19 陽光

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19 陽光

 深いところからふわりと意識が浮上する。(だん)はゆっくりと目を開けた。  いつもと変わらない、自分の寝室の天井。掃き出し窓についた遮光カーテンの裾からかすかに光が漏れている。枕元の時計を探って時刻を確認する。午前十時半を少し過ぎる頃だった。  ゆっくりと体を起こそうとしたところで、違和感に気がつく。  下半身がずっしりと重たい。痛みというほどではないが、腰のあたりを中心にまるで鉛がついているのではないかというほどに重く、気だるい疲労感が残っている。まるで激しい運動をした翌日かなにかのように。  そこまで考えて、はっと記憶が蘇ってくる。  昨夜、店まで靖羽(やすは)が迎えに来てくれて、一緒に飲みにいったあと、彼をうちに呼んで。  それから。 「……あれ、やすは……?」  寝起きのせいか、それとも昨夜の行為のせいか、普段以上にかさかさにかすれた声でその名前をつぶやいて周囲を見回す。ダブルサイズのベッドのもう半分は、寝具が乱れており靖羽が寝ていた痕跡がある。けれど、本人の姿が見当たらない。  重たい下半身を引きずるようにベッドから降り立つ。立ち上がると腰のだるさがより際立ち、足の間に何かがはさまっているような感覚がして暖はふらりとよろめいた。前回のセックスから二週間ほど間が空いたせいか、それとも靖羽の性器が大きいせいか。念のため、下半身を探って尻たぶを割り、その奥に触れてみる。指先でおそるおそる触れたそこはしっかりと慎ましくすぼまって閉じていたものの、穴の周辺がいつもにも増してぷっくりと柔らかく盛り上がっていた。昨夜の靖羽との濃厚な交わりを思い出して、かっと頬が熱くなる。  ガウンを掴んで羽織り、壁伝いにそろそろと歩く。リビングへ続く扉に手をかけて、ゆっくりと開けた。  途端、ふわりと鼻をくすぐる香り。卵のような、バターのような、焼けたパンのような。 「……いいにおい……」  肺いっぱいに深く息を吸う。あまりにも幸せな朝食の匂いに反応してきゅうう、と胃が収縮する。まともに朝食を取らなくなって久しい身で、起き抜けに空腹を感じるのは珍しいことだった。  キッチンに、背の高い後ろ姿があった。背を向けて手元に集中しているようだったが、暖の気配に気がついてこちらを振り返る。暖の姿を認めるなり、端正な顔がふっと微笑んだ。 「暖さん、おはよ」  近づいてきた靖羽が暖に向かって少し身をかがめ、ちゅ、と唇に触れるだけのキスを落とす。 「よく休めた?」 「なんか……久しぶりに、すごくぐっすり寝た気がする」 「よかった。体しんどくない?」 「うん……大丈夫。ちょっと腰がだるいけど」 「マジか。……ごめんね、無理させちゃったかも。……ん?」  暖の腰にするりと回された靖羽の手がぴたりと止まり、ガウンをまくってその下をごそごそと探る。大きな手が、素肌の尻たぶにぴたりと触れる。 「下着は? というか、なんで下だけ履いてないの?」 「下、裸じゃないと眠れないから……」  昔から夜に下着をつけるとなんだか落ち着かなくて、桜井の屋敷にいた頃は素肌にそのまま浴衣を羽織って眠っていた。和服を着なくなった今もその名残で、暖は下半身に何もつけずに素裸のままで眠ることが習慣になっていた。 「……風邪ひくでしょ。ちゃんと履いてきて」  靖羽はガウンからぱっと手を引っ込めてふいと顔を逸らした。整った横顔の目元から頬にかけてがほんのり赤くなっているような気がした。  キッチンの作業台に向き直った靖羽の手元を覗き込む。卵液らしき鮮やかな黄色の液体がボウルの中で淡く泡立っていた。 「すごい。なんか作ってる」 「ちょっとキッチン借りてました。朝ご飯、もうちょっとでできるからね」 「でも、冷蔵庫空っぽだったはず……」 「さっき買い物行ってきた。……ごめん、適当な服借りたよ」  よく見ると、靖羽は見覚えのある暖の黒いTシャツを着ていた。そういえば昨晩、行為中に暖が放出してしまった潮を靖羽が自身のTシャツで拭っていたなと思い出す。再び昨晩の交わりの記憶が生々しく蘇って、腰のあたりに熱が灯りそうになるのを暖は小さく深呼吸して鎮めた。  暖は半歩引いて、卵液をかき混ぜる靖羽の上半身を上からじっくりと見つめる。暖の体格に合わせて買ったそのTシャツは、上背のある靖羽には明らかにサイズが合っておらず、腕や胸が豊かな筋肉ではち切れそうになっていた。 「ふふ……ぱっつぱつ……」 「し……仕方ないだろ! 裸で外出るわけにはいかないし」 「『彼シャツ』だ」  笑い混じりにつぶやいて、暖はためらいがちに後ろから腕を回して靖羽の体を抱きしめた。サイズの合わないぴったりとしたTシャツは、靖羽の体温や筋肉の感触をダイレクトに伝えてくる。  ボウルをかき混ぜる靖羽の手がぴたりと止まる。触れ合った胸のあたりが大きく上下して、浅く喘ぐような息遣いがじかに伝わってくる。 「……こんなんでも彼シャツっていうの? だぼっとしてるのがかわいいんじゃないの、彼シャツって」 「君はかわいいよ」 「そうじゃなくて。……でも、彼氏のシャツ着てるから彼シャツでいいのかな」 「そうだよ。……乳首浮いてる」  布地のぴったり張り付いた胸にぽちりと浮き上がっている二つの突起を、暖は後ろから指先でくりくりともてあそぶ。腕の中で靖羽がもぞもぞと身じろぎする。 「ちょっと、たっちゃうからいじらないで」 「乳首は感じないんじゃないの?」 「触られたらたつよ。刺激に反応して、普通に生理現象で……」 「ほんとかなあ」 「……っ、いいから顔洗ってパンツ履いてきて!」  身を翻した靖羽が暖の腕からひらりと抜けていき、暖を洗面所のある廊下の方にぐいぐいと押しやる。他愛もないやりとりが楽しくて、そして靖羽の反応がいじらしくて暖は声をあげて笑う。その様子を見ていた靖羽もまた、ふっと表情を緩めて苦笑する。 「暖さん」  靖羽がじっとこちらを見下ろしていた。 「久しぶりに見た」 「え?」 「メイクしてない顔。こっちで再会してからは、初めて」  目を優しく細めて靖羽が見つめてくる。  昨夜シャワーを浴びてそのまますぐ眠ってしまったから、今暖の顔を覆うものは何もなく素の肌のままだ。加齢に伴ってかさついてきた肌を隠すファンデーションも、重たい一重まぶたを彩るアイメイクも何もない。  暖はぴたりと自身の頬に手を遣る。昨夜の酒の名残と寝起きのせいだろうか、水分をふんだんに含んでむくんだ肌の感触が感じられる。鏡を見なくても、今の自分が決して綺麗な状態でないことはわかった。  そう思い至った瞬間、かっと頬が熱くなる。ぷいと靖羽から顔をそむけてうつむく。 「見ないで。ひどい顔だから……恥ずかしい」  東京に越してきて今の仕事を始めてから、自分の外見には敏感になっていた。自分を熱心に応援してくれる客を少しでも喜ばせるために、化粧をしたり肌や髪を整えたりと必死に外見に気を遣ってきた。  そして今は、他の誰でもないこの若い恋人のためにいつも綺麗な自分でいたかった。ただでさえ靖羽は人の目を引く端正で華やかな見た目をしていて、こんな自分が隣に立っていていいのだろうかと気後れしてしまいそうになる。十歳差という年齢や生来の地味な面立ちは変えられないけれど、せめて持って生まれた素材が一番生きるようないい状態を常に維持していたかった。  靖羽の手が伸びてきて、ごく優しい手つきで頬に触れられる。うつむいた頬を大きな手で包まれて、そっと顔を正面に戻される。 「かわいいよ。メイクをしていなくても、そのままでも暖さんは本当にきれいで、かわいい」  靖羽がかがみ込んでくる。唇にキスをされるのかと思いきゅっと目を閉じた暖だったが、唇ではなくその閉じたまぶたにちゅ、と唇を寄せられる。まぶたのごく薄い皮膚に、靖羽の唇の少しかさついた感触が熱かった。 「あと……ちょっと懐かしい感じもする」 「懐かしい?」 「昔の暖さんのこと思い出すから。俺が初めて好きになった、七年前の暖さんのこと」  そう言って靖羽はどこか照れくさそうにふわりと微笑んだ。 「それって、メイクしないほうがいいってこと……?」 「……いや、メイクしてる暖さんも色っぽくて好き。一気に華やかになって、普段とのギャップもあって」 「……ほんと?」  靖羽はどこか幼い仕草でこくりとうなずいた。 「俺さ、まぶたのキラキラしてるやつすごい好き。自然と視線持ってかれるし、なんか……すげえどきどきする」  靖羽はぼそぼそと照れくさそうに話した。柔らかそうな耳たぶがほんのりと赤く染まっているのが愛おしいと思った。照れをごまかすように、靖羽は再び暖を廊下にぐいぐいと押しやってくる。 「ほら、もうすぐごはんできるから。顔洗ってきて」 「……まぶたのキラキラもつけてくるね」 「パンツも忘れちゃだめだよ」 「パンツは忘れないって!」  廊下に出ながら、キッチンに向かって笑いをこらえながら暖は叫ぶ。じわじわとおかしさがこみあげてきて、廊下で暖は一人肩を揺らして笑う。  目が覚めたら靖羽がいて、おはようのキスをくれて、朝ご飯を作ってくれていて、他愛もない話ができて。  夢ではないと頭では理解していても、まだこの幸せな状況が現実であるという実感が持てなかった。洗面所に向かう足取りがふわふわと浮足立った。 「……うわ、すごい……!」  顔を洗って着替えを済ませ、ごく軽く化粧をしてリビングに戻ると、靖羽の作った朝ご飯がローテーブルに綺麗に並べられていた。  靖羽に促されて、ローテーブルの前のラグに直接腰を下ろす。軽く焦げ目のついた柔らかそうなフレンチトーストにふっくらしたオムレツ、サラダがワンプレートに綺麗に盛り付けられている。どれも見た目に美しく、そして量もそれほど多すぎずに圧迫感がなかった。卵とパンとバターの食欲をそそる香りが鼻をくすぐり、暖はごくりと唾を飲み込んだ。 「野菜ジュースも買ってきたけど、暖さん紅茶だよね?」 「あ……うん、」  キッチンから靖羽が問いかけてきて、暖は少し声を張って答える。 「牛乳入れるよ。いい?」 「……おねがいします」  靖羽がマグカップを両手にキッチンから出てくる。暖の目の前に置かれたマグカップには、ミルクティーがなみなみと注がれていた。  暖は昔から朝は紅茶派で、屋敷にいたときもいつも紅茶を好んで飲んでいた。少し濃い目に入れた紅茶に牛乳を注いで飲むのが好きで、靖羽と一緒に朝食を取るときもよく飲んでいた。  東京に来てからは同伴やアフターで家を空けがちなこと、朝はあまり食欲がないことから、足の早い牛乳を自然と買わなくなり、紅茶に牛乳を入れて飲むこともほとんどなくなってしまった。  暖はマグカップを両手で包み、湯気の立つその中身をじっと覗き込む。液面はほとんど褐色に近い暗めのクリームブラウンをしていて、靖羽が意図して濃い目に紅茶を入れてくれたことが見て取れた。 「……覚えててくれたんだ、僕の好み」 「ずいぶん蒸らしてから飲むんだなって、印象的だったから」  靖羽はラグの暖の隣に腰を下ろしながら笑った。  こんな小さなことまで鮮明に覚えてくれているなんて。靖羽が当時からどれだけ自分のことをよく見てくれていたのかを、暖は今になって痛いほどに実感する。 「ごはんもありがとう。すごくおいしそう」 「簡単なやつだけど。――冷めないうちに食べちゃおう」  いただきます、と二人手を合わせる。  鮮やかなケチャップが表面にかかったオムレツを、ナイフで半分に割る。ベーコンだろうか、ふわりと半熟に仕上げられた中からピンク色のかけらが覗いている。とろりと軽く糸を引いているところを見ると、チーズも入っているのかもしれない。一口大に切り分けたそれを、暖はゆっくりと口に運んだ。 「……え……っ、おいしい……」 「食べやすいように半熟にしたりやわらかくしてるけど、味あんまりわからないだろうし、無理しなくていいからね。もし食べきれなかったら俺が……」 「味が……」 「え?」 「……味、すごくはっきりしてる、今日。すごく久しぶりに……こんなにおいしいもの食べた」  妹の(はじめ)を亡くしてからずっと、味覚がぼんやりしたままだった。日によって感じ方に波があり、少しずつ緩やかに回復しているような気はしていたけれど、それでも以前のように何かを心からおいしいと感じることはこの七年の間にはついぞなかった。  今、靖羽の作ってくれたオムレツが、おいしいと感じられる。こっくりした卵の風味、チーズの濃厚な甘み、ケチャップのトマトの味、ベーコンの塩気を帯びた肉の味。それぞれの食材の味が、くっきりと存在感をもって感じられる。  じわり、と視界が揺らいだ。それをごまかすようにもう一口オムレツを頬張る。 「……っ、おいしい……」 「ね。俺、言ったでしょ」  見ると、靖羽が口いっぱいのオムレツを咀嚼しながら幸せそうに笑っていた。 「絶対よくなるって。絶対に、元通り味がわかるようになるって」 「……靖羽、」 「ん?」 「ありがとう」  短い言葉を、暖はゆっくりと重みを込めて紡いだ。ふっくらと形のいい靖羽の唇がにっこりと三日月を描く。 「もっと料理練習しようかな。そんな泣くほど喜んでくれるなら、もっといろいろ作りたいし」 「な……泣いてないよ」  抗議の声が思わず裏返る。いつもにも増して声がかさかさしていて、思うように声が出しづらい。 「暖さん、なんか今日すごい声枯れてるね。大丈夫?」 「うん。上手にハメられて、気持ちよくてつい泣きすぎちゃった」 「っ、ごほ……っ」  暖がさらりと答えたところで、靖羽が咽せて咳き込む。手を伸ばしてその大きな背中を優しく叩いてあげていると、やがて落ち着いた靖羽が大きく息をつく。大きく切ったフレンチトーストをむしゃりと頬張る横顔がほんのり紅潮していた。 「靖羽、大丈夫?」 「……っ、もう……あんたといると心臓が持たないというか、興奮してばっかだ」 「食欲と性欲が同時に両立するの、すごいね。やっぱ若さかな」 「暖さんは? しないの? なんか食ってるときにエロい気分になったりとか」 「ごはんはごはんで集中して食べるし、セックスは……もはやそれ自体が食事みたいなものというか」 「……なんて?」 「下の口で咥え込むわけじゃん」  靖羽がサラダの葉野菜をばりばりと咀嚼しながら、困惑したような目線をよこしてくる。 「……暖さんってたまにちょっとおじさんっぽくなるよね」 「おじさんだよ?」 「違う、違う、そういう意味じゃなくて。……あー、もう……」  靖羽が腰をもぞもぞさせながらラグに座り直す。 「勃っちゃった?」 「……ちょっとだけ」 「あはは、元気だなあ」  弾けるように笑いながら、暖は切り分けたフレンチトーストを口に運ぶ。濃厚なバターの風味と香ばしいパンの味がはっきりと口の中に広がった。自然と頬が緩む。 「靖羽、今日おやすみでしょ? 病院行くの?」 「今日は行かない。できるだけ長く暖さんと一緒にいたいし、代わりに明日少し早めに出ようと思う。……暖さん、今日仕事だよね?」 「うん……土曜日だから出勤」 「……同伴は?」 「今日はないよ」  靖羽は「そう、」と小さくつぶやきながらフレンチトーストを頬張った。綺麗なカーブを描く横顔があからさまに強張っていて、靖羽が何か言えない言葉を飲み込んでいるのであろうことは明らかだった。 「……靖羽、あのね」 「なに」  心なしか、靖羽の声がそっけないような気がした。 「お店辞めること、昨日ママに言ったんだ」  靖羽がぱっと顔を上げる。 「そう……なんだ、」 「今フルタイムの子が少ないから、新しい子見つける期間もある程度見ないとママとか他の子に負担が行っちゃうから。だから、来月末のどこかに卒業イベントとバースデーイベントを兼ねたイベントをやって、そこできっぱり辞めることにした」 「……そっか」 「最終出勤まで同伴やアフターはできるだけ入れないようにするけど、どうしても断れないものもあるから完全にないとは約束できない。でも、休日にお客さんと出かけるのはやめる。……これから休日は、予定合う限りできるだけ君に会いたいし」 「……うん」 「すぐ辞める形じゃなくて、もう少し君に心配かけちゃうかもしれないけど……でも、お世話になったママやお客さんにも迷惑かけずに、しっかり感謝伝えて辞めたかったから……靖羽は、これで大丈夫そう?」 「……うん。大丈夫」  靖羽はフォークとナイフを置いて、紅茶のマグカップを両手で包みこんだ。明るい赤銅色をした液面がゆらゆらと揺れていた。 「あきらママ、寂しがるだろうね。暖さんのことすごく気に入ってたみたいだから」 「あはは……そうかもしれないね、なんだかんだで歴も長いし」 「暖さん」 「なあに?」 「……お店、辞める決断してくれてありがとう」  靖羽はマグカップの中身に視線を落としながら言った。  暖はふっと微笑んだ。 「ううん。僕も器用じゃないというか……仕事とはいえ、真剣に付き合っている恋人がいながら他の男に愛想振りまくのは無理だと思うし。そうでなくても、職業柄やっぱりどうしても君を心配させてしまうようなことって起こり得ると思うから」 「……うん」 「それに、」  暖はナイフとフォークを置いて、隣の靖羽の肩に頭をあずけるように寄り添った。 「君のものになるって決めたから。もう迷わないって、本気で向き合うって決めたから。けじめとして、君を心配させるような仕事はすっぱり辞めるって決めたんだ」  マグカップから離れた靖羽の手が、優しく暖の肩を抱く。ちゅ、と頭頂部に軽くキスを落とされる気配がした。 「……ありがとう、暖さん」  ぴったりとしたTシャツ越しに伝わる靖羽の体温をしばらく頬で感じていた暖だったが、やがてよいしょ、と勢いよく体を起こす。再びフォークとナイフを手に取って、いそいそと残りのオムレツを頬張る。いつになく食事がおいしく感じて、いつになく空腹を感じていた。 「近々ここも引き払って、新しい部屋も探さないとな。ここの家賃、自腹じゃ絶対払えないし」 「というかそもそも、客に住所が割れてるのが普通に危ないから」 「まあ、そうだね。(けい)くんは変なことするような人じゃないと思うけど……」 「他の男の話、あんま聞きたくない」 「……そうだよね。ごめん」  会話が途切れ、二人の間に沈黙が降りる。ただ食事を咀嚼する音だけがリビングに響く。 「あ……あのさ、暖さん」 「なあに?」 「その……よかったら、一緒に住まない?」  暖ははっと顔を上げる。靖羽はやや緊張した顔をしながらも、真剣な目でこちらを見つめていた。 「俺んとこ、今ワンルームですごく狭いから、新しいところ改めて探す形にはなるけど……暖さんさえよければ、一緒に住むところ探して、一緒に引っ越しませんか」 「……靖羽」 「俺は当直もあるし、残業も休日出勤もするし、変な時間に呼ばれて出ていくとかも全然あるから、そのせいで暖さんの生活リズムが狂ったりしてストレスになっちゃうかもっていうのは正直ある。だから、嫌だったら全然いいんだけど、もし……」  おずおずと紡がれる靖羽の言葉の途中で、暖は隣の靖羽にがばりと正面から抱きつく。驚いて声をあげる靖羽の張りのある胸にぐいぐいと頬を押し付けるようにして、強く背中に腕を回す。 「だ、暖さん……?」 「……一緒に住む。住みたいです」  感情が昂ぶるあまり、声が少しだけ震えた。そっと髪を撫でられて、暖は顔を上げる。少し困ったように、けれど嬉しくて仕方ないといったふうに目元を緩めた靖羽と目が合う。暖はこみあげてくる多幸感に任せて、ふわりと顔いっぱいに笑みを浮かべた。 「ふふ……同棲だ」 「また暖さんと一緒に住めるんだね」 「今回は部屋も一緒だし、ただの同居じゃなくて同棲だよ? 同居と同棲は全然ちがうよ」  ふざけて靖羽の顔に自身の顔を近づけるようにして詰め寄ると、靖羽の頬がさっと赤く染まる。表情を隠すようにがばりと肩口に顔をうずめられて、一瞬骨が軋むくらいの強さでぎゅうう、と抱きしめ返される。 「もう……かわいい」 「食べたもの出そう」 「あ……ご、ごめん」  抱きしめてくる腕の強さがふっと緩められる。時折こうして力加減に失敗するところがいじらしいと思う。 「場所、どこがいいかな。靖羽の病院に近いところがいいよね」 「うん……急な呼び出しもあるだろうし、できれば近いほうがうれしいかも。……ああ、でも、あのあたり家賃高いし、あんまり広いところは借りられないかもしれない。暖さん、ベッド一緒でも大丈夫な人?」 「むしろ別にするつもりだったの?」 「いや……だって俺、生活リズム不規則で起こしちゃうかもだし、でかいから一緒に寝たら窮屈かなって……」 「僕は靖羽と一緒に寝たい。靖羽はどうしたいの?」 「……できれば一緒がいい、です」  靖羽がおずおずと告げる。 「じゃあ決まりだね。……あ、でも僕あんま寝相よくないというか、足が動いちゃうタイプみたいで……もしかしたら蹴りとか入れちゃうかもしれないけど、」 「それは大丈夫。暖さんの蹴りなんか大したことないから」 「なんだよそれ!」  軽く靖羽の肩を小突く。声をあげて笑う靖羽につられて、暖もまた笑みをこぼした。  ベンチの硬い背もたれに軽く背をあずけて、暖はぼんやりと空を見上げた。  雲一つない、抜けるような青空。まだ五月下旬だというのに、少し歩けばTシャツ一枚の体がじっとりと汗ばむほどに気温が高い。東京の夏は本当に長いな、と思う。故郷の長野の比較的冷涼な気候が少しだけ懐かしくなる。  高層ビルが立ち並ぶ都心では珍しいくらいに広い芝生が整備され、豊かな木々が植えられた大きな公園の一角。木陰の下に設えられたベンチの一つに腰掛けて、暖は目の前を行き交う人々をぼんやりと目で追っていた。若いカップルや子ども連れの家族、ランニングに励む人々。土曜日ということもあって、都心の公園は人で賑わっていた。  マンションで遅めの朝食を取ったあと、靖羽と二人連れ立って外に出かけた。欲しい本があると言った靖羽の買い物に付き合って大型の書店に行ったあと、最近新しくできた商業施設をぶらぶらと見て回り、暖もまた茶葉や雑貨などの細々した買い物をした。それでも暖の出勤まではまだ時間があったので、何をするでもなくただ会話をしながら公園の中を散歩していた。  暖はベンチの横に置かれた紙袋を手に取る。つい数分前、「ちょっと休憩しよう、飲み物買ってくるね」と言って靖羽が置いていったものだった。ずっしりと重たい紙袋をごそごそと探って、中に入った三冊の本を取り出す。分厚い背表紙には「内科レジデントのための基本マニュアル 第三巻」「抗菌薬の使い分け」「やさしい医療統計」とそれぞれ書かれている。医学書の棚の前で真剣に本を選んでいた靖羽の横顔をふと思い出す。ぱらぱらと中をめくってみるが、複雑な図と難しそうな専門用語がずらりと並んでいて、暖には内容がまったく理解できない。ぱたんと本を閉じながら、暖は感嘆のため息をついた。  離れていた七年の間、靖羽はどれだけ努力を重ねたことだろう。自分が屋敷にいた頃、つまり靖羽が高校二年生の春休みを迎えようとしていた頃には、彼はまだ就職を視野に入れて卒業後のことを考えていたはずだ。高校三年生に上がってから医学部を目指して、現役で医学部に合格し、最短で研修医になるなんて。大学に行ったことがなく医療関係のキャリアパスに疎い暖でも、靖羽の成し遂げたことはとても並の人にはできないことなのだろうということはわかった。 「……ほんと、すごいな。靖羽は」  本を元通り袋に戻しながら、暖はぽつりとつぶやく。  昔から、靖羽の目が好きだった。  凛として、強い意志を宿して、いつもきらきらと輝く黒目がちの大きな目。少し不器用で朴訥気味なところはあったけれど、深い思慮の末に発せられる言葉や振る舞いの一つ一つに嘘がなくて、有言実行をまさに地で行くような誠実さや強さがあって。そんな彼だからこそ、何かしらの分野で必ず大成して、結果を残すと思ってはいたけれど。まさか、医者になって会いに来るなんて予想できなかった。  靖羽が必死に駆け抜けたであろうこの七年間。自分は、どうだっただろうか。暖はじっと考える。  最初こそなりゆきで始めた店子だったが、結果的にそれなりに一生懸命にやってきたと思う。三十代に入ってからは決して若くない年齢に抗うように必死に自分を磨き、たくさん店外もして、ここ数年は店の売上にも大きく貢献できているはずだった。ここ最近はあきらママから「暖くんを近々チーママにしようと思ってるんだけど、どう? お店を一緒に回していく側に立ってほしいの」という打診ももらっていて、このまま一生二丁目で水商売をやりながら一人で年を取って、そして一人で死ぬのだと思っていた。  けれど今、自分はその水商売を諦めようとしている。  後悔はない。靖羽と一緒になる覚悟を決めた時点で、心は決まっていた。靖羽を悲しませないため、そして自分自身にけじめをつけるため、水商売を上がって他の仕事を探す、と。  けれど、高卒で大した職歴もなくここまで年齢を重ねてしまった自分には何もない。  唯一、()()を除いて。 「暖さん、お待たせー」  少し離れた前方から声をかけられて、暖ははっと現実に戻る。両手にカップに入った飲み物、そして腕から紙袋を提げて、大股で歩きながらこちらに向かってくる。  靖羽は腰の位置が高い。昔から手足が長い子だなと思っていたけれど、この七年で背が伸びてさらに脚がすらりと長くなったと感じる。彼の中に流れる外国の血のせいだろうか、背が高く彫りが深い顔立ちの彼はただ歩いているだけでとにかく人目を引く。靖羽とすれ違った二人組の女性が、ひそひそと囁き合いながら靖羽を振り返るのが見えた。  とくん、と暖の心臓が高鳴る。  内面や性格はもちろんだけれど、靖羽の容姿も暖を惹きつけてやまない大きな要素の一つだった。こうしてふとした瞬間に何度でも彼に見とれて、何度でも惚れ直す。そしてそのたびに、こんなに綺麗な男が選んだのがよりによってなぜ自分なのだろうか、と純粋に不思議に思う。 「ん……? どうしたの?」  じっと靖羽を見つめたまま言葉もない暖に、靖羽は怪訝そうに問いかけながらベンチの暖の隣に腰掛ける。 「……かっこいいなあって」 「どうしたの、いきなり」 「ねえ靖羽、美人は三日で飽きるっていうけどさ、そんなことないよね」 「うん、ほんとそう思う」  そう言って靖羽は暖の肩を軽く引き寄せて、ちゅ、と髪に短いキスを落とす。ごそごそと紙袋を探り始める靖羽を見ながら暖は首をかしげる。 「……なんか勘違いしてる気がする」 「入り口のとこにカフェがあったから、そこでいろいろ買ってきたよ。……はい、どうぞ」 「わあ……なんだろう、これ」 「レモネード。アイスティーにしようと思ったけど、もう夕方だしノンカフェインのなにかのほうがいいと思って。――暖さん、カフェイン敏感でしょ?」  靖羽がストローを刺して渡してくれたプラスチックカップのそれは、淡い黄色の飲み物で満ちていた。  そういえばカフェインをとると眠れなくなる、という話を昔靖羽にしたような気がする。そんなことまでしっかりと覚えていてくれていること、そして細やかな心遣いが嬉しい。  ちゅ、とストローを吸ってレモネードを口に含む。途端、甘酸っぱいレモンの風味が確かに口に広がる。酸味への反応が半分、そして味覚がはっきりしていることへの嬉しさ半分で、暖はきゅっと目を閉じた。 「おいしいー。喉渇いてたからすごく染みる」 「暑いもんね。まだ五月なのに」 「東京暑すぎて、こっち来たばかりのときは毎日死にそうになってたよ」 「暖さん、ずっと長野だったんだもんね。……今は? 暑さとか、人混みとか、慣れた?」 「うん……七年もいるから、さすがにそこそこ慣れてきたかな。……でも、まだ人混みは苦手。満員電車には極力乗らないようにしてる」 「こんな激混みの休日の都会に連れ出しちゃって、大丈夫だった? 疲れてない?」 「靖羽と一緒だから、大丈夫。……すごく楽しいよ」  アイスティーのストローを吸いながら、汗ばんだ額に張り付く暖の前髪を指先でそっとよけてくれていた靖羽が、暖の返答に安心したようにふっと表情を緩める。  アイスティーのカップをベンチの上に置いて、靖羽がおもむろに紙袋から小さな包みを取り出す。暖の視線に気づいて、靖羽がどこか気恥ずかしそうに肩を竦めた。 「……サンドウィッチ。おいしそうだったから、買っちゃった。ちょうど小腹も空いてたし」  昔から靖羽はよく食べる子だったなと思い返す。体が大きい上よく頭を使うから、きっと人より食べないともたないのだろう、と暖は勝手に想像する。 「一緒に食べる?」 「一口だけもらおうかな」  靖羽に差し出されたサンドウィッチめがけて、口を開ける。尖った三角の先にかぶりつくのが難しくて、口を開けたまま右に左に首を傾けていい角度を探していると、靖羽が「かわいい」とくすくすと笑う。ようやく小さくかじり取ったサンドウィッチは、レタスやチーズ、ローストチキンの味がはっきり感じられた。 「おいしい」 「ん、からししっかりめでおいしい」  靖羽は大きな一口をわしわしと豪快に咀嚼しながら言った。  サンドウィッチを食べ進める靖羽の横で、暖は周囲をゆったりと見回す。すぐ頭上にはずらりと立ち並んだ高層ビルの群れが見えるけれど、公園の中は木陰がたっぷりとあって空気が穏やかな気がする。ゆったりと流れる、週末午後の時間。それをこうして靖羽とともに過ごせていることが、未だに信じられないような心地がする。 「昼間、明るいうちにこうしてデートするのはじめてだね」 「お互い酒飲んでないのもね」 「ほんとだ。……なんかちょっと、変な感じ」 「あんたは少し酒控えたほうがいいよ。今の状態だと明らかに飲み過ぎだから。体によくない」 「お店辞めたらだいぶ減ると思うけど、その分家でも普通に飲んじゃいそう」 「今のペースで飲むのは絶対だめ。最低でも週二日は休肝日も設けて、そもそもの量を減らさないと」 「なんか、お医者さんみたいだね」 「お医者さんですけど」 「そうだった」  暖がくすくすと笑うと、靖羽も困ったように笑う。けれどすぐにすっと笑みを引っ込めて、どこか思い詰めるように視線をうつむかせる。 「だって、暖さんが心配で、大事だから。……ちゃんと元気で長生きして、隣にいてもらわないと」  靖羽の真剣な表情に、暖ははっとする。  十歳の年齢差は、靖羽にとってもきっと決して小さいものではないだろう。自分はどうあっても、靖羽よりも早く老いて衰える。靖羽より先に自分が死ぬ可能性のほうが、ずっと高い。  未来のことまで考えて不安になってしまうほどに、靖羽が自分との関係を真剣に考えてくれている事実がどうしようもなく暖の胸を温かくする。天涯孤独で身寄りもおらず、ただ死なないように暮らしているばかりで、別に無理して長生きなどしなくていいと思ってきたけれど。靖羽が隣にいてくれるのならば、自分も考えを改めなくてはいけないと思った。 「……うん、そうだね。ちゃんと健康のことも考える」 「そうしてください」  靖羽が食べ終わったサンドウィッチの包みを潰しながらぎこちなく言った。  ざわりと風が吹いて、頭上の木々がざあっと音を立てた。ふと見上げると、青々とした葉のついた梢が揺れていた。葉の向こうに透ける青空が眩しい。 「夏が来るね。ここから梅雨が来て、それが終わったらもう夏だ」  暖は空を見上げたまま息をついた。 「君と出会った季節だ」 「……うん。俺にとってもすごく印象的な季節というか……夏になるといつも、あんたのこと思い出してた」  ちらりと横を見遣る。靖羽もまた、暖と同じように空を見上げていた。浅黒い喉元にくっきりと出た喉仏が綺麗だと思った。 「ねえ、靖羽」 「うん?」 「いつから好きだったのか、って聞いたよね。君のこと」 「……うん」 「靖羽は? 君は僕のこと、いつから好きだったの?」  暖の問いに、靖羽はしばらく静かに考え込んでいるようだったが、やがて空を見上げたままゆっくりと口を開いた。 「最初の印象は、姿勢がよくて所作がきれいで、品があって、笑顔がかわいい人だなって感じだった。世話好きそうで、優しそうで……あと、目がぽってりしてて眠そうでかわいいなって」 「……それ、悪口?」 「ち……違う! 俺、暖さんの目すごい好きなんだ。白くてやわらかそうで、切れ長でかっこよくて……まぶたに眼球の形がぽこっとまあるく出るところとか、笑うと目がすごく細くなるところとか。……本当に綺麗で、色気があって、かわいくて……大好きなんだ」  必死にこちらに詰め寄りながら言葉を連ねる靖羽がいじらしい。暖は口を尖らせながらも、そのいじらしさに免じてそれ以上何も言わず「それで?」と続きを促した。 「あ……ええと、それで……最初からすごくかわいいな、綺麗な人だなって思ってはいたけど、最初はそれが恋愛感情なのかどうかはわからなかった。俺、あのときまだ自分がゲイだって自覚してなかったから」 「……そうだったんだ」 「家族のように、兄のように思って頼ってほしいって言ってもらえて、うれしくて……家族愛とか憧れみたいな感情なのかなって思ってたけど、あとになってみればきっと最初からそういう意味で好きだったんだと思う、あんたのこと」  靖羽は思考を整理するように、訥々とゆっくり話した。  靖羽もまた、最初から自分に想いを寄せていてくれたのか。その事実が、暖の胸の中にじわりと静かに染み込んでいく。  ずいぶん遠回りをしてしまったな、と思う。  当時は二人の間を阻む要素があまりに多すぎて、一緒になるという選択肢を取ることはできなかったけれど。それでも、こうして靖羽の隣に恋人として立てるようになるまで、本当に長かったなと思う。 「あんたがこないだ言った通り、思春期の憧れとか一過性の勘違いだったのなって……そう自分に言い聞かせて、忘れようともした。そりゃ、十七の性欲ガンガンの盛りにこんなエロいお兄さんが近くにいたらさ、俺じゃなくても変な気持ちになるよなって」 「ふふ、言い方」 「ほんとじゃん。……でも、だめだった。忘れられなかった。何年経っても、あんた以外考えられなかったんだ」  靖羽は自身の膝を見つめるようにうつむいて、どこか陰のある笑みを浮かべた。 「暖さん。俺の人生を狂わせてしまうかもしれないのが怖いって、あんたは言ってたよね。でも、俺はもうとっくに人生狂わされてるよ」 「……靖羽、」 「あんたに狂わされて、本当によかった」  靖羽が顔を上げて、ふっと微笑んだ。思わずぞくりと背筋が震えてしまうほど、底知れぬ色気を孕んだ美しい笑みだった。 「ねえ……靖羽、」 「なに?」 「君は『運命の人』って信じる?」  暖の問いに、靖羽がどこか探るような目をしておずおずとこちらを見つめてくる。 「……もしかして、また誰かから何か聞いてる?」 「なんのこと?」 「……っ、暖さんはどうなんだよ」  暖が答えようと口を開きかけたところだった。  暖の足元に、ころころと黄色のボールが突然転がってきた。ふと顔を上げると、視線の先、芝生が整備された広場の方から小学校低学年くらいの男の子数人が駆け寄ってくるところだった。  暖はボールを拾い、ベンチから立ち上がる。駆け寄ってきた男の子の一人にボールを軽く投げ渡すと、男の子はにっこりと笑った。 「お兄ちゃん、ありがとう!」  そして子どもたちは踵を返し、談笑しながらぱたぱたと広場のほうに戻っていく。その背中をしばらく見送ってから、暖は再びベンチに腰を下ろすと、隣の靖羽の肩をゆさゆさと揺さぶった。 「どうしよう、お兄ちゃんだって! おじちゃんじゃなかった」 「いや、そりゃそうでしょ……あんた、まだまだおじちゃんって感じじゃないよ」 「いいなあ……子ども、かわいいなあ」  楽しそうにはしゃぎ声をあげながらキャッチボールに勤しむ子どもたちの集団を、暖は目をすがめて見つめる。  昔から子どもが好きだった。よく懐かれるということもあり、箏を教えていたときも児童や小学生の教え子がそれなりにたくさんいた。目まぐるしく物事を吸収し、あっという間に大きくなる彼らのそばで成長を見守ることに幸せを感じていたし、純粋な目をした彼らに無邪気に頼られることが嬉しかった。  以前は、自分もいつかは女性と結婚して、子どもをもうけるものだと思っていたけれど。  そんな選択肢は、いつしか消えてなくなっていた。一人で生きていくと決めたのもあるし、利羽に体を開かれたのをきっかけに女性を抱く自信を打ち砕かれたというのもあった。  そして、今は。 「……本当にいいの? 暖さん」  突然、靖羽が静かに問いかけてくる。黒目がちの大きな目が、静かに凪いでいた。 「子ども、好きなんでしょ。俺といたら一生子どもは産まれない。考え直すなら、今のうちだよ」 「何を考え直すの? お付き合いをするかどうかってこと?」 「……そう」 「もう僕はとっくに君のものになって、取り消せないと思ったけど。今さら『やっぱやめます』って言ったら、昨日のこととか全部チャラになるの?」  少し意地悪な口調で微笑みながら問いかけると、靖羽は困ったようにしばらく口元をもごもごさせて、そしてふるふると力なく首を横に振った。大きな体がへなへなと脱力しながらもたれて、しがみついてくる。 「……だめだ。やっぱり、何があってももう手放す気ない。あんたのこと」 「そうやってお兄さんを試すようなこと言って。だめでしょ」 「……はい……ごめんなさい」  妙に改まった口調で素直に詫びて、肩を抱きしめてくる靖羽がいじらしい。  周囲の目も気にせず、暖は力強く靖羽の大きな体を抱きしめ返す。 「大丈夫。心配しなくても、僕には君だけだから。『運命の人』がそんなに何人もいたら困るでしょ」  暖の言葉に、靖羽がはっと顔を上げる。黒い大きな瞳が潤むように揺れたあと、再び肩口に顔を伏せられる。 「……うん」  少しだけ、声が震えているような気がした。少し汗ばんだ、愛おしいその黒髪を暖は指で梳いて、そして慈しむように唇を落とした。
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