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薬指の結婚指輪
平日の午前11時、もう少し遅ければ高校生が大挙して押し寄せるだろう店内は静かだった。
拓真 「窓際の席、にしましょうか。」
玲 「あ、はい。」
(き、気不味い。意外とお客さんが少なくて、これは気不味い。)
拓真 「はい、メニュー。僕は決まっているから、どうぞ。」
玲 (僕って呼ぶんだ。可愛い。いやいや、それよりメニュー!)
「あ、こ、これで。」
慌てふためいた玲が、メニューにあるパスタのページを開いて思わず指差した、小エビのたらこソースはなかなか見た目がグロテスクだった。後悔、刻すでに遅し。
拓真 「分かりました。フリードリンクは付けますか?」
玲 (た、立つ時間が稼げれば、尚、良し!)
「あ、お、お願いします!」
拓真 「かしこまりました。」
玲 「え?」
拓真 「あ、職業柄。すみません。」
玲 「お、大野木さんは、どんなお仕事をされていらっしゃるんですか。」
拓真 「あぁ、ウィスキーのバーを経営しています。」
玲 「して、います?」
拓真 「僕、これでも店長なんです。」
玲 「ふへぇ。」
玲は間抜けな返事をしてしまい、慌ててベージュのソファーに座り直した。
玲 「そ、そうなんですね。お店、お近くですか?」
拓真 「はい、柿の木畠の小さな店です。」
玲 「近い、すぐそこですね。」
拓真 「ええ。いつかいらして下さい。」
玲 「は、はい。」
ピンポーン
拓真 「小エビのたらこソースと、ミラノ風ドリア、お願いします。」
店員 「繰り返します、小エビのたらこパスタとミラノ風ドリア、フリードリンクがお二つでお間違えないでしょうか?」
拓真 「はい。」
店員 「少々、お待ち下さい。」
大野木拓真はテキパキとメニューをオーダーし、氷で冷えた水のグラスや紙ナフキン、粉チーズ、タバスコの赤い小瓶、空のプラスチック製のグラスを二個、手際よくテーブルに運んで来た。確かに水商売、動きが流れるようにスムーズで無駄がない。玲はその様子を、ソファーに腰掛け、ただぼんやり眺めているだけで精一杯だった。
玲 「す、すみません。ぼんやりしていて。」
(ぜったい、絶対、気が利かない女だと呆れられている!)
拓真 「いえ、良いんです。ドリンク、お先にどうぞ。」
玲 「は、はい。」
大野木拓真は、ドリンクコーナーに辿々しく向かう玲の後ろ姿を眺めながら肘を突いた。
拓真 (そんな不倫できるような器用な人には見えないんですよねぇ、何だか、しっくり来ないんですよねぇ。)
フリードリンクコーナーでは氷をグラスに入れようとしてもボロボロと床に落とし、メロンソーダのボタンを押しすぎてグラスから溢れた緑の液体に慌てる横顔。こちらをうかがい、はにかみながら軽くお辞儀をする姿は、とても演技をしている様には見えなかった。
水商売。
有象無象、多くの客と接する大野木拓真は、それなりにその人柄を見極める自信があった。福田玲の仕草や言動は、どこからどう見ても、男慣れしている女性のそれではない。
玲 「あ、ごめんなさい、お待たせしました。」
(あぁ、恥ずかしい。ドリンクだけでこんなに慌てるとか、もう。)
拓真 「じゃぁ、僕、行って来ますね。」
玲 「は、はい。」
大野木拓真がプラスチックのコップを持って席を立ち、テーブルを後にした瞬間、福田玲はふぅ、とため息を吐いた。
拓真 (ふぅ?)
それは決して退屈で漏らしたものではなく、解放された、安堵のため息。
緊張がありありと伝わって来る。
大野木拓真が席を外している間、ありがちな携帯電話をいじる姿もなく、4階から見下ろす大通りの行き交う車の流れを、両手をキッチリと膝の上で揃えて微動だにせず眺めている。
余裕がない証拠だ。
拓真 (浅海さん、もしかしたら、この人、違うかもしれませんよ。)
熱々のドリアにスプーンを差し込むと湯気が上がった。
テーブルを挟んで向かい側に座る正体不明の女性は、小エビのたらこソースパスタをスプーンの上でフォークでくるくると巻いては、その先が小エビに引っかかり、麺を二、三本垂らしながら口へと運んでいる。
拓真 「福田さん。」
僕の呼び掛けに、反応が無い。
聞こえていなかったのかともう一度声を掛けたが、小エビが盛られたややグロテスクなパスタから顔を上げる事は無かった。
拓真 「福田さん、福田玲さん。」
玲 「あ、あっは、はい!」
拓真 (ようやく、やっと気が付いた。福田は、偽名?)
「どうしましたか?」
玲 「あ、どう、しましたか、とは。」
拓真 「いえ、お名前を呼んでも気が付かれ無かったので。」
玲 「あ、ご、ごめんなさい。小エビに夢中、で。」
(やばい、忘れてた!私は、福田、福田玲!)
拓真 (ちょっと、焦ってる?)
顔付きが変わったので試しに名前を呼んでみた。
拓真 「玲、玲さんはどんな漢字で書かれるのですか?」
玲 「あ、王さまの王に、令和の令です。」
拓真 (これは早い、名前、玲は間違いない、かな。)
「綺麗な名前ですね。」
玲 「ありがとうございます。」
プラスチック製の水滴が着いたグラスを手に、ストローに手を添えてメロンソーダを吸う。手や指に手荒れが無い、爪も少し長い、薔薇の棘で傷も付くだろうがそれも無い、花を扱うフラワーショップ勤務というプロフィールも嘘かも知れない。それに、接客業にしては会話の受け答えが・・・とても、鈍い。
拓真 「玲さんは、僕の何処が気に入ってお返事くれたんですか?」
玲 「あ、え、その。」
拓真 「何となく?」
玲 「あ、身長が169cmって細かく書かれていて、正直な方なのかなって。」
拓真 「正直?」
玲 「普通、もう少し盛って170センチメートルとか。」
拓真 「あ、あぁ。」
玲 「はい。」
拓真 「それだけですか?」
玲 「はい。あとプロフィールのお写真が優しそうだった、ので。」
拓真 「そ、そうですか。」
拓真 「実際、会ってみてどうでしたか?」
玲 「あ、小さいなって。」
(ーーーーあーーーー!何、馬鹿正直に答えてるの、私!)
拓真 「・・・・・。」
玲 「あ、でも!かっこいいなって!」
拓真 「お気遣い、ありがとうございます。」
玲 「え、いえ!本当に、ほ、ほんと、う、に。」
(本当に、かっこいいと思います。はい。)
そこまで言うと福田玲は真っ赤になって俯いてしまった。
自分の言動に恥ずかしがっているのだろうか。
いやいやいや、そこまで照れられるとこちらまで恥ずかしくなる。そこで荒れ狂う浅海さんの顔が目に浮かんだ。
浅海(回想)『大野木くん!仕事してる!?五万円返しなさいよ!』
そう、この子があの福田玲なのか確かめる事が、僕の任務。
拓真 「玲さんはご主人さんと結婚されて何年ですか。」
玲 「あ、に、2年?」
拓真 (何故に疑問形。)
「どちらでお知り合いになられたんですか。」
玲 「あ、アルバイト先で。」
拓真 「そうなんですね。」
玲 「は、はい。」
それにしても、会話のキャッチボールが成り立たない。
無言の時間を繋げるように、福田玲のぽってりした唇はストローを食む。
また、メロンソーダ、しかもズズズと吸っている。
飾り気がないと言えばそうかも知れないけれど、ズズズは無いだろう。
拓真 「あ、メロンソーダ、おかわり持って来ましょうか?」
玲 「いえ。じ、自分で!」
まるでこのソファに座っている事が居た堪れないという雰囲気。けれど、嫌われている様でもない。
掴みどころが無いというか、何というか。
拓真 (あの、ぽてっとした唇、可愛いな。)
仕事柄、人目につく鮮やかな彩り、グロスで不自然に艶めいた唇ばかりを見慣れている所為か福田玲のオリーブオイル塗れの唇が愛らしく映った。
拓真 (今度はオレンジジュースなのか。)
ソファに座る際にふわりと香る、ボディーソープに似た匂い。これも新鮮だった。
福田玲は大野木拓真が求めていた、『昼の世界に生きる誰か』だった。
いやいやいや、これではミイラ取りがミイラになってしまう。自分までもが、瑛二と同じ轍を踏む所だった。
拓真 (もしかしたら、この自然体が魅力なのかも知れないな。)
瑛二は、ブラックチェリーのバーカウンターにプラスチック製のグラスを叩きつけてウイスキーを飲み干す浅海とは、違うタイプの女性を求めたのかもしれない。さて、どうしたものか。
拓真 「福田さん、あ、玲さんってお呼びしても宜しかったでしょうか。」
玲 「あ、はい!」
拓真 「玲さん、僕は不合格でしょうか。」
玲 (え、どう言う意味!?)
「はい?」
拓真 「僕の事、何も訊ねて下さらないので、退屈なのかなって。」
玲 (いやーーーーーーー!しまったーーーーー!)
福田玲は両手を胸の前でアヒルのようにパタパタさせ、力一杯それを否定した。
滑稽なくらいに焦っていた。
しかも面白い事を言う。
玲 「あ、ごめんなさい!男の人と話した事がなくて!」
拓真 「え?」
玲 「な、慣れてなくて!」
拓真 「は?」
玲 「はい!ごめんなさい!」
どういう事だ。
拓真 「玲さん、ご結婚なさっているんですよね。」
玲 「は、はい。」
拓真 「ご主人以外の男性とはお付き合いされた事がない、という意味ですか?」
玲 「そ、そそそ、そうです!しゅ、主人以外の男の人は、は!」
この挙動不審感、演技ではなさそう。
しかも、今、気が付いたのだが、左の薬指に結婚指輪が無い。
フラワーショップ勤務で指輪が傷むので外しているのかも知れないけれど、何か引っ掛かる。
拓真 「玲さん、男の人と話すのが苦手なのに、Queen に登録されたんですか。」
玲 「は、はい。」
(し、自然に、ありのまま正直に。正直に言うのよ、玲!)
拓真 「あまり慣れていらっしゃらない感じで。」
玲 「はい?」
拓真 「失礼ですが、僕が初めてのマッチングパートナーですか?」
玲 「はい!」
拓真 「え。」
玲 「初めてなんです、緊張しちゃって。」
拓真 「そう、なんですか。」
玲 「はい。あまり話せなくてごめんなさい。」
拓真 「え、いえ。」
初めて、初めてだそうですよ、浅海さん。
この、福田(仮)玲さんは、瑛二さんの不倫相手では無いかも知れないですよ。
これじゃ、頭脳戦も何もあったものじゃ無いですよ。
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