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不倫の証拠を集めて頂戴!
ここはAgreement、ウイスキー専門のBAR。
大通りの街灯の角で石畳の小径で曲がる。
足元を照らすライトを三、四、五個でユーカリの樹が揺れる煉瓦の外壁。
マホガニーの重厚な扉、ドアノブは真鍮。ぎいと鈍い音を立てて扉を押すと寂しげなチェロを奏でる蓄音機が針を飛ばしている。
時々、ブツブツと途切れる曲調。間口は狭く、奥行きは艶々としたダークチェリーのカウンター席が八脚分、あとはお手洗いとスタッフルーム。二階への狭い階段は、バーのマスターである大野木拓真が一人で住む2LDKのフローリングへと続いている。
浅海 「ねぇ、大野木くん。」
拓真 「はい。」
大野木拓真がカウンターの中で白い布巾を手に取りグラスを磨いている。
声を掛けたのは彼のセカンドパートナーの女性、浅海だ。
大野木拓真は『昼の世界に生きている誰か。』と接する事で新鮮な空気を感じたかった。
水商売、深夜営業、それは深い湖の底に沈んでいるような息苦しさ。
明るい陽射しを感じて癒されたかった。
そんな時、駅前でティッシュを配っている女性から受け取ったそれに同梱されていた一枚のチラシ。
拓真 「既婚者限定、セカンドパートナーマッチングアプリQueen。」
そして、浅海という女性とマッチングするに至った。
浅海はアッシュグレーの肩までのワンレングス。
薄化粧。
黒いタイトなノースリーブのワンピースに黒いレース編みのカーディガンを肩に掛けていた。
勿論、左手の薬指にはやや光沢が鈍くなったプラチナの指輪が嵌はまっていた。
あくまで話し相手、手を繋ぐなんて以ての外、穢けがらわしいと言い退けた浅海の姿勢に同意した大野木拓真は、彼女にセカンドパートナーとしての交際を申し込んだ。大野木拓真と浅海の関係は清く正しく、かれこれ半年になる。
拓真 「何でしょうか。」
浅海 「うちの夫が不倫しているかもしれないのよ。」
拓真 「瑛二さんが?」
浅海 「そうなの!どうしたら良いと思う?」
拓真 「どう、とは?」
大野木はグラスから視線を上げた。
大野木拓真(29歳)
やや面長で肌はイエローベース。
ブリーチやカラーリングを施していない黒髪、柔らかくふわりとしたクセ毛、襟足は短く清潔感がある。
眉毛も柔らかなカーブを描き、目尻は切れているが黒目がちな円な瞳。
鼻筋は通って小鼻は程よい大きさ。唇は薄くて小さい。
夜の仕事に従事しているにも関わらず、健康的で爽やかな雰囲気を醸し出している。
身長は169cmと小柄、可愛らしい。
白いカッターシャツに黒いスラックス、黒革の靴と至って飾り気のない出立ち。
拓真 「お二人ともセカンドパートナーを容認されていらっしゃいますよね。」
浅海 「そうよ。」
拓真 「そして、ご夫婦でそれぞれセカンドパートナーとお付き合いをされている。」
浅海 「そうよ。」
浅海は悪びれた風もなく、当然とばかりにあっけらかんと答えた。
浅海 「あくまでセカンドパートナーは恋人でもなければ不倫相手ではないわ。」
拓真 「そう、ですね。」
浅海 「私たち、手すら繋いだ事、無いじゃない。」
拓真 「ですね。」
浅海 「こんな小動物の僕とは手を繋ぎたくもないわ。」
拓真 「それは心外です。」
浅海 「怒った?」
拓真 「いえ、別に。」
浅海は39歳、拓真より10歳年上だ。
先ほどからちょろちょろと出てくる、浮気疑惑の嫌疑を掛けられている浅海の夫の名前は瑛二、彼も39歳である。
浅海 「でね。」
拓真 「はい。」
浅海 「その不倫相手の素性を知りたいの。」
拓真 「何をするつもりですか?」
浅海 「ドラマでよくある、『この泥棒猫!』って路上で顔を叩くのもアリだわよね。」
拓真 「傷害罪になりますよ。」
浅海 「そうね。」
拓真 「悪いのはご主人さまの方では無いですか?」
浅海はグラスの中、琥珀色に浮かぶ氷をベージュのネイルでカラカラと回した。そして肘を突いてしばし考えた。
浅海 「ま、それもそうね。」
拓真 「ですよね。」
浅海 「でもね、大野木くん!」
拓真「はい。」
拓真は少し付き合い切れないような仕草で、背後の棚に並んだウイスキーの瓶を一本、一本拭き出した。
浅海 「相手が如何にも『パパ活してまぁす♡』みたいなお嬢さんだったら、夫の趣味を疑っちゃうし、なんだかムカつくわ。」
拓真 「浅海さん、もうそんなに若く無いですしね。」
浅海 「うるさいわね!」
拓真 「はい、はい。」
浅海は残りのウイスキーをぐいっと飲み干し、グラスをタン!と勢いよくカウンターテーブルの上に置いた。
拓真 「あぁ、そんな乱暴に。割れたら弁償して下さいね。」
浅海 「大野木くん!」
拓真 「はい。」
浅海 「五万円、払うわ。」
拓真 「身体は売りませんよ。」
浅海 「要らないわよ、そんな毛も生えていないような身体。」
拓真 「・・・・生えてます。」
大野木は両脇を天井に向けて万歳して見せた。
浅海 「夫の浮気相手、探して頂戴!」
拓真 「えぇ、面倒くさい。」
浅海 「五万円。」
拓真 「分かりました、お受けします。」
浅海 「現金な男ね。」
拓真 「キャッシュでお願いします。」
浅海 「その現金じゃ無いわよ。」
拓真 「はい。」
浅海はカウンターテーブル越しに手を差し出した。
拓真 「なんですか、それ。」
浅海 「契約成立。」
拓真 「それ言い訳にして僕の事、狙ってません?」
浅海 「お馬鹿なの。」
拓真 「すみません。」
拓真も手を差し出す。
小柄な割に、意外と大きく分厚い逞しい手だ。
浅海 「あら、意外といい感じね。」
拓真 「身体、売りませんよ。」
浅海 「要らないわ。」
拓真 「すみません。」
Agreement 合意、承諾、契約
さて、瑛二の不倫相手とはどんな女性なのか。
浅海に五万円で買われた大野木拓真のお遊び程度の探偵業が始まる。
結局、浅海は近所のコンビニエンスストアのATMで五万円をおろし、ダークチェリーのバーカウンターに百人一首のカルタを叩きつけるように置いて鼻息荒く帰っていった。
浅海 「またね!おやすみ!」
よほど夫の不倫疑惑に腹を立てているようだ。
セカンドパートナーとは既婚者限定のマッチングアプリを介しての出会い、上品に表現すれば社交場で知り合った相手とお付き合いする関係だ。そこにはただ一つ決まり事がある。
不倫をしない事。
どの辺りからが不倫なのか不確かだが、確実に言えるのはセックス、要するに肉体的な男女関係を結ぶ事は御法度。慰謝料云々、最悪、互いの家庭を壊す離婚問題に発展するからだ。セカンドパートナーと称して個室で頬擦りしたり、手を握り合う方々も中には居るらしいが、よほどの賢者でなければそのまま手は下へ下へと向かうだろう。
拓真 「おはよう。」
美由 「ん。」
そんな事を考えているとパートナーである美由が羽毛の掛け布団から顔を出した。
拓真 「僕はそんな事はしないよ、美由とこうしていれば、それだけで幸せだもの。」
美由 「みゅ。」
拓真 「ね、美由。」
美由 「みゅみゅ。」
木枠の窓、リネンの上質な生成りのカーテンから降り注ぐ陽射し。
今朝は浅海の愚痴に付き合い、ベッドに入ったのは朝方だった。
資源ゴミ収集車がガラス瓶やビール缶をバリバリと呑み込む音がしてなかなか寝付けなかった。
拓真 「時給換算すれば、五万円は相場より安いんじゃない?」
何となく腑に落ちないが、拓真は美由が待つベッドにもう一度潜り込んだ。
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