」
靖羽はみぞおちのあたりが急に熱くなるような感覚に襲われた。
父が母を見捨てたこと。自分を探そうとしなかったこと。父から直接話を聞くまで、靖羽はどこかそれらを否定したい気持ちがあった。
今日父に会って話を聞いて、父に会わなければよかったとすら思った。こんなに失望と憤りを感じることになるのなら。
それをいとも簡単に、羨ましいなんて。状況を何も知らないくせに。
暖に罪はないとわかっていても、なぜか無性に腹が立って仕方なかった。
「あんたに、何がわかるっていうんだよ」
「……ごめん。軽率な言い方だったよね。ーーでも、実は僕も親を亡くしていて」
「父親を?」
「両方。ずっと昔のことだけどね。交通事故でふたりとも同時に亡くなってしまって。まだ当時僕も幼かったから、父や母のことをあまり覚えていないというか、思い出らしいものもあまりないし、親はいないものと思って生きてきたけど。でも、もし父と母にもう一度会えるなんてことになったら……話したいことや聞きたいことがたくさんあるな、って。そう思うんだよね」
暖は池の揺れる水面を見つめながら訥々と言った。
「でも、君とは状況がまったく違うし、やっぱり的はずれなことを言ってしまったよね。嫌な気持ちにさせてしまって、ごめんね」
「一人で育ててきたの」
「え?」
「妹。親を亡くしてから、妹の面倒とか一人で大変だったんじゃないの」
「ああ……妹は特に物心つくかつかないかってときだったから、急すぎて大変なこともたくさんあったけど。でも、彼女は昔からいつも素直で本当にいい子だし、何より利道様や屋敷の皆さんがいつも助けてくれたから。本当に頭が上がらないよ」
暖はそう言って笑った。この男が見た目の年齢よりもさらに落ち着いた雰囲気を纏っているのは、これまで大変な思いをしてきたからなのかもしれないな、と靖羽は思った。
「ねえ、靖羽。さっき僕、家族のように思って頼ってほしいって言ったよね」
「うん」
「今日初めて会ったばかりなのに、なんだこいつ藪から棒に、って思った?」
「思った。ちょっと天然なんだろうなって」
「結構はっきり言うんだね」
「あんたが聞いてきたんじゃん」
靖羽が笑いながら言うと、暖はおどけて口を尖らせる。表情が豊かだなと思いつつ、靖羽は「でも、」と付け加えた。
「でも、嫌な気はしなかった」
率直な思いを口にして伝える。元来靖羽にとってあまり得意なことではなかったけれど、このころころと表情を変える純真な青年の前では自然とそれができた。
靖羽のまっすぐな言葉に暖はどこか恥ずかしそうに目元をほころばせて、「……そっか」と小さく言った。
「ーーあのね、念のためだけど、誰にでもこういうこと言うわけじゃないよ」
「どういう意味、それ」
暖の神妙な言い回しがなんとなくおかしくて靖羽は吹き出しながら問い返す。つられたように笑って「ちょっと言い方変だったかも」と言った暖の目元のあたりが少しだけ赤くなっていた。
「……なんというか、君のことは放っておけないというか、他人事には思えないんだ。若いうちに突然親を亡くすことがどんなに大変か、よくわかるし……あとは単純に春と同じくらいの年だから、弟みたいで気になっちゃうというのもあるかも。ーーあ、春っていうのは妹で」
「知ってる。さっき父から聞いた」
「あ……そう。それならいいんだけど。……ちなみに利道様、僕のことなんて言ってた?」
「よく気が利いて、屋敷のこともいろいろ任せられて、若いのに箏が上手いって」
暖は少し恥ずかしそうに「わ、うれしい」と笑った。
「そういえば俺、箏見たことないかも」
「あんまやってる人いないからね」
「頼んだら聴かせてもらえるの」
「もちろん。いくらでも弾いてあげる」
「でも俺あんま金持ってないよ」
「何言ってるの、普通にタダで弾くよ」
暖は弾けるように声をあげて笑った。心底楽しそうに笑う、笑い声が心地いい人だなと思った。つられて靖羽も口元を緩ませたところで、暖と目が合った。眩しいくらいの強い太陽光の下で見て初めて、明るい焦げ茶色の目をしていることに気がついた。
「靖羽。僕のこと、遠慮なく頼ってね。どんな小さいことでも困ったらいつでも声をかけて。屋敷は広いし学校までも少し遠いから、慣れるまで少し大変かもしれないけど、僕でよければいつでも話を聞くから」
眩しいな、と靖羽は思った。
目の前の青年から向けられる、まっすぐな優しさが眩しい。
こんなに混じり気のない、純粋な感情を向けられることなどこれまでなかったような気がする。唯一の家族である母とは会話も少なく彼女の真意があまりよくわからなかったし、学校では友人と呼べるような間柄の者はいたものの、気持ちを言葉にするのがあまり得意でない靖羽には深く心を開いて話せるような友人は一人もいなかった。
異性にはたびたび好かれたり、贈り物をもらうことも多かった。けれどそれは多くの場合、長身で彫りの深い顔立ちをした靖羽の外見が気に入られただけで、靖羽の内面に対する好意ではなかった。事実、彼女らの告白に靖羽が拒絶の言葉を伝えると、彼女らは態度を翻して離れていった。
こんなに純粋な優しさをいきなり目の前に差し出されて、どう受け取ったらいいのかわからない。けれど、目の前の男を疎ましく思う気持ちは靖羽の中にはなかった。代わりに、じわじわと胸のあたりが温まるような優しい感情。それが何なのか靖羽にはわからなかったけれど、これまでにないほどそれは心地よかった。
「……ありがとう、ございます」
本心からの言葉がこぼれた。暖が色素の薄い目を細めてふわりと微笑む。なぜかそれをまっすぐ直視できなくて、靖羽はついと視線を逸らした。
「早速ちょっと聞きたいことがあって」
「なんでもどうぞ」
「高校の編入手続き、あんたがやってくれてるって聞いたんだけど」
「あ、そうそう。会ったら説明しようと思ってたんだ。書類一式僕の部屋にあるから、一緒に来てくれる?」
「わかった」
「今度こそお茶いれてくるから、いなくならないでよ」
笑って立ち上がった暖に続いて、靖羽もゆっくりとベンチから腰を上げる。
からんからん、と下駄の音を響かせる紺色の着流しの背中に続いて、靖羽は中庭の小道を歩き出した。
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